一週一言インデックス

2020年10月21日水曜日

人間は相手が自分にとって何者か分からないから 友情も恋も愛も面白いんだよ

今週の一週一言

                              10月19日~25日

人間は相手が自分にとって何者か分からないから

友情も恋も愛も面白いんだよ

                   『君の膵臓を食べたい』(住野よる)

住野 よる(すみの よる)

 小説家。高校時代より執筆活動を開始。2014年、小説投稿サイトに『君の膵臓を食べたい』を投稿し、大きな話題となった。ペンネームの由来については、「教室のすみっこにいるような子の夜に創造性があるはずだという意味」と語っている。

【如是我聞】

ちょうど1年ほど前だろうか、食堂でお昼を食べていたところ、ふと「一週一言」が話題になった。「今回の○○先生のコメント、面白かったですよ」「そうそう、私も読みました」などと盛り上がっていたとき、ある先生から新たな「一週一言」の楽しみ方を教えて頂いた。

それは、内容を読みながら誰が書いたかを予測していくというスタイル。書いた人の名前が文章の最後に記されているので、読み終わったときに正解が明かされる。「案外当たりますよ」とその先生は楽しそうにおっしゃっていた。

それをお聞きし、私は「目から鱗」の思いだった。それまでの私は、真逆の読み方、つまり、書いた先生をまず確認してから、本文を読んでいたのだった。

「一週一言」の愛読者の一人として痛恨の極み。内容を楽しむだけでなく、作者を当てるというワクワク感まで味わえるなんて、2倍「おいしい」ではないか!というわけで、それ以来、必ずこの「作者当てスタイル」を実行している。(よろしければ、皆さんもぜひお試し下さい。)

ちなみに最近の正答状況を記すと、1段落だけ読んで、答えを見事的中させたのが、チェーホフの言葉に触れた国語科のO先生の文章である。ご自分の体験をユーモラスに語りながら、しかも奥深い。O先生のお人柄そのままの内容だったので、すぐにピンときたのだ。

逆に、最後まで全く分からなかったのが、社会科のM先生だった。世阿弥の言葉について書かれていたが、「初心を忘れたくない」という誠実で真っ直ぐな姿勢が印象的だった。

O先生は、同じ教科、同じ校務分掌というアドバンテージがあることもあり、正解は当然といえば当然かもしれない。ただ、M先生とも職場の仲間として長いお付き合いがあるのだ。当てることができなかったのが、自分の中でとても残念だったし、M先生に申し訳ないような気持ちになった。M先生、すみませんでした。(勝手に謝罪)

とはいえ、当たらなかったからこそ、M先生を新鮮な思いで見直すこともでき、ちょっぴり得したような嬉しい気持ちにもなるのである。 

このように「一週一言」を通じて、知っているようで知らなかった同僚の方々の新たな一面を発見している。さらに、自分では到底思いつかなかった考え方や価値観を教わったり、また、なんとなくぼんやり考えていたことを整理して提示され、深く共感することも多い。

これからも、「一週一言」の「私は誰でしょう」クイズに果敢に挑戦しながら、皆さんの理解に全力で励みたい。

(国語科 三上ひろこ)





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2020年10月12日月曜日

同じ川に二度はいることはできない

今週の一週一言

10月12日~18日

同じ川に二度はいることはできない

ヘラクレイトス

ヘラクレイトス(B.C.540-480)・・・古代ギリシアの哲学者。エフェソス出身。孤高の生涯を送り、「泣く哲学者」「暗い人」と称される。倫理の教科書的には「万物の根源(アルケー)は火である」「万物は流転する(パンタレイ)」という主張で有名。

如是我聞

 むかしから川をみるのが好きでした。

 ぼくの地元の石川県では、霊峰(れいほう) 白山(はくさん)から手取(てどり)(がわ)(かけはし)川が流れ出ています。冬のあいだに降り積もった雪が、春になると清冽(せいれつ)な流れとなるのです。ぼくは中学生のころ、ときどき自転車を日本海までひとり走らせて、これらの川が日本海に流れ出る様子をながめに出かけたものです。日本海はこれらの川の流れを黒々と()み込んでいきました。

 大学生のときは、京都の賀茂(かも)(がわ)のほとりに下宿していたのですが、よく家から仲間とテーブルやら料理やらを持ち出して、ピクニックをしていました。気の置けない仲間との楽しいおしゃべり。それに飽きたらバドミントンやジャグリングをしたり。そしてまた日が暮れるまでお話を続ける・・・。よくもまあそんなに話すことがあったものだと今さらながら思うのですが、これもまた大学時代の良き思い出の一つです。

