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仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま

今週の一週一言          月9日~4月5日
仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま
帰雲真智 
帰雲真智(かえりくも まさと)・・・真宗大谷派高山二組、還來寺住職。
【如是我聞】











この言葉を見たときに連想した言葉があります。皆さんはどうでしょうか?何か思い浮かぶ言葉があるでしょうか。私が思い浮かべたのは「アナと雪の女王(原題:Frozen)」の「ありの~ままの~♪姿見せるのよ~♫」というフレーズでした。歌は「ありのままの自分」を肯定していくものだったと思います。この歌が流行っていたとき私はこう思っていました。「ありのままの姿など見せられるわけがない!」と。それは私が内面的に欲深く、不遜で謙虚さに欠け、とても自己中心的だからです。それぞれの例を挙げればきりがありません。大人になったらこうなったというより、もともとこうだったように思います。ありがたいことにいろいろな人たちから教えられて、欲を満たすのはそこそこに、他者に対しては敬意をもって、わがままを慎むことを学ばせてもらいました。それでも抑えきれず(隠しきれず?)本性が出ています。
私が基本的にこうしているというものの一つが「精進」です。本来が本来の人間ですから、「ありのまま」でいいはずがなく、少しでもよい道に近づいていきたい、歩んでいきたいと思っています。意志の力による精進よりも、普段から自然に無理なくやっているような精進です。それは意志の力が弱いからなのですが、「基本的に精進をする人間」であれば意志の力に頼ることは少なくなります。
そこで「仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま」です。この言葉を見て私は「いや、そのままではダメなんじゃないですか?」と思います。むしろブッダの最期の言葉、「怠ることなく精進しなさい」のほうに親近感があります。「私の願い」も私にとって「願い」とは「仏・菩薩が(おこ)したもの=発願(ほつがん)」と、これまでの学びの中で思っていますからしっくりきません。もっと単純に「私はわがまま」なら、そうだなと思います。
ところで、「願」というテーマで以前生徒がこんな短歌を作りました。

 鈴ならし手をたたき神様を呼ぶお辞儀をしたら願いを話す
 
穏やかでよい作品だと思います。通常は動詞が多いと内容に乱れを生じやすいのですが、一連の動作が流れるようで引っかかりがありません。作者は何を願ったのでしょうか。作品の雰囲気からは素直で嫌みのない願いのように思われます。願いを話すということは聞く存在があるということでもあります。願いを話す-聞く。人間の本質的な部分がそこにあると思います。

                               宗教科 佐々木敦史




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