今週の一週一言
10月23日~10月29日
わがこころのよくて、ころさぬにはあらず
『歎異抄』
『歎異抄』
親鸞の教えを弟子・唯円がまとめたとされる仏教書。鎌倉後期に成立。室町中期に蓮如によって見出され、明治期、清澤満之らによって宗派を超えた宗教哲学の書として再評価される。なお作成にあたり、乾文雄先生、山田友能先生よりご教示いただきました。
【如是我聞】
あるとき、親鸞は弟子の唯円に、私を信じるかと尋ねた。彼が肯定すると、今度は言いつけに逆らわないかと訊く。常に従うと答えると師は告げた。千人殺してこい、そうすれば極楽浄土へ行ける、と。仰せではありますが一人も殺せません、そう訴える弟子に、親鸞は、これでわかっただろう、と言う。自らの思いのままにできるのなら、千人でも殺せるはずだ。しかしそういう“業縁”がないときには一人さえ殺せない。これは自分のこころが良くて殺さないのではない。逆にやりたくないと思っていても、百人千人を殺してしまうことだってあるのだ──。「絶対他力」、すなわち“何事も自分の思い通りにはできない”という教えとして知られる一節である。
有名すぎるため見過ごされがちだが、よく考えるとこの話、かなり絶妙なバランスの上に成り立っている。というのは、もし唯円が師の指示に呆れて従う気をなくしたり、逆に刀を持って飛びだしていったりしたら、彼は「思い通り」に行動したことになってしまうからだ。弟子をあやまたず「他力」という“気づき”へと導くには、「師の指示に従いたいが、そうできない」という状況にならねばならない。つまり親鸞はこのとき、唯円が自分に心服しながらも命令だけは断ってくれること ──言い換えれば“業縁”が整っていないこと── に賭けた、ということになる。
当たり前だ、殺人などそうそうできるわけがない、そう思われるだろうか。しかし歴史をひもとけば、信仰ほど人に思考を放棄させ、殺したり、殺さなかったりを命じてくるものもない。多くの指導者が信徒に無条件で自分(あるいはその背後にいる神)に従うよう求める中、弟子に「できない」という台詞を期待する親鸞の方が、むしろ例外的なのだ。「親鸞には真の意味での弟子はおらず、すべての人はともに生き、考え、悩む仲間だった」とはしばしば語られることだが、そのありようはここまで直接的に弟子を訓導するエピソードの中にあっても、その奥底に流れているということだろうか。この親鸞の弟子への接しかたは、むろん宗門校に勤める我々教員の生徒へのふるまいについて、強 い示唆を与えるものだ。言うことを聞かなくてもカッとせず、学びの機会ととらえること。知識を教えこむのではなく、
自分で判断させ気づかせること。しかしなにより僕が戦(おのの)くのは、その根源的(ラディカル)な探究の姿勢だ。なにしろこの物語では、殺人という禁忌すら相対化される。
「なるほど、自分で考えないといけないのはわかりました。でも人殺しは問答無用でダメですよね?」などという思考停止を、この逸話は決して許さないのである。
(国語科 奥島 寛)
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