一週一言インデックス

2017年5月22日月曜日

教えることは二度学ぶことである。

今週の一週一言
                                  月22日~5月28日
  教えることは二度学ぶことである。
                    ジューベール
ジューベール・・・1754~1824、フランス生まれ。フランスの哲学者であり、随筆家。主な著作は『パンセ』。ジュ―ベールは、生前には一切出版活動を行わず、『パンセ』は死後に発表されたものである。(パンセとは考察を意味する)
【如是我聞】
私は、よく大学の講義で「なるほどなぁ」と感動することが多々ある。大学での学びの嬉しいことは、「こんな視点があるのか」という新しい発見とそれに対する感動を得られることである。この感動を一人で、にやにやしながら味わうことも一つの方法ではあるが、私には無理である。なぜなら、感動を共有したいタイプの人間だからである。学びのうえでの感動はもちろんのこと、私生活で感じる感動はなおさらである。
例えば、私の大学は地下鉄や市バスのターミナルなど交通の便が良いこともあり、多くの小・中・高などの学生が行き交っている。もちろん、年老いた方も多く歩かれている。そんな老若男女が混在する、大学の近くで、80代のおばあちゃんが買い物袋を持って信号を渡っていた。そのおばあちゃんが横断歩道の三分の一を渡ったくらいで、信号が点滅し始めた。私は何とも思わずに近くのベンチに座っていたのだが、走っていく小学生が見えた。その小学生は走って、おばあちゃんの所に向かい、ひと声かけて荷物を持ってあげたのであった。これには、驚きと共に感動が心の中から湧きあがってきた。そして、追いかけてくるように少しの罪悪感が迫ってきた。罪悪感はさておき、このような感動は、友人に伝えられずにはいられなかった。
 感動を共有するということが大好きな私だが、自分の感動をそのまま相手に同じように伝えるということは至難の業である。相手に何かを伝えるためには、まず話を整理して、伝えていく順序立てをしていくことが大切である。そして、自分が感動した内容に対して理解していなければならない。自分が理解していないものは、大体相手にも伝わらない。
 しかし、自分が理解していないということに気付くことはなかなか難しい。「なるほどなぁ」と私の中では、理解したうえで感動しているため、自分の理解に対しての疑いは到底もたない。
 「なるほどなぁ」・「わかった」ということは、どこまでいっても自分の中での判断に過ぎないのかもしれない。先週、乾先生が紹介されていた言葉ではあるが、この言葉は、天狗のように鼻を伸ばしていく私にいつも問いかけをくださる言葉であり、大切にしているので、再度紹介したい。「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。」(『蓮如上人御一代記聞書』)(自分で「わかっている」と思っている人は、実は自分の「わかった」という思いに閉じこもっている人のことである。「まだよくわからない」と思っている人は、謙虚に教えを聞いていこうとする人のことである。)
 私たちが「わかった」というときは大体、自分の理解できる範囲のことだけを拾った理解ではないだろうか。しかも、それを無意識に行っているのではないだろうか。無意識だからこそ、自分だけで気付くのは難しいのである。
 私自身、大学での発表のことを思い出される。発表の際は、当たり前ではあるが、前もって準備を完璧にして臨む。発表を終えてドヤ顔をしている私を待っていたのは、質問の嵐だった。完璧に準備をしていったはずだが、全くもって質問に答えることが出来なかったのである。要するに、わかっていなかったということである。

 人に伝えるということは、同時にわかっていない自分が知らされるのである。偉そうにこんなことを言っているが、「心得た」と常に思う私である。                    (宗教科 東山)




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心得たと思うは、心得ぬなり。 心得ぬと思うは、こころえたるなり。

今週の一週一言
                                  月15日~5月21日
  心得たと思うは、心得ぬなり。
心得ぬと思うは、こころえたるなり。
                    蓮如
蓮如・・・1415年京都生まれ、1499年没 真宗の僧侶。本願寺第8世、中興の祖。衰退の極みにあった本願寺を再興し、現代の本願寺教団(東・西本願寺)の礎を築いた。

【如是我聞】
 なぜ勉強するのか。この問いには多くの人が多様な答えを残している。私の尊敬する先生は「勉強すると、違う景色が見えてくるんです」と教えてくださった。同じものを目にしても、今まで見えなかった、または、気づかなかったところが目に入ってくるのだろう。大きく頷いたのを覚えている。
 今年の新入生本山参拝で、本山を代表して八島参務がお話された。自身の高校時代を振り返り、できると思っていた数学が全く分からなくなり苦労したとの話であった。
 途中、関数やら数研出版の問題集やらと、話がどこへ向かうのかと思っていたら、「わかるということは実はあまりたいしたことではないのです。今の自分のままでいいのですから。わからないということが全ての始まりとなるのです。どうぞわからないということを大事にしてください」というしめであった。わからないことをダメとし、わかることをヨシとしているわたしたち教員に向けた言葉のように思えた。
 私たちは「わからないことがわかる」ということに重きを置きすぎているのかもしれない。学びにおいて大事なことは、実はそうではなくて、「わからないということがわかる」ことや「わかっていないということに気づく」ことなのだろう。
 最近、してはいけないことをしてしまった息子と少し話をした。「彼は悪いことをしたことはわかっている、反省している」と答えた。しかし、そこに何かもの足りなさを感じた。いったい何なのか。それがわからずに、「わかっているならよし」としてしまった自分がいた。そして、先週気づいた。彼の言葉に足りないと感じたものに。

 それは、してはいけないことをした自分に対する「痛み・悲しみ・恥ずかしさ」という感覚である。反省するということはそういうことなのだろう。自分に対する「痛み・悲しみ・恥ずかしさ」のない反省には「わかっている」という言葉が出てしまうようだ。逆に「わかっていなかった」という言葉が自己に対する痛みと共に出てくれば、そこに新たな、そして本当の学びが始まるのかもしれない。(宗教・英語科 乾 )




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その人を憶いてわれは生き、その人を忘れてわれは迷う

今週の一週一言 5 月 8 日 〜 5 月 14 日 その人を憶いてわれは生き、その人を忘れてわれは迷う 金子大榮 金子 大榮( 1881 ~ 1976 年)  新潟県高田出身の真宗大谷派の僧侶。真宗京都中学(現、本校)を卒業後、真宗...