 ほかには東南アジアを1カ月ほど旅したときに、ラオスという国でメコン川をスローボートで遡上(そじょう)するという経験をしました。古都ルアンパバーンを早朝に出発して、小さなボートで延々と大河を(さかのぼ)っていきます。ボートには乗客と、ついでに食料品やビールなどの商品が積み込まれています。川のほとりには地元の子どもたちが水遊びをしていたり、あるいは母親たちが洗濯している様子です。こちらが手を振ると、向こうも手を振ってくれました。そして・・・延々と小舟に乗ることおよそ10時間くらい経ったでしょうか、ちょうど夕陽が沈むころにメコン川上流の小さな村に辿りつきました。発電機で電気を起こしているような、そんな小さな村です。とりあえずメコン川のほとりに腰をおろしてぼんやりしていると、村の子どもたちが興味深そうな顔をしてこちらの様子をうかがっています。ぼくは手招きをして、彼らと一緒に遊ぶことにしました。遊ぶ、といってももちろん彼らとは言葉は通じません。なので、そのへんに転がっている小石などを使った簡単な手品を披露(ひろう)することにしました。結果は、大成功! ラオスの子どもたちはとても喜んでくれました。そんなぼくたちを横目に、夕陽はメコン川を真っ赤に染めて、そして沈んでいきました。

(社会科 舟木祐人)





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2020年10月10日土曜日

初心忘るべからず

今週の一週一言

                                   10月5日~10月11日

初心忘るべからず

世阿弥「花鏡」

 

世阿弥…父である観阿弥とともに、能の大成者として知られる。

【如是我聞】

本校東側に「新熊野神社」がある。我々になじみ深いこの神社は創建のおり、後白河法皇が紀州にあった楠をご神木として境内に移植したと伝えられ、現在樹齢900年といわれる神木が祀られている。時は1374年、この新熊野神社で行われた猿楽能に室町幕府3代将軍足利義満が訪れ、その境内で舞う子の姿に目を奪われた。それが世阿弥である。当時12歳であった世阿弥はこれ以後、義満の援助を受け、猿楽能の芸術性を高めていく。

この話を聞いて、私は世阿弥に興味を持った。自分にゆかりがある人のように感じ、ファンになった。冒頭の「初心忘るべからず」は誰でも知っている言葉だと思う。この言葉が世阿弥の言葉だと知り、自分の座右の銘にしようと思った。「はじめの志を忘れてはならない」「初志を貫徹する」という意味で一般に使われているこの言葉は、調べてみるとそれだけではないことがわかった。彼の能芸論書『花鏡』の最後の段「奧段」には芸の奥義として以下のように記されている。

 

しかれば、当流に、万能一徳の一句あり。

初心忘るべからず。

この句、三箇条の口伝あり。

是非の初心忘るべからず。

時々の初心忘るべからず。

老後の初心忘るべからず。

 

世阿弥がいう「初心」とは、最初の志に限らず、人生の中にいくつもの「初心」があるという。「是非の初心忘るべからず」とは、若いときの失敗や、未経験による苦労によって身につけた芸(経験)は決して忘れてはならず、それが後々の成功の糧になるということ。「時々の初心忘るべからず」とは、歳と経験を重ねていく過程で会得した芸を「時々の初心」といい、青年期、壮年期、老齢期に至るまで、その時々に合った演じ方を常に初心の心で身につけ成長していくことが大切であるということ。「老後の初心忘るべからず」とは、老齢期には老齢期でなければわからない試練や葛藤があり、その芸風を新たに身につけることを「老後の初心」という。歳をとったから、経験があるから完成されたということではなく、老齢期を迎えてこそわかることや、初めて習うことがあり、乗り越えなければならない芸の境地であるということである。まとめれば、初めてのことに取り組むときの新鮮な気持ち、初々しい気持ち以上に、自分の未熟さを忘れるな、つたなかったときのことを忘れるなということであろうか。つまり「初心」は一生続くということである。

 

改めて世阿弥の教えに共感し、座右の銘として心に刻んで生きていこうと思った次第である。

(社会科 宮川)





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2020年10月3日土曜日

怨みは怨みによって鎮まらない。 怨みを忘れて、初めて怨みは鎮まる。

今週の一週一言

                            月28日~10月4日

 

