一週一言インデックス

2020年12月18日金曜日

汝自らを知れ そして汝自分であれ

今週の一週一言

12月7日~1月3日

汝自らを知れ そして汝自分であれ

西光万吉

西光万吉(1895-1970

戦前の部落解放・社会運動家。全国水平社設立の中心的人物で、水平社旗の意匠考案および水平社宣言の起草者として知られる。

【如是我聞】

一年とちょっと前に「身の丈発言」により、長らく教育界を混乱に陥れた大学入試改革は、急速に収束に向かった。まだまだ混乱の渦中だが、それとは別の禍も加わって、すっかり色あせた感がある。多くの非難を呼んだ発言であったが、日本で一番田舎と言われる土地の出身者であった私からすれば、「入試なんてそんなもんだろ」という感想に過ぎなかった。

 この世界に差別はある。様々な差別が取りざたされた一年だったが、もっと根源的な差別だ。スタート地点が明らかに違う。貧乏よりは金持ちの方がいいに決まっている。ブサメンよりはイケメンの方がいいに決まっている。ゴールに向かって、「ヨーイ・ドン」でスタートするが、スタート時期も違えば、スタート地点まで違うのがこの世の中だろう。理不尽この上ないが、しょうがない。

何度か身の程を知った一年だった。それは、自分があまりに無力で無能だと思い知ったことがあったからだ。なんだか一気に年を取った。

 あなたはまだこれからの人なのだからと、優しく微笑みながらおっしゃって下さる方がいる。困惑した笑みで何か返そうとするが、返す言葉が見つからない。心の中では、いやいや僕はもうこれまでの人ですよと、再び身の程を思い知る。

 身の程を知ってしまうと、これが自分の力だと分かってしまう。力の入れ所と抜きどころも分かってしまう。上手に流れに身を任せることを覚えてしまう。そして、身の程を知らない若者たちを、上から目線で笑ってしまう。身の程知らずにも夢や希望を語る若者が、滑稽に見えて仕方がない。

 

いやいや、違うって!身の程を知らないのは若いってことだろ。身の程を知れば知るほど、人間は年を取っていく。自分はこれだけの人間で、これだけのことしかできないから、それ以上のことはやらないって決めた時から、人間は年を取っていく。まだまだこれからですよと、私に語りかけてくれたのは、身の程を知るには、まだ早いでしょうってことだろ。

 なんとなく分かっちゃいるんだよなあ。もうちょっとだけ、一息ついたら、また歩きはじめるしかないか。自分の限界を決めるには、まだもうちょっとだけはやいだろうから。たぶん。

(国語科 林原)





>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

2020年11月30日月曜日

どうすれば面白くなるのか 自分が変わることです

今週の一週一言

                                  11月30日~12月6日

 

どうすれば面白くなるのか

自分が変わることです

養老 猛司

養老 猛司(1937)

 解剖学者。東京大学名誉教授。『バカの壁』はベストセラーとなり、他にも『唯脳論』、『身体の文学史』など著書多数。

【如是我聞】

 医者は医者でもガネ医者です。

 お笑いの好きな神・ガネーシャが、再び降臨した。累計400万部のベストセラー『夢をかなえるゾウ』の4作品目が発売されたのである。自己中心的な、あるいは自己中心的に見えるその発言や行動の裏に、生きていく指針が見えたり見えなかったり。単純な自己啓発本とは違い「おもしろエッセイ」の味わいで読みすすめられる作品だ。

 なるほどガネーシャは神様である。ゾウのような外見にもかかわらず、空中に浮かぶこともできれば、様々な姿に変身することができる。しかし、ガネーシャの教えはどこかに書いてあるようなものばかりであり、本人もそれは何度も相手に伝えている。そういう意味では、神様といっても「願いごとをかなえてくれる」存在とはいえない。

 ではなぜ、ガネーシャが「夢をかなえるゾウ」といえるのか。それは、ガネーシャが指南をしている相手が、その教えを実行していくからに他ならない。たとえばガネーシャは「靴を磨け」という。たしかに靴は自分の行動を支えてくれるものだし、それに感謝をこめて磨くことも大切である。そういうところから、自分が一日、どのように行動したかをふり返るきっかけにもなるだろう。靴を磨くことで自分自身を労わることにもつながるかもしれない。靴磨きは、丁寧にやっていけば時間を取られるものだが、汚れを落としてふいておくぐらいなら、ものの数分でできる。やらない手はない。このようなことをくり返し、主人公は成長を遂げていくのである。

 と、ここまで考えておいてやらない自分がいる。ただただ面倒だから。だが、そこを思い切って「えいやっ!」と動けば、意外に面白がる自分とも出会える。手間だと思うことが楽だと思えることもある。まずは自分ができそうなことから始めようか、と考える。そして私は「寝る前の10分でも読書をしよう」などと再びガネーシャの話の続きに目をやる。

 「そんなことを『如是我聞』に書いて、見栄っ張りだな」といっている自分もそこにはいるのだけれど。

                           (文責:国語科 小塩)





