一週一言インデックス

2016年1月28日木曜日

~ どんな傷でも 治るときには徐々に治ったのでは ありませんか ~

今週の一週一言              月18日~1月24日
どんな傷でも 治るときには徐々に治ったのでは ありませんか
シェイクスピア(15641616) … 英国の劇作家、詩人。英国ルネサンス演劇を代表する人物。
市会議員を務めた父と、上流階級出身の母を持ち、きわめて裕福な家庭環境に育つ。卓越した人間観察眼からなる心理描写によって、優れた英文学作品を残している。主な作品は『ロミオとジュリエット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王』、『ヴェニスの商人』、『真夏の夜の夢』など。

【如是我聞】
 今週の一言は、シェイクスピア著『リア王』の脚本で登場するものである。恐縮ながら今回も、台詞の出てくる場面に基づかずに、思うところを勝手気ままに執筆させて頂きたい。

「どんな傷でも」の『傷』は、肉体的な負傷ではなく精神的なダメージを指す比喩だが、この問いかけが傷つく側と傷つける側のいずれに対してなされるかで、意図解釈が分かれる。苦境に立つ人に問いかけるなら、「ケガして出来た傷は徐々に癒えたでしょう? 同じように、抱えている問題も心の痛みも、ゆっくりではあれ、いずれは消えるものだよ。だから焦らないで気長に前進しよう。」と慰め、勇気づけるものになる。対して、他人を傷つけようとする人に問いかけるなら、「あなたにも傷ついた経験はあるでしょう。なかなか癒えないあの苦しみを思い出して。それを他人に与えようというのですか?」と諭すためのものになる。ただ、どちらの意味でそう言われても、ストレートにそう諭されると、渦中にいる人の大半は「放っておいてくれ!」と返してしまうことだろう。直接的な諭しは、傷ついた人を「私は今、こんなにも辛くて苦しい。それを、いずれは・・・だなんて。いったい後どのくらい苦しめばいいというのか!」と終わりの見えない苦しみに追い詰めもする。傷つける側の人の感情を「実情を何も知らない奴に、なぜエラそうに諭されなきゃならないんだ!それもこれも、あいつのせいだ!」と刺激し、憤怒や憎悪を増幅させることもある。そうなることを避け、ひと呼吸おいて意味を拾ってもらえるように、わざとこうして曖昧に問いかけているのである。
傷つく側も傷つける側も、冷静にならなければ事態の好転も進展も望めない。悲観的な気分にどっぷり浸っても、己の怒りや憎しみを暴走させても、新たな悲劇を生むだけだ。ほとぼりが冷めれば冷静に思考できるようになり、事態の改善につなげていける。そうした冷静さを取り戻すには、ちょっとひねった表現でわざと理解に時間が必要な問いかけをするのが、有効なのだ。この表現は、そのためにあるもののうちのひとつである。
「どんな傷でも、治るときは徐々に治ったのではありませんか」 ―― 誰だって傷を負う。悲観的になったり感情的になったりするのも仕方がない。しかし ―― まずは、冷静になりましょうよ。 そういっているのだ。
私もよく傷つくし、他人を傷つることもしかねない。気持ちが乱れそうになったら、この問いかけを思い出すところから始めてみようと思う。


(英語科 ブラウン 香)




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自分以外のものを頼るほどはかないものはない。 しかし、その自分ほどあてにならないものはない。

今週の一週一言
                                  12月14日~12月23日
自分以外のものを頼るほどはかないものはない。
しかし、その自分ほどあてにならないものはない。
夏目漱石・・・慶応3年、江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区)生ま。本名金之助。東大文学部英文科卒業。愛媛、熊本に英語教師として赴任後、イギリスへ留学。帰国後、一高・東大講師。38歳の時に『吾輩は猫である』を発表し作家として活動開始。『それから』『こころ』など著書多数。

【如是我聞】
漱石は何が言いたいのだろう…。
自分以外が頼りなくて、その自分もあてにならないのだったらどうしろというのだ。

つまり…これは「格言」ではないのだ。出典がわからなかったので前後の文脈がどういうものであったのかがわからないものの、このことばは漱石自身の迷いであり、とまどいなのだ。
私のイメージする漱石はいつも顔をしかめている。明治という時代に生まれた「近代国家」と「個人」というものを一身に背負って、しかも胃痛に苦しめられ、いつもイライラしている。彼はまるで日本と日本の近代を代表して悩んでいるかのようだ。

