今週の一週一言
5月15日~5月21日
心得たと思うは、心得ぬなり。
心得ぬと思うは、こころえたるなり。
蓮如
蓮如・・・1415年京都生まれ、1499年没 真宗の僧侶。本願寺第8世、中興の祖。衰退の極みにあった本願寺を再興し、現代の本願寺教団(東・西本願寺)の礎を築いた。
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【如是我聞】
なぜ勉強するのか。この問いには多くの人が多様な答えを残している。私の尊敬する先生は「勉強すると、違う景色が見えてくるんです」と教えてくださった。同じものを目にしても、今まで見えなかった、または、気づかなかったところが目に入ってくるのだろう。大きく頷いたのを覚えている。
今年の新入生本山参拝で、本山を代表して八島参務がお話された。自身の高校時代を振り返り、できると思っていた数学が全く分からなくなり苦労したとの話であった。
途中、関数やら数研出版の問題集やらと、話がどこへ向かうのかと思っていたら、「わかるということは実はあまりたいしたことではないのです。今の自分のままでいいのですから。わからないということが全ての始まりとなるのです。どうぞわからないということを大事にしてください」というしめであった。わからないことをダメとし、わかることをヨシとしているわたしたち教員に向けた言葉のように思えた。
私たちは「わからないことがわかる」ということに重きを置きすぎているのかもしれない。学びにおいて大事なことは、実はそうではなくて、「わからないということがわかる」ことや「わかっていないということに気づく」ことなのだろう。
最近、してはいけないことをしてしまった息子と少し話をした。「彼は悪いことをしたことはわかっている、反省している」と答えた。しかし、そこに何かもの足りなさを感じた。いったい何なのか。それがわからずに、「わかっているならよし」としてしまった自分がいた。そして、先週気づいた。彼の言葉に足りないと感じたものに。
それは、してはいけないことをした自分に対する「痛み・悲しみ・恥ずかしさ」という感覚である。反省するということはそういうことなのだろう。自分に対する「痛み・悲しみ・恥ずかしさ」のない反省には「わかっている」という言葉が出てしまうようだ。逆に「わかっていなかった」という言葉が自己に対する痛みと共に出てくれば、そこに新たな、そして本当の学びが始まるのかもしれない。(宗教・英語科 乾 )
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