>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

2020年11月24日火曜日

出遇うということの喜びを『報恩』という

今週の一週一言

1116日~1122

出遇うということの喜びを『報恩』という

安藤傳融

安藤傳融…真宗大谷派の僧侶。

【如是我聞】

うぐいすが高らかに鳴いている。

 毎年うぐいすのさえずりは聞こえてくるが、今年のうぐいすは、ひときわ声がいい。

 例年のうぐいすが、「ホーホケキョ」と鳴くとしたら、今年のは「ルルルルルルルルルルル、ホーーーーーーッホケキョッ、ホーーーーーーッホケキョッ」と、長々とつづく艶のある鳴き声である。おまけに、三月の初鳴きから、五月初旬の今までずっと鳴いている。家の中のどんな音―洗濯機のお知らせやお風呂が沸きましたの音や家人の声やテレビの音―よりも、高らかである。

 やはり、今年は生物界のもろもろが、活動的になっているのか。

 生物界のもろもろに追随せんと、わたしも朝早くから活動を開始。

 人の少ない五時ごろに散歩に出、帰ったら掃除をし、常備菜をつくり、仕事をし、早い昼を食べたらまた仕事をし、お腹がすくころに夕飯を食べ…、という生活をしているうちに、どんどん早寝早起きになってゆく。この頃は、午後八時に就寝、午前二時に起床、というペースになっていた。

 午前五時くらいに起床、ということならば、少しいばった気持ちで人さまに言えるのだけれど、午前二時、というのは、よくわからないけれど、なんだか人聞きが悪いような気がして、誰にも打ち明けられずにいる。

 …と思っていたのだが、新聞を読んでいたら、「平安の貴族は、夏ならば午前三時くらいに起床し、夜明けと共に宮中に上がっていた」と書いてあった。

 なるほど、わたしは今、平安貴族と同じ生活をしているのか!

 早速家族に、自慢する。「はぁ、そぉ」という反応しか得られないが、貴族なので、反応の良し悪しなどにはこだわらないのである。

新型コロナが日本にもしだいに広がりつつあり、外出の自粛が要請される毎日であった。

 スマートフォンの歩数計を眺めると、一日に歩いた歩数が、五歩、二十二歩、百八歩、十六歩、というような日々が続いているので、家族全員で朝、犬の散歩に出ることを提案した。

 そんないつも通りの朝、犬「ラオウ」と娘が目の前で事故に遭った。瞳は凍り付き、目の前が一瞬ぐんと遠ざかった。胸の肉をえぐり取られたような気分になった。

それではもうラオウはいないのだ。今はもうどこにもいないのだ。そう思うとついこの間までのことすべてが、なぜかものすごい勢いでダッシュして私の前を通り過ぎてしまった。

 耐えられそうにない喪失感の中にいるとき、さっと優しい手を差し伸べてくださった先生とそのご家族に見守られながらラオウとさよならをした。帰った家の中は、秒を刻む時間を感じさせないほどにしんとして、静止した雰囲気を醸し出していた。

うぐいすはここ数日はもう鳴かなくなった。遠くから、ラオウの鳴き声が聞こえてくる。なのかもしれないと思って耳をすませると、声は消える。また耳を澄ませると、ふたたびラオウの声が、ずっとずっと遠くから、聞こえてくる。ラオウが大好きだった庭の雑草に触れてみる。

娘を守ってくれてありがとう、ありがとう。それからごめんね。あなたと出会えて幸せだった。

うとうとするような、春の昼であった。

国語科 須藤かおる





>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

2020年11月18日水曜日

危機に直面するとものごとがよく見える

今週の一週一言

1116日~1122

危機に直面するとものごとがよく見える

スティーブ・ジョブズ

スティーブ・ジョブズ(1955-2011

 アップル社の共同設立者一人。一度アップル社を追放されるも、業績不振に陥っていたアップル社にCEOとして返り咲き、見事に業績を回復させる。

【如是我聞】

 おみそ汁をすすりながら、ふり返ってみる。今年ほど、年度終わりと年度はじめの予定が大幅に変わったことはなかった。まさに危機的状況である。それも世界規模で。国内でも様々な動きがあった。多くの企業で在宅ワークが求められた。同時に保育園や学童でも「在宅ワークをしている場合は預からない」という方針が出されたため、様々なひずみが生じた。「泣いたり騒いだりする子どもがいるなか、仕事(営業、動画撮影、企画書作成などなど)なんかできるかー」と、青年の主張よろしく叫んでいた中高年も、きっといたに違いない。だから、ジョブズ氏のことばを見聞しても「いやいや、危機に直面すると余計に周囲のことは見えなくなるよ」と反論したくなる。だが、おそらく氏は実業家や経営者といった視点での話をされているのだろう。そうすると、どうか。

