一週一言インデックス

2013年11月19日火曜日

如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし  師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし

今週の一週一言
11月18日~11月24日
   
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし
『正像末和讃』
親鸞聖人・・・1173~1262。幼少の頃出家し、比叡山延暦寺に学ぶ。29歳の時、山を下り、法然の門弟となる。法然に連座して越後に流され、赦免後は常陸に住み、多くの人々を教化する。晩年は京都に戻り、『教行信証』などの著述に専念した。

【如是我聞】
この和讃を讃歌にしたものを「恩徳讃」といいます。本校でも講堂礼拝や報恩講のときに皆で歌います。この和讃の中で親鸞聖人は、「如来大悲」と「師主知識」という二つの恩徳に対する、自らの姿勢をうたわれています。
「身を粉にしても報ずべし」と「骨を砕きても謝すべし」。どちらも出来ないことです。しかし、出来ないことをあえて「べし」とおっしゃっているということは、その恩徳ということが、いかに深いものであるか、そしてこの身に余るものであるかということを表しておられるのだと思います。
親鸞聖人が「べし」という言葉を使われる時は本当に大事なことをおっしゃられる時です。「べし」とは正式には7~8通りの意味を持つ言葉ですが、聖人が「べし」と使われる時は、「当為」の助動詞で、命令的な意味を持ちます。何々をしなさいと。しかし、聖人は人に命令されているのではなく、本当に大切なことを、もう一度ご自身の上に確認されるために「べし」を使われているのだと思います。親鸞聖人が数ある『和讃』のなかで、「べし」を2回も使われているのはこの一首だけです。それがこの「恩徳讃」です。

報ずべき 身を粉にもせず 親鸞忌

親鸞聖人が「べし」と二度も重ねておっしゃっている「恩徳」に背いてばかりいるこの私というものが、「恩徳讃」を歌うたびに見えてくるのでしょう。そういう形で親鸞聖人に申し訳ないなと、逆に聖人に出遇っておられる方の句です。


                         (文責:宗教・社会科 山田)

2013年11月12日火曜日

大悲無倦常照我身

今週の一週一言
11月11日~11月17日
                                 
 大悲無倦常照我身
                    
源信・・・942~1017。平安中期の天台僧。若くして比叡山横川に隠棲し、
      『往生要集』を著す。親鸞聖人は真宗相承の祖師として、七高僧の一人に
      数えた。

【如是我聞】

 中国、中唐の詩人劉禹(りゅうう)(しゃく)に「(しゅう)(ぶん)(よう)」という漢詩がある。聚は集まる、謡は歌の形式。つまり「蚊がたくさん集まってブンブンいっているような歌」が「(しゅう)(ぶん)(よう)」だ。一匹いても気になって気になって仕方ないあの蚊がたくさんいるのだからたまったものではない。今なら防虫剤、殺虫剤が威力を発揮するところだろうがその頃はどうしたのだろう。劉禹(りゅうう)(しゃく)は蚊のことを言ったわけではなくて自分をあれこれ悪く言う人がたくさんいる。自分は悪くないのに、ということを訴えている詩ではあるが。
 さて、人から嫌われる虫は時に「害虫」と呼ばれる。人に不快な思いをさせたり、農家さんを困らせたりするから「害虫」と呼ばれるのだが、虫自身は自分が害虫とはだ思っていないだろう。だから蚊は来なくてもいいのに何度でも人から血を吸おうとする。一方ミツバチなどは人に利益をもたらすため「益虫」扱いされることもあるが、これも子どもたちを育てるためせっせと蜜を集めているはずのミツバチからするとたまったものではないかもしれない。つまり「害虫」も「益虫」も人間中心の見方からの呼び名で、どちらも人間にいのちを奪われている。
 「一切の生きとし生けるものは幸いであれ」と説く仏教の教えに照らすと人間の虫に対する行いはいかにも罪深い。そんな人間は、いや私は救われるのだろうか。阿弥陀仏の大いなる慈悲の心、大悲は罪深い行為をし、なおかつ救われることに疑問を持ってしまう我が身すら救おうとするという。私はそれをありがたいと感じるよりも慈悲を受けるにふさわしい自分か振り返る方に意識が向いてしまう。



(文責:宗教・国語科 佐々木)

2013年11月5日火曜日

慚愧あるが故に 名づけて人となす。

今週の一週一言
11月5日~11月10日
                                 
 慚愧(ざんき)あるが(ゆえ)に 名づけて(にん)となす。
涅槃経(趣意)・・・釈尊の最後の旅、入滅、遺骨の分配などの様子を伝える。
           東晋の僧、法顕によって『大般涅槃経』として漢訳された。                    

【如是我聞】
東京スカイツリーは2011年にギネス認定された世界一高いタワーだ。東京の新名所として多くの人が訪れている。最も高いところで634m。でも私たちが行くことができるのは450mまで。それも床が450mなのか、天井がそうなのか。最近チラッと「東京スカイツリーから見る夜景」を組み込んだツアーの広告を見た。でもせいぜい450メートルでしょ…それほど感動するだろうか。比叡山なら848メートルあるのでこちらのほうが高さはうんと高い。
 ならば世界文化遺産に登録された富士山。こちらは高さ3776メートル。ここから見る夜景はきれいなことだろうと思って登った人の話に聞くと、きれいなのは日が出ている間の自然の景色のほうがきれいだと思うよ、とのことであった。なるほど、それはそうかもしれない。朝日が昇ってくるところを多くの人が目指したいと思う気持ちもわかる。
 ではずっと高く行って、宇宙から見た地球の夜景はどうか。私たちはそれを映像でしか見られないが、宇宙飛行士ならば自分の目で見ることができる。日本人宇宙飛行士として二度、宇宙に飛び立った毛利衛さんは次のように言っている。「シャトルから見た日本は夜の地球の中でひときわ明るく、列島の形がくっきりと浮かび上がっていた」。このあとに毛利さんはどのような言葉をつなげたと思いますか?「他国のクルーと見ていて恥ずかしかった」。私はこの「恥ずかしい」という気持ちには大事なことが含まれていると思う。明るいのは人間が大量にエネルギー消費をしているためだ。そのエネルギー消費の弊害は既に地球規模の問題なのに、さらに消費規模を拡大しようとし、それをよしとしているのではないか。日本だけじゃない、アメリカだって、中東だってなどと言ってはいけない。それこそ「恥も外聞もない」ことだ。ここで人間が自らを振り返らず、「恥ずかしさ」もなくしてしまったらどうなってしまうのだろう。


                        (文責:宗教・国語科 佐々木)

内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1...