怨みは怨みによって鎮まらない。

怨みを忘れて、初めて怨みは鎮まる。

『法句経』

『法句経』・・・原始仏教の経典の1つ。詩集。

【如是我聞】

 「怨み」によって生まれた悲劇は世界中で数え切れないほど起こっているが、私にとってこういった社会に影響を与える人間の行動心理というものはとても興味深い。最近私が最も深く考えたことといえば20205月にアメリカで起こったGeorge Floydさんの死とそれをきっかけに白熱したBlack Lives Matterの運動だと思う。白人警察官が、黒人であるGeorgeさんに対して不適切な拘束を行ったことにより窒息死してしまうという出来事が、ここ日本では考えられないような影響をアメリカ国内だけでなく世界中に与えた。

最も印象に残っているのはGeorgeさんの6歳の娘とその母親が行った会見である。母親が涙ながらに「彼の命を奪った人たちは家に帰って家族に会うことができる。けれどGeorgeは二度と娘が成長するのを見ることはできない。この先娘は困難に直面したとき、彼女は父親に相談できない。これが、彼らが奪ったものです。」と語る姿は、子供がいない私でさえも心に強く訴えかけられ泣いてしまった。

 この一連の運動に関して色んな情報をかき集めたのだが、様々な立場の考え方があって結局何が正解か私にはわからなかった。この運動自体の怪しさも囁かれていたり、そもそもなぜ黒人だけなのかという疑問があったり(黒人だけじゃなくて全人種の命が大切だろ!と主張する人もいる)、日本にも差別があるのに『私達には関係ない』と思っている日本人がたくさんいるって怒っている人がいたり。そもそもメディアの放送やSNSの情報なんて偏っているし真偽もわからないから本当のところはどうなんだろうと思いつつ、色々見て思ったことがある。

 怒りに任せてか、デモに乗じてか、暴徒化し破壊行為や略奪行為を行う者もいた。そんな彼らに対してGeorgeさんの弟が「何をしているんだ!私でさえ暴れていないのに。そんなことをしても兄は帰ってこない。私達がしなければいけないのは投票だ。」と言ったり、30代のデモの参加者の一人が怒りと悲痛の声で、「俺はこういったデモに昔から参加しているが、何も変わらない。今のやり方ではだめなんだ。別の方法を考えてくれ。変えられるのは若い君たちだ。」と16歳の少年に言っていたりするのを見て、そういった今までの「デモ」や「暴力」とは違う方法で訴える人が増えてきていて、それが将来的になにか大きな変化をもたらしてくれるのではないかと思った。この言葉もそういうことではなかろうか。怨みを返すために、また新たな怨みを生んでしまっていては鎮まらない。その怨みのスパイラルを違う方法で絶つことによって終わる、と思った。

 

 話は変わるが、大谷高校でご縁がありGSI部の顧問をさせていただいて4年目である。世界の様々な問題に触れること自体私も好きだし、生徒にとっても、素晴らしい経験になっているということを確信している。私自身は生徒に語れるほど世界を知っているわけではないので彼らとともに世界の現状を、活動を通して知ることになる。今の自分の生活がどれほどありがたいかを実感するし、世界では想像を絶するような生活を強いられている人がたくさんいることを改めて思い知らされる。部員たちは高校生ながらそういった事実にどう対応してくべきかを様々な国の立場になって考えている。

ある時、たしか「難民問題」について部員と調べていた。調べれば調べるほど残酷な現状を表す資料が出てくる。故郷を離れたくないのに離れざるをえない環境、どこで死ぬかわからない恐怖、家族と離れてしまった孤独、なんとかたどり着いた他国で受け入れを拒否されてしまう絶望。その状況を生んだ「怨み」とその状況に対する新たな「怨み」。ほとんどの生徒は私と同じように胸を痛めた。悲しいなという気持ちを感じたくらいだろう。でも一人、「どうしてこうなるのか。あまりにもかわいそうだ。」と本当に涙する生徒がいた。先程の私のように、涙を誘うようなビジュアルをみて泣くならわかる。でも彼女は、言葉だけで相手の立場を慮り、涙をながしたのだ。彼女は、お題になった問題について深く深く、納得できるまで追求する。そして現実を知っては、涙する。もう何度彼女の涙を見たかはわからないが、そこまでの心を持っている彼女を見て、「どの分野であれ、この子のような心が怨みを鎮める力になるのでは」と思った。もちろんこの生徒に限った話ではないが、教育に携わる者として、新しい時代を作るフレッシュな力を信じて生徒たちの内なる力と可能性を見出していけたらいいなと思う。