 うちのクラスでいえば、zoomによる面談をGW中に実施した。そこでは、ほぼクラス全員と、予定通りの時間に面談することができた。その後zoomでのS.H.Rも順調で、設定がうまくいかずに入れなかったり、昼夜逆転して寝坊してしまったり、という生徒は10人中1人いたら多いぐらいだった。Google classroomでも、日々の授業・課題と向きあってくれていた人が大半で、むしろ「オンラインによる提出のほうがいい」という声も上がった。そういう意味では、今までの当たり前を見なおす機会だったともいえるだろう。そしてこれがジョブズ氏のいおうとしていることではないか。つまり「危機になったときには、今までとは違う考えや行動ができる」ということである。ジョブズ氏も、自身がアップル社を追放されるときに「それなら違うことをやってやろう」と動き、またアップル社自身が危機的状況となり、ジョブズ氏に救いを求めてきたときにも思いきったかじ取りを行った。それらの行動は、平時でないからこそできたのかもしれない。

 とはいえ、煩悩のよろいを身にまとった私からすれば、危機なんて直面したくない。平常運転できるにこしたことはないと、おみそ汁の残りをいただきながら考えた次第である。

                           (文責:国語科 小塩)





>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

2020年10月21日水曜日

人間は相手が自分にとって何者か分からないから 友情も恋も愛も面白いんだよ

今週の一週一言

                              10月19日~25日

人間は相手が自分にとって何者か分からないから

友情も恋も愛も面白いんだよ

                   『君の膵臓を食べたい』(住野よる)

住野 よる(すみの よる)

 小説家。高校時代より執筆活動を開始。2014年、小説投稿サイトに『君の膵臓を食べたい』を投稿し、大きな話題となった。ペンネームの由来については、「教室のすみっこにいるような子の夜に創造性があるはずだという意味」と語っている。

【如是我聞】

ちょうど1年ほど前だろうか、食堂でお昼を食べていたところ、ふと「一週一言」が話題になった。「今回の○○先生のコメント、面白かったですよ」「そうそう、私も読みました」などと盛り上がっていたとき、ある先生から新たな「一週一言」の楽しみ方を教えて頂いた。

それは、内容を読みながら誰が書いたかを予測していくというスタイル。書いた人の名前が文章の最後に記されているので、読み終わったときに正解が明かされる。「案外当たりますよ」とその先生は楽しそうにおっしゃっていた。

それをお聞きし、私は「目から鱗」の思いだった。それまでの私は、真逆の読み方、つまり、書いた先生をまず確認してから、本文を読んでいたのだった。

「一週一言」の愛読者の一人として痛恨の極み。内容を楽しむだけでなく、作者を当てるというワクワク感まで味わえるなんて、2倍「おいしい」ではないか!というわけで、それ以来、必ずこの「作者当てスタイル」を実行している。(よろしければ、皆さんもぜひお試し下さい。)

ちなみに最近の正答状況を記すと、1段落だけ読んで、答えを見事的中させたのが、チェーホフの言葉に触れた国語科のO先生の文章である。ご自分の体験をユーモラスに語りながら、しかも奥深い。O先生のお人柄そのままの内容だったので、すぐにピンときたのだ。

逆に、最後まで全く分からなかったのが、社会科のM先生だった。世阿弥の言葉について書かれていたが、「初心を忘れたくない」という誠実で真っ直ぐな姿勢が印象的だった。

O先生は、同じ教科、同じ校務分掌というアドバンテージがあることもあり、正解は当然といえば当然かもしれない。ただ、M先生とも職場の仲間として長いお付き合いがあるのだ。当てることができなかったのが、自分の中でとても残念だったし、M先生に申し訳ないような気持ちになった。M先生、すみませんでした。(勝手に謝罪)

とはいえ、当たらなかったからこそ、M先生を新鮮な思いで見直すこともでき、ちょっぴり得したような嬉しい気持ちにもなるのである。 

このように「一週一言」を通じて、知っているようで知らなかった同僚の方々の新たな一面を発見している。さらに、自分では到底思いつかなかった考え方や価値観を教わったり、また、なんとなくぼんやり考えていたことを整理して提示され、深く共感することも多い。

これからも、「一週一言」の「私は誰でしょう」クイズに果敢に挑戦しながら、皆さんの理解に全力で励みたい。

(国語科 三上ひろこ)





>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

2020年10月12日月曜日

同じ川に二度はいることはできない

今週の一週一言

10月12日~18日

同じ川に二度はいることはできない

ヘラクレイトス

ヘラクレイトス(B.C.540-480)・・・古代ギリシアの哲学者。エフェソス出身。孤高の生涯を送り、「泣く哲学者」「暗い人」と称される。倫理の教科書的には「万物の根源(アルケー)は火である」「万物は流転する(パンタレイ)」という主張で有名。

如是我聞

 むかしから川をみるのが好きでした。

 ぼくの地元の石川県では、霊峰(れいほう) 白山(はくさん)から手取(てどり)(がわ)(かけはし)川が流れ出ています。冬のあいだに降り積もった雪が、春になると清冽(せいれつ)な流れとなるのです。ぼくは中学生のころ、ときどき自転車を日本海までひとり走らせて、これらの川が日本海に流れ出る様子をながめに出かけたものです。日本海はこれらの川の流れを黒々と()み込んでいきました。

