一週一言インデックス

2017年1月25日水曜日

雲の向こうはいつも青空

今週の一週一言
                                  1月23日~29日
雲の向こうはいつも青空  (There is always light behind clouds.)
ルイーザ・メイ・オルコット(Louisa May Alcott)(1832-1888
アメリカの小説家。 「若草物語」(Little Women)で知られる。                  
【如是我聞】
小学生の頃(もう半世紀ほど前のことになってしまうのか)、当時小学校の先生をしていた私の伯母(母の姉)が『少年少女世界名作文学全集』(そんな名前だったように記憶している)を読むように薦めてくれたのをきっかけに読書に目覚めた私は、片っ端からそれらの作品を読むようになった。三銃士、岩窟王、ああ無情、黒猫、黄金虫、宝島、シャーロックホームズ、ロビンフッド、トムソーヤ、ドンキホーテなどを読んでわくわくしていた。とにかく全部読むつもりでいたのだが、周囲の本好きの女子や伯母などは絶賛していたにもかかわらず、小学生の私には読んでも何かいま一つピンとこず、途中で投げ出したものが2作品あった。「赤毛のアン」と「若草物語」であった...
さてその若草物語の作者のことばである。これに類することばとしては「明けない夜はない」「夜空の向こうにはもう明日が待っている」(解散という明日だったんだなあ)とか「やまない雨はない」と様々な表現がある。今、自分の状況がたとえよくなくても、いつかはそれが好転していくものだということのたとえとしてよく用いられる。
しかしながら、この夜明けや雨に例えた表現とオルコットの表現には大きな違いがあるように思う。前者は時間がたてば何とかなるといっているだけなのに対して、オルコットは、原文の英語を読むとより明らかになるのだが、雲の向こうには青空(正しくは光)がいつもそこにあると言っている。これは『正信偈』(幼い頃に母に教えられた時は音だけで意味はさっぱり分からなかったが)の中の譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 (たとえば日光が雲霧に覆われても,雲霧の下明らかにして闇無きがごとし)“It is like the sun-light veiled by clouds: Behind the clouds, the brightness reigns and there is no darkness. (英訳は鈴木大拙)と通ずるものがあるように思う。この雲霧は「私たちの心にある貪りや憎しみなどの煩悩」のたとえとして用いられている。その雲霧が立ち込めて天空を覆うことがあり、日光を直接目にすることはできなくても、その向こうで日光は輝き続けており、空を覆っている雲や霧を通して光は届いている。光そのもののない闇ではない。光を待つのではなく、光がいつもそこにあることを感じ、その光に常に護られていることに安心すれば、その光によって明らかになる煩悩とも対峙できるようになり、時を待つことなく雲霧も晴れるようにもなる。
これに先立つ句、摂取心光常照護(すべてを(おさ)め取って下さる仏の光がいつも私たちを照らし、護っていて下さる)を、これから道を切り開こうとしている生徒諸君に贈っている今日この頃である。

(文責:英語科 辻 仁)




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2017年1月15日日曜日

人間はみんなちがった眼で星を見ている だけど星のほうはなんにも言わずだまっている

今週の一週一言
                                  1月16日~1月22日

人間はみんなちがった眼で星を見ている 
            だけど星のほうはなんにも言わずだまっている
サン=テグジュペリ・・・19001944 フランスの作家。飛行家生活を題材として人間性の高揚を描く。代表作に童話『星の王子様』がある。
                   
【如是我聞】

第一話「私と星との出会い」
 私と星との付き合いは、私が生まれてまもなく星朗と命名されたときからである。私が生まれた6月は梅雨で毎日雨が続き星を拝むことができない。しかし、私が生まれた瞬間に雨が止み、星空が見えたらしい。梅雨の長雨に洗われた空はとてもきれいで、瞬く星は本当に美しかったと名付け親の祖父は言っていた。そこで星朗と付けようと思ったらしい。私の両親はそんな変な()名前はあかんと反対したようだが、頑固な祖父が押し切り私の名前はめでたく星朗となった。そして、年度始めに星つながりでこれを書くことになった。

第二話「お星様になる」
 私は妻のお父さんに会ったことはない。彼女と結婚するときにはもうすでに他界していた。命日は815日終戦記念日である。その日を迎えるたびに、世界平和を心から願う私は、その思いを強くするのと同時に、会ったことのない義父のことを思う。もし彼が生きていたら、私のことをどう思うのだろう?娘の婿として認めてくれるのだろうかと。私の長男が幼いころよく妻に、自分たちが会ったことのないおじいちゃんのことをよくたずねた。まだ、「死」ということがどのようなことなのかわからないときだったので、よく妻が、「おじいちゃんはお星様になって、みんなのことを見守っているんやで」と彼に言っていた。その長男は幼稚園の時にサンタさんに天体望遠鏡をお願いしプレゼントしてもらうくらい星が大好きだった。まだ自分で設定できなかったので、私が設定し最も照準を合わせやすい月をしばらくは毎晩見ていた。その都度長男は私に、「おじいちゃんはどの星なんだろうね。元気にしているかなあ。」と言った。そんな優しい長男は大きくなり小学生となった。先日、兄弟げんかしている彼が妹に発した言葉はこうである。「お前みたいなヤツはお星様になったらええねん!!」もちろん、きちんと叱っておきました。
第三話「星の役割」
 星というものはその人によってどのような役割を担うのかが変わってくる。ある者にとっては方位を示す道標となり、ある者にとっては遠くにいる愛しい人と、離れていても同じものを見ていると思うことでその人を近くに感じさせてくれる存在となり、ある者にとっては研究の対象であり、ある者にとってはお仕置きをしにくる正義の味方だったりもする。しかし、その星自身はなんにもいわずだまっている。その星の存在を良いものにするのも、悪いものにするのもその人自身だったりもする。それは人間に対しても同じことが言えるような気がする。「星のほうはなんにも言わずにだまっている」には「きみにとっては、星がほかの人とは違ったものになるんだ」というフレーズが続く。相手を悪いやつにするのも、良いやつにするのも自分次第であったりもする。

最終話「一番身近な星」
 私たちに一番身近な星は地球である。その上で生きているとあまり星と思うことはない。遠くにあって全体像が見えるようになって、私たちの中で星は星となりうるのだろうか。そう思うと私たちは当たり前だが自分目線で物事を考える。「地球に優しく」などのフレーズで環境保護を訴える。あたかも地球が困っているかのようだが、人間目線である。当の地球は何をされても痛くもかゆくもなく、なんにも言わずにだまっている。「地球に優しく」は、何となく平和を乱す輩と発想が似ているような気がする。正義の名の下に、ある国や集団を敵と仮想し争いを起こす。自分の利益のため、自分を正当化するため、または自分の悪行を隠すため、などが見え隠れする。でもこのことだけは星のようになんにもいわずだまっていられない。戦争で苦しんでいる人がいる。子どもたちの未来の平和が脅かされる。私たちに何ができるのか?少なくとも戦争について、平和について考え、話合うことが大切だと思う。
 先日、学校で友だちとけんかをしてケガを負わせた長女に話をした。
星朗:お前、またけんかしたんか!?学校で一番大切なものは何や?
長女:勉強やろ。
星朗:違うわ!!安全に決まってるやろ!!学校の安全を脅かすお前は学校に行く資格はない!明日から
   学校に行くな!!
長女:えっ?ごめんなさい。けんかしないから、学校には行かせて。
 我が家ではこのように平和維持活動が行われております。


(文責:英語科 田中 星朗)




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内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

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