(英語科 宮地 のぞみ)





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2020年10月2日金曜日

ひとを踏みにじって苦しめるのがいじめ 人を苦しめていることに気付かず、苦しんでさけんでいるこえを聞こうとしないのがいじめ

今週の一週一言

                            月7日~9月13日

ひとを踏みにじって苦しめるのがいじめ

人を苦しめていることに気付かず、苦しんでさけんでいるこえを聞こうとしないのがいじめ

重松 清『青い鳥』

重松 清

 1963年~。小説家。『ビタミンF』で直木賞受賞。『ナイフ』、『エイジ』等の有名作品多数。

【如是我聞】

 “with コロナ”が日常となり半年が過ぎました。

当たり前が崩されて、居心地のよい日々が奪われて。ストレスを飲み込んでは、胃の痛みに耐えて。

ひたすら我慢するか、我慢できずに今まで通りにすがりついては、得体のしれない虚無感を覚えつつ。

隠れてはこっそりと「テヘぺロ」と舌を出したり。

実は相当凹んでいる自分をごまかして、「全然平気」と強がったり。誰にともなく。

または、「本当はそんなにたいしたことじゃないんじゃないの?」などと根拠なく平静を装ったり。

この胸の内の感覚は、何かに似ている。いつかどこかで味わった感覚。その再来。

その正体に気づくのに時間がかかりました。いじめに会った初期段階の心模様でした。

思えば3月以降、いかにコロナに感染しないかということに皆が夢中になっていました。国や自治体が出す「これが正しい」という方針に従い、新しい生活様式」という言葉に、神秘的な響きと若干の安堵感を覚えてもいました。でもそれはいつの間にか「こうすればいじめに会わない」という机上の論理とよく似た感覚を与え出しました。もちろん、感染を予防することは大事です。医療崩壊を防ぐ意味でも。しかし、「もっと大事なことがあるだろ!!」と、具現化できない引っ掛かりを感じてもいました。その実態がやっと見えてきました。

家族が感染した時の対応についても少しは考えました。でも、友人やご近所が感染した時、どういう言葉をかければいいのかを考える前に、その人といつどのくらいの濃厚接触をしたかをフルチェックしてしまう、そんな自分が、自分さえ良ければという自分が育っていました。育てたのは自分ですけど。

自分自身が感染した時、どうするかはあまり考えませんでした。それは、自分がいつか必ずいのち終えるにもかかわらず、それを非現実的なこととして意識を向けない普段の生き方と変わりませんでした。

いじめはよくない、決してやってはいけない。そんなことみんな知っています。でも、喜怒哀楽を全て経験したはずの大人が、知性と理性を兼ね備えたはずの紳士淑女が、「そんなつもりはなかった」という言い訳しか発せられないいじめをしてしまいます。いじめは学校だけの問題ではありません。孤独を共有するはずの老人ホームでも起こります。それが人間の本質(=nature)です。悲しむべき私の姿です。

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし <by親鸞>

(時と場合によってはどんなに悲惨で横暴でむごたらしいことでもしてしまうこの私)

 「いじめなど私には関係のないことです」などと思っていたら、それはたまたま縁が整っていないだけです。

「私はいじめをするし、いじめにも会う」。そこにしっかりと立った学びをしてこなかった私。それは、「確実にコロナに感染する私として、このご時世をきちんと生きること」と、「私はコロナに感染した隣人とどう接するかをきちんと自問自答しておくこと」をないがしろにしている自分のことです。

自己がわからない人は他人を責める。自己がわかった人は他人を痛む。 <安田理深>

 自分は時と場合によっては、人を傷つけてしまう人間であるということがわかっていないと、平気でいじめをしてしまいます。それがわかっていても、縁さえ整えばやってしまうのがいじめです。この私のことです。

ただ、それがわかっていれば、「あなたがやったことはいじめだよ」と指摘されても、「そんなつもりはなかった」で乗り切ろうとする私ではなく、そんな自分の行いを、やっと恥ずかしく思えるのかもしれません。そこに学べるのかもしれません。申し訳ないという思いが素直に出てきて、それが相手に通じるのかもしれません。

たとえ、いじめに会ったとしても、それを乗り越えて、または、それが故に、自分が自分であることを喜んで生きる、そんなすてきな人生が待っているのかもしれません。

私はそう思うのです。

(宗教・英語科 乾 文雄)





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内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

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