 大学生のときは、京都の賀茂(かも)(がわ)のほとりに下宿していたのですが、よく家から仲間とテーブルやら料理やらを持ち出して、ピクニックをしていました。気の置けない仲間との楽しいおしゃべり。それに飽きたらバドミントンやジャグリングをしたり。そしてまた日が暮れるまでお話を続ける・・・。よくもまあそんなに話すことがあったものだと今さらながら思うのですが、これもまた大学時代の良き思い出の一つです。

 ほかには東南アジアを1カ月ほど旅したときに、ラオスという国でメコン川をスローボートで遡上(そじょう)するという経験をしました。古都ルアンパバーンを早朝に出発して、小さなボートで延々と大河を(さかのぼ)っていきます。ボートには乗客と、ついでに食料品やビールなどの商品が積み込まれています。川のほとりには地元の子どもたちが水遊びをしていたり、あるいは母親たちが洗濯している様子です。こちらが手を振ると、向こうも手を振ってくれました。そして・・・延々と小舟に乗ることおよそ10時間くらい経ったでしょうか、ちょうど夕陽が沈むころにメコン川上流の小さな村に辿りつきました。発電機で電気を起こしているような、そんな小さな村です。とりあえずメコン川のほとりに腰をおろしてぼんやりしていると、村の子どもたちが興味深そうな顔をしてこちらの様子をうかがっています。ぼくは手招きをして、彼らと一緒に遊ぶことにしました。遊ぶ、といってももちろん彼らとは言葉は通じません。なので、そのへんに転がっている小石などを使った簡単な手品を披露(ひろう)することにしました。結果は、大成功! ラオスの子どもたちはとても喜んでくれました。そんなぼくたちを横目に、夕陽はメコン川を真っ赤に染めて、そして沈んでいきました。

(社会科 舟木祐人)





>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

2020年10月10日土曜日

初心忘るべからず

今週の一週一言

                                   10月5日~10月11日

初心忘るべからず

世阿弥「花鏡」

 

世阿弥…父である観阿弥とともに、能の大成者として知られる。

【如是我聞】

本校東側に「新熊野神社」がある。我々になじみ深いこの神社は創建のおり、後白河法皇が紀州にあった楠をご神木として境内に移植したと伝えられ、現在樹齢900年といわれる神木が祀られている。時は1374年、この新熊野神社で行われた猿楽能に室町幕府3代将軍足利義満が訪れ、その境内で舞う子の姿に目を奪われた。それが世阿弥である。当時12歳であった世阿弥はこれ以後、義満の援助を受け、猿楽能の芸術性を高めていく。

この話を聞いて、私は世阿弥に興味を持った。自分にゆかりがある人のように感じ、ファンになった。冒頭の「初心忘るべからず」は誰でも知っている言葉だと思う。この言葉が世阿弥の言葉だと知り、自分の座右の銘にしようと思った。「はじめの志を忘れてはならない」「初志を貫徹する」という意味で一般に使われているこの言葉は、調べてみるとそれだけではないことがわかった。彼の能芸論書『花鏡』の最後の段「奧段」には芸の奥義として以下のように記されている。

 

しかれば、当流に、万能一徳の一句あり。

初心忘るべからず。

この句、三箇条の口伝あり。

是非の初心忘るべからず。

時々の初心忘るべからず。

老後の初心忘るべからず。

 

世阿弥がいう「初心」とは、最初の志に限らず、人生の中にいくつもの「初心」があるという。「是非の初心忘るべからず」とは、若いときの失敗や、未経験による苦労によって身につけた芸(経験)は決して忘れてはならず、それが後々の成功の糧になるということ。「時々の初心忘るべからず」とは、歳と経験を重ねていく過程で会得した芸を「時々の初心」といい、青年期、壮年期、老齢期に至るまで、その時々に合った演じ方を常に初心の心で身につけ成長していくことが大切であるということ。「老後の初心忘るべからず」とは、老齢期には老齢期でなければわからない試練や葛藤があり、その芸風を新たに身につけることを「老後の初心」という。歳をとったから、経験があるから完成されたということではなく、老齢期を迎えてこそわかることや、初めて習うことがあり、乗り越えなければならない芸の境地であるということである。まとめれば、初めてのことに取り組むときの新鮮な気持ち、初々しい気持ち以上に、自分の未熟さを忘れるな、つたなかったときのことを忘れるなということであろうか。つまり「初心」は一生続くということである。

 

改めて世阿弥の教えに共感し、座右の銘として心に刻んで生きていこうと思った次第である。

(社会科 宮川)





>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

2020年10月3日土曜日

怨みは怨みによって鎮まらない。 怨みを忘れて、初めて怨みは鎮まる。

今週の一週一言

                            月28日~10月4日

 

