今週の一週一言
1月18日~1月24日
~ どんな傷でも 治るときには徐々に治ったのでは ありませんか ~
シェイクスピア(1564~1616) … 英国の劇作家、詩人。英国ルネサンス演劇を代表する人物。
市会議員を務めた父と、上流階級出身の母を持ち、きわめて裕福な家庭環境に育つ。卓越した人間観察眼からなる心理描写によって、優れた英文学作品を残している。主な作品は『ロミオとジュリエット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王』、『ヴェニスの商人』、『真夏の夜の夢』など。
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【如是我聞】
今週の一言は、シェイクスピア著『リア王』の脚本で登場するものである。恐縮ながら今回も、台詞の出てくる場面に基づかずに、思うところを勝手気ままに執筆させて頂きたい。
「どんな傷でも」の『傷』は、肉体的な負傷ではなく精神的なダメージを指す比喩だが、この問いかけが傷つく側と傷つける側のいずれに対してなされるかで、意図解釈が分かれる。苦境に立つ人に問いかけるなら、「ケガして出来た傷は徐々に癒えたでしょう? 同じように、抱えている問題も心の痛みも、ゆっくりではあれ、いずれは消えるものだよ。だから焦らないで気長に前進しよう。」と慰め、勇気づけるものになる。対して、他人を傷つけようとする人に問いかけるなら、「あなたにも傷ついた経験はあるでしょう。なかなか癒えないあの苦しみを思い出して。それを他人に与えようというのですか?」と諭すためのものになる。ただ、どちらの意味でそう言われても、ストレートにそう諭されると、渦中にいる人の大半は「放っておいてくれ!」と返してしまうことだろう。直接的な諭しは、傷ついた人を「私は今、こんなにも辛くて苦しい。それを、いずれは・・・だなんて。いったい後どのくらい苦しめばいいというのか!」と終わりの見えない苦しみに追い詰めもする。傷つける側の人の感情を「実情を何も知らない奴に、なぜエラそうに諭されなきゃならないんだ!それもこれも、あいつのせいだ!」と刺激し、憤怒や憎悪を増幅させることもある。そうなることを避け、ひと呼吸おいて意味を拾ってもらえるように、わざとこうして曖昧に問いかけているのである。
傷つく側も傷つける側も、冷静にならなければ事態の好転も進展も望めない。悲観的な気分にどっぷり浸っても、己の怒りや憎しみを暴走させても、新たな悲劇を生むだけだ。ほとぼりが冷めれば冷静に思考できるようになり、事態の改善につなげていける。そうした冷静さを取り戻すには、ちょっとひねった表現でわざと理解に時間が必要な問いかけをするのが、有効なのだ。この表現は、そのためにあるもののうちのひとつである。
「どんな傷でも、治るときは徐々に治ったのではありませんか」 ―― 誰だって傷を負う。悲観的になったり感情的になったりするのも仕方がない。しかし ―― まずは、冷静になりましょうよ。
そういっているのだ。
私もよく傷つくし、他人を傷つることもしかねない。気持ちが乱れそうになったら、この問いかけを思い出すところから始めてみようと思う。
(英語科 ブラウン 香)
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