怨みは怨みによって鎮まらない。

怨みを忘れて、初めて怨みは鎮まる。

『法句経』

『法句経』・・・原始仏教の経典の1つ。詩集。

【如是我聞】

 「怨み」によって生まれた悲劇は世界中で数え切れないほど起こっているが、私にとってこういった社会に影響を与える人間の行動心理というものはとても興味深い。最近私が最も深く考えたことといえば20205月にアメリカで起こったGeorge Floydさんの死とそれをきっかけに白熱したBlack Lives Matterの運動だと思う。白人警察官が、黒人であるGeorgeさんに対して不適切な拘束を行ったことにより窒息死してしまうという出来事が、ここ日本では考えられないような影響をアメリカ国内だけでなく世界中に与えた。

最も印象に残っているのはGeorgeさんの6歳の娘とその母親が行った会見である。母親が涙ながらに「彼の命を奪った人たちは家に帰って家族に会うことができる。けれどGeorgeは二度と娘が成長するのを見ることはできない。この先娘は困難に直面したとき、彼女は父親に相談できない。これが、彼らが奪ったものです。」と語る姿は、子供がいない私でさえも心に強く訴えかけられ泣いてしまった。

 この一連の運動に関して色んな情報をかき集めたのだが、様々な立場の考え方があって結局何が正解か私にはわからなかった。この運動自体の怪しさも囁かれていたり、そもそもなぜ黒人だけなのかという疑問があったり(黒人だけじゃなくて全人種の命が大切だろ!と主張する人もいる)、日本にも差別があるのに『私達には関係ない』と思っている日本人がたくさんいるって怒っている人がいたり。そもそもメディアの放送やSNSの情報なんて偏っているし真偽もわからないから本当のところはどうなんだろうと思いつつ、色々見て思ったことがある。

 怒りに任せてか、デモに乗じてか、暴徒化し破壊行為や略奪行為を行う者もいた。そんな彼らに対してGeorgeさんの弟が「何をしているんだ!私でさえ暴れていないのに。そんなことをしても兄は帰ってこない。私達がしなければいけないのは投票だ。」と言ったり、30代のデモの参加者の一人が怒りと悲痛の声で、「俺はこういったデモに昔から参加しているが、何も変わらない。今のやり方ではだめなんだ。別の方法を考えてくれ。変えられるのは若い君たちだ。」と16歳の少年に言っていたりするのを見て、そういった今までの「デモ」や「暴力」とは違う方法で訴える人が増えてきていて、それが将来的になにか大きな変化をもたらしてくれるのではないかと思った。この言葉もそういうことではなかろうか。怨みを返すために、また新たな怨みを生んでしまっていては鎮まらない。その怨みのスパイラルを違う方法で絶つことによって終わる、と思った。

 

 話は変わるが、大谷高校でご縁がありGSI部の顧問をさせていただいて4年目である。世界の様々な問題に触れること自体私も好きだし、生徒にとっても、素晴らしい経験になっているということを確信している。私自身は生徒に語れるほど世界を知っているわけではないので彼らとともに世界の現状を、活動を通して知ることになる。今の自分の生活がどれほどありがたいかを実感するし、世界では想像を絶するような生活を強いられている人がたくさんいることを改めて思い知らされる。部員たちは高校生ながらそういった事実にどう対応してくべきかを様々な国の立場になって考えている。

ある時、たしか「難民問題」について部員と調べていた。調べれば調べるほど残酷な現状を表す資料が出てくる。故郷を離れたくないのに離れざるをえない環境、どこで死ぬかわからない恐怖、家族と離れてしまった孤独、なんとかたどり着いた他国で受け入れを拒否されてしまう絶望。その状況を生んだ「怨み」とその状況に対する新たな「怨み」。ほとんどの生徒は私と同じように胸を痛めた。悲しいなという気持ちを感じたくらいだろう。でも一人、「どうしてこうなるのか。あまりにもかわいそうだ。」と本当に涙する生徒がいた。先程の私のように、涙を誘うようなビジュアルをみて泣くならわかる。でも彼女は、言葉だけで相手の立場を慮り、涙をながしたのだ。彼女は、お題になった問題について深く深く、納得できるまで追求する。そして現実を知っては、涙する。もう何度彼女の涙を見たかはわからないが、そこまでの心を持っている彼女を見て、「どの分野であれ、この子のような心が怨みを鎮める力になるのでは」と思った。もちろんこの生徒に限った話ではないが、教育に携わる者として、新しい時代を作るフレッシュな力を信じて生徒たちの内なる力と可能性を見出していけたらいいなと思う。

(英語科 宮地 のぞみ)





>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

2020年10月2日金曜日

ひとを踏みにじって苦しめるのがいじめ 人を苦しめていることに気付かず、苦しんでさけんでいるこえを聞こうとしないのがいじめ

今週の一週一言

                            月7日~9月13日

ひとを踏みにじって苦しめるのがいじめ

人を苦しめていることに気付かず、苦しんでさけんでいるこえを聞こうとしないのがいじめ

重松 清『青い鳥』

重松 清

 1963年~。小説家。『ビタミンF』で直木賞受賞。『ナイフ』、『エイジ』等の有名作品多数。

【如是我聞】

 “with コロナ”が日常となり半年が過ぎました。

当たり前が崩されて、居心地のよい日々が奪われて。ストレスを飲み込んでは、胃の痛みに耐えて。

ひたすら我慢するか、我慢できずに今まで通りにすがりついては、得体のしれない虚無感を覚えつつ。

隠れてはこっそりと「テヘぺロ」と舌を出したり。

実は相当凹んでいる自分をごまかして、「全然平気」と強がったり。誰にともなく。

または、「本当はそんなにたいしたことじゃないんじゃないの?」などと根拠なく平静を装ったり。

この胸の内の感覚は、何かに似ている。いつかどこかで味わった感覚。その再来。

その正体に気づくのに時間がかかりました。いじめに会った初期段階の心模様でした。

思えば3月以降、いかにコロナに感染しないかということに皆が夢中になっていました。国や自治体が出す「これが正しい」という方針に従い、新しい生活様式」という言葉に、神秘的な響きと若干の安堵感を覚えてもいました。でもそれはいつの間にか「こうすればいじめに会わない」という机上の論理とよく似た感覚を与え出しました。もちろん、感染を予防することは大事です。医療崩壊を防ぐ意味でも。しかし、「もっと大事なことがあるだろ!!」と、具現化できない引っ掛かりを感じてもいました。その実態がやっと見えてきました。

家族が感染した時の対応についても少しは考えました。でも、友人やご近所が感染した時、どういう言葉をかければいいのかを考える前に、その人といつどのくらいの濃厚接触をしたかをフルチェックしてしまう、そんな自分が、自分さえ良ければという自分が育っていました。育てたのは自分ですけど。

自分自身が感染した時、どうするかはあまり考えませんでした。それは、自分がいつか必ずいのち終えるにもかかわらず、それを非現実的なこととして意識を向けない普段の生き方と変わりませんでした。

いじめはよくない、決してやってはいけない。そんなことみんな知っています。でも、喜怒哀楽を全て経験したはずの大人が、知性と理性を兼ね備えたはずの紳士淑女が、「そんなつもりはなかった」という言い訳しか発せられないいじめをしてしまいます。いじめは学校だけの問題ではありません。孤独を共有するはずの老人ホームでも起こります。それが人間の本質(=nature)です。悲しむべき私の姿です。

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし <by親鸞>

(時と場合によってはどんなに悲惨で横暴でむごたらしいことでもしてしまうこの私)

 「いじめなど私には関係のないことです」などと思っていたら、それはたまたま縁が整っていないだけです。

「私はいじめをするし、いじめにも会う」。そこにしっかりと立った学びをしてこなかった私。それは、「確実にコロナに感染する私として、このご時世をきちんと生きること」と、「私はコロナに感染した隣人とどう接するかをきちんと自問自答しておくこと」をないがしろにしている自分のことです。

自己がわからない人は他人を責める。自己がわかった人は他人を痛む。 <安田理深>

 自分は時と場合によっては、人を傷つけてしまう人間であるということがわかっていないと、平気でいじめをしてしまいます。それがわかっていても、縁さえ整えばやってしまうのがいじめです。この私のことです。

ただ、それがわかっていれば、「あなたがやったことはいじめだよ」と指摘されても、「そんなつもりはなかった」で乗り切ろうとする私ではなく、そんな自分の行いを、やっと恥ずかしく思えるのかもしれません。そこに学べるのかもしれません。申し訳ないという思いが素直に出てきて、それが相手に通じるのかもしれません。

たとえ、いじめに会ったとしても、それを乗り越えて、または、それが故に、自分が自分であることを喜んで生きる、そんなすてきな人生が待っているのかもしれません。

私はそう思うのです。

(宗教・英語科 乾 文雄)





>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

2020年9月30日水曜日

愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。

今週の一週一言

                            月7日~9月13日

 

愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

 

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

  18601904。ロシアの劇作家、小説家。四大戯曲で有名だが、僕が知っているのは短編小説のみ。市井の人々をユーモラスに描いているだけなのに、実に読ませる。名言も「自明だがチェーホフが言うから深い」という感じがする(例「結婚生活で一番大切なのは忍耐である」)。なおこの名言はロシアの諺で、彼の作中の語ではないそうな。

【如是我聞】

  教員になった理由はいろいろあるが、心の底に「知識をひけらかしたい」という情動があったのを否定できない。小さい頃、僕は周囲にムダ知識を披露しては悦に入るイヤなガキンチョであった。それなら大人相手にも語れる“知の巨人にでもなれば良かったのだが、そうなれずに教職に就いて生徒にエラそうにしているとすれば、「将来の夢はガキ大将。子どものときは無理だから大人になってからなる!」と宣言してお父さんを嘆かせた、『ドラえもん』ののび太のようでもある。

  ところで、教員は文字通り「教える者」なわけだが、その中にも「教えるだけの者」と「ともに自らも学ぶ者」がいる。最近その違いを感じたのは、Eテレで観た、国語学者の金田一秀穂とアメリカ人コメディアン、厚切りジェイソンの対談だ(以下、曖昧な記憶で書いてます)。「若者の『~っす』は謙譲語だね~」などと嬉々として語る金田一先生に、ジェイソン氏が「“言葉の乱れ”って怒ってる人いますけど、先生は言われて腹立たないんスかあ?」と訊ねたところ、先生はこう答える。

  「ううん、面白い、楽しい、最高」

  ―― むろん金田一先生もゼミ生には社会常識として言葉遣いを指導していることと思うが、同時にその変化を楽しみ、新たな知見を得てもいる。物事を自らの物差しで裁断し、その正しさを疑わない者との差がここにある。別に国語学に限らない。一昔前のジュブナイル向けSFマンガには、超常現象を目の当たりにしたときに「こんなのは科学的じゃない。ありえない」と“現実を拒絶する理科の先生がよく出てきたが、これは自らの知識の枠内に事象を押さえこみたいと考える、傲慢な教える者“の態度でしかない。もしこの先生が“学ぶ者であるならば、主人公の子どもたちと一緒に未知の出来事に感動し、興味津々で身をのりだすはずだ。

  目下進行中の教育改革で、僕らは「Teacher(教える者)」から「Facilitator(促進する者)」へと役割を変えていかねばならないらしい。生徒の主体的な学びを見守り、手助けするという職務。そのとき僕は、彼らをイライラせずに見ていられるだろうか。自らの中に眠る「知識をひけらかしたい」という欲望を、どこまで抑えられるだろうか。目の前で考える生徒たちの試行錯誤を楽しみ、たとえその答が(自らの狭い知識の範囲では)間違っていたとしても、それを受け入れ、そこから何かを学ぶことができるだろうか。

                                                   (国語科  奥島  寛)





>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

君、時というものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものなのだよ

今週の一週一言

                                  831日~96:/

君、時というものは、それぞれの人間によって、

  それぞれの速さで走るものなのだよ

                    ウィリアム・シェイクスピア

William Shakespeare1564426-1616423日)

 イングランドの劇作家,詩人。イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物である。特に,「ソネット集」は最高の詩編のひとつとされている。

【如是我聞】

 1時間は60分,1日は24時間,これは赤ちゃんから大人まで万人に共通な長さとして決まっている。そもそも時間の長さはどのように決められたのか? と疑問に思って調べてみた。すると,1秒の長さは,赤道上を動く架空の太陽に対して,地球が自転する時間を,24時間×60分×60秒すなわち,86,400秒で割った長さに決められたそうだ。よくよく考えてみると,われわれは時間によって縛られていると思う。もし時間という概念がなければ,1講時が50分であるとか,子供に「ゲームできる時間は11時間」であるとか,1日に8時間仕事をしなければならないとか,時間におわれるような生活はないだろう。しかし,時間という概念が存在し,ある程度それに縛られているからこそ,「~までに~をしなければならない」とか,「この時間までは~をする」とかという考え方が生まれてくる。そのおかげで,人類は発展してきたと言っても過言ではない。時間があるからこそ,人間は計画を立てられたり,切羽詰って力を発揮することができたりするのだろう。もし,時間という縛りもなければ,好きなときに好きなことをしたり,やらなければならないこともなかなかできなかったりするのだろうと思う。

 さて,そのようなことを考えていると,私は今年の522日で,376,920時間生きてきたことになる。先にも述べたが,1秒の長さは万人に共通であるが,時間の長さの感覚はその時々によって違ってきた。これまでを振り返ると,最もゆっくりと時が流れたと感じるのは,小学校6年間である。中学校3年間と高等学校3年間を合わせた時間も同じ6年間であるのに,小学校6年間の方がゆったりと時が流れたと感じる。もちろん人間の成長によって感じる時間の感覚は違うのかもしれないが,今思えば,中学校時代,高校時代はクラブ活動に多くの時間を使ったことを考えると,何かに打ち込んでいる時は,時の流れが早く感じるのであろう。もちろん,人によって,どの時代が最もゆったりとした時間を持てていたかは様々であろう。時間は,その人その人によってさまざまな速さで走るものかどうかはわからないが,感じ方が違うことは頷ける。しかしながら,やはり1秒という長さは平等であることにかわりはない。命尽きるまでの時間はあとどれくらいあるのかはわからないが,尽きる寸前に,「いい人生であったな」と言えるような時間の使い方をしたいものだ。

(数学科 髙間 秀章)





>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

人は毎日髪を整えるが、どうして心は整えないのか

今週の一週一言

                                   24日~830

人は毎日髪を整えるが、

どうして心は整えないのか

チェ・ゲバラ

チェ・ゲバラ(1928-1967

 本名はエルネスト・ゲバラ。アルゼンチン生まれでキューバ革命の指導者。「チェ」とは、スペイン語で「ねぇ」や「やぁ」などの呼びかけにあたる言葉に由来するあだ名。

【如是我聞】

チェ・ゲバラといえば、キューバ革命の英雄で、長髪のぼさぼさ頭に髭と葉巻。ワイルドでかっこいい男のイメージしかない。それが、あの優等生ヴィジュアルのサッカー日本代表キャプテン長谷部誠と同じようなことを言っていたなんて!…いやでも、オダギリジョー主演の「エルネスト もう一人のゲバラ」という映画のなかで、ゲバラはもの静かなインテリといった雰囲気だった。あの風貌は、心を整えているから髪を整える必要がなかっただけなのか…。

なんとなく裏切られたような気分になるのは、私が、外見のイメージに引っ張られて、中身も決めてしまう凡人だからなのです。だから、毎日心ではなく髪を整えてしまうのです。心を整えても人から見えないので、せめて見た目だけでも人からよく見られようと思ってしまうのです。すみません、ゲバラさん。

一昔前、「服装の乱れは心の乱れ」なんていう先生が当たり前にいました。たしかにそういう面もあります。ただ、そんなに単純ではない場合もあります。でも、見た目と内面がリンクしていると考えるほうがわかりやすい。誰かにそう思われたい自分になるために、髪を整え、服を選ぶ。そうしているうちに、そう思われたい自分が手に入るならそれでいいじゃないですか。髪を整えたら、心も整う、そういうこともありますよね、ゲバラさん。

私はあるとき、白髪を染めている自分は本当の自分の姿を知らないんだという当たり前のことに気づいて、髪を染めるのをやめました。すると、私の内面は変わっていないのに、「そんな大きな子どもさんがいるようには見えませんね」「いつも元気ですね」だった周囲の反応が、「老けたね」はもちろん、「お孫さんは何人?」に変わりました。そして、そのことに少なからずショックを受けた自分にショックを受けました。見た目と内面を結び付けると人を傷つけることがある。でも、傷つくのはわかりやすいそのイメージに自分も取り込まれているからだと。私は髪を整えなかったとしても、心も整いそうにありません。心が整っていたから、あのぼさぼさのヘアスタイルはあんなにかっこよくみえるのでしょうか。人からどう見られるかではなく、自分の心をしっかり見つめることが大切、それはわかっているのです。でも、ゲバラさん、自分の心は整っているから、外見など構わない、という孤独を私は引き受けられそうにありません。そのかわり、せめて、目に見えない部分を想像すること、自分が見ていないことがあることは忘れないようにしたいと思います。

そういえば、ゲバラの肖像がパッケージ書かれているたばこを、ぼさぼさ頭の息子が気取って吸っていた。あいつは毎日心を整えているのだろうか。二学期、頭髪検査に引っかかっているあの生徒も、もしかしたら心は整っているのかもしれないなあ…。

(国語科 春日)





>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

2020年3月10日火曜日

仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま

今週の一週一言          月9日~4月5日
仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま
帰雲真智 
帰雲真智(かえりくも まさと)・・・真宗大谷派高山二組、還來寺住職。
【如是我聞】











この言葉を見たときに連想した言葉があります。皆さんはどうでしょうか?何か思い浮かぶ言葉があるでしょうか。私が思い浮かべたのは「アナと雪の女王(原題:Frozen)」の「ありの~ままの~♪姿見せるのよ~♫」というフレーズでした。歌は「ありのままの自分」を肯定していくものだったと思います。この歌が流行っていたとき私はこう思っていました。「ありのままの姿など見せられるわけがない!」と。それは私が内面的に欲深く、不遜で謙虚さに欠け、とても自己中心的だからです。それぞれの例を挙げればきりがありません。大人になったらこうなったというより、もともとこうだったように思います。ありがたいことにいろいろな人たちから教えられて、欲を満たすのはそこそこに、他者に対しては敬意をもって、わがままを慎むことを学ばせてもらいました。それでも抑えきれず(隠しきれず?)本性が出ています。
私が基本的にこうしているというものの一つが「精進」です。本来が本来の人間ですから、「ありのまま」でいいはずがなく、少しでもよい道に近づいていきたい、歩んでいきたいと思っています。意志の力による精進よりも、普段から自然に無理なくやっているような精進です。それは意志の力が弱いからなのですが、「基本的に精進をする人間」であれば意志の力に頼ることは少なくなります。
そこで「仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま」です。この言葉を見て私は「いや、そのままではダメなんじゃないですか?」と思います。むしろブッダの最期の言葉、「怠ることなく精進しなさい」のほうに親近感があります。「私の願い」も私にとって「願い」とは「仏・菩薩が(おこ)したもの=発願(ほつがん)」と、これまでの学びの中で思っていますからしっくりきません。もっと単純に「私はわがまま」なら、そうだなと思います。
ところで、「願」というテーマで以前生徒がこんな短歌を作りました。

 鈴ならし手をたたき神様を呼ぶお辞儀をしたら願いを話す
 
穏やかでよい作品だと思います。通常は動詞が多いと内容に乱れを生じやすいのですが、一連の動作が流れるようで引っかかりがありません。作者は何を願ったのでしょうか。作品の雰囲気からは素直で嫌みのない願いのように思われます。願いを話すということは聞く存在があるということでもあります。願いを話す-聞く。人間の本質的な部分がそこにあると思います。

                               宗教科 佐々木敦史




>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1...