それに比べれば私の悩みなどは「はかない」ものだと言わざるをえない。漱石同様「自分ほどあてにならないものはない」と思ってはいる。もちろん、私の「自分ほど」は漱石と比べる価値もないほど「あてにならない」ものであることは言うまでもないが、それでも私にも悩みはある(と言うと、妻や息子は笑うのだ。あまりにもストレスの少ないストレスチェックの結果を見せたら大笑いされた…)。
大きなほうでは、世界平和がいつまでも実現しないことに悩んでいる。テロと報復の連鎖を断ち切れないことに絶望を感じている。国や民族同士の対立、異教徒同士の対立は、お互いの実体を見定めようともしないで相手をまるごと「悪」と決めつけ、自らの正義をふりかざす。対立の犠牲になるのはエライ人たちではなく、いつも女性や子ども、貧しい人たちである。
中くらいの悩みは、そんなに大きいとはいえないこの職場。何年も同じ部屋で仕事をしていながら意思の疎通は難しいなぁということ。人はなかなか変わらない。自分からアクションをおこせず、あきらめのため息をつく。変わらないのは自分も同じか…と、またため息。
小さな悩みは日々生まれている。
テレビを観ていると、「CM上の演出です」「特別な許可を得て撮影しています」「意見には個人差があります」などの小さな文字が気に掛かる。わざわざ記すには理由があるということは理解できる。メディアは(そして学校も)イチャモン社会である。揚げ足をとることに命をかけるヤツ(「命なんてかけちゃいない」との“ご意見”をいただきそうだ)は山ほどいる。でも、画面の片隅の小さな文字でそれをかわそうとする制作者の姿勢もセコいと憤慨している。
晩酌の買い出しにスーパーを歩き回りながら、野菜の高さに心を痛め(レタス1個290円!)、8%の消費税に涙する。軽減税率ったって、10%にならないだけのこと。わずか2%で家計は軽減を実感しない。それに、酒は対象外!? 酒税ってなんなんだ!!
年老いた父母は共に認知症で、バラバラの施設で暮らしている。夫婦として何十年も一緒に生活してきた二人が最後のコーナーをまわったところで離れて暮らさざるを得ない…この責任はどこにある? 国か、厚生労働省か、それとも(長男である)私か…。
言ったって(書いたって)解決しないようなことばかりに悩み、そして怒っている。自分はほんとうに「あてにならな」くて、自分以外のものに丸投げしたい気分になる。これを漱石の気分と並べようとするところにそもそもの間違いがありそうだ。どうもすみません。

ただ、私は「はかな」くったっていいから自分以外のものに頼りたいと思っている。自分は「あてにならない」なぁと愚痴りながら、話したってどうなるものでもないよなと感じながら、自分の傍らに「自分以外のもの」に居てほしいと思っている。大きな悩みも小さな悩みもだれかに話すだけでいくらかは解決するような気がする。解決できなくても怒りが(少しは)落ち着き、イライラは(一瞬)おさまるような気がする。きっと漱石だってそうだったはずだ。(先に死んでしまったけど)子規がいたから、(イライラの原因ではあったかもしれないが)鏡子さんがいたから、(勝手ばかりする)弟子たちがいたから…あれだけの仕事ができたのではないだろうか。
そういえば、漱石の享年は49。今年、私は50になった。「知命」なんてとんでもない。今の世の中と頼りない自分、ほんとうにどうしたらよいのだろう。

(社会科 佐藤博之)





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如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし

今週の一週一言
                                  11月24日~11月29日
 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
       師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし
宗祖親鸞(1173~1263)・・・浄土真宗の宗祖。法然を師と仰ぎ、その教えを継承し、顕揚していくことに力を注いだ。著作は『教行信証』、『三帖和讃』など多数。

【如是我聞】
 ♪にょ~ら~い だ~い~ひ~の~ お~んど~く~は~♪と、私の3人の子どもたちが彼らのおじいちゃんの法事のときにお坊さんが読み上げるのに合わせて、空で声に出しているのを聞いて驚きました。
 私はこの恩徳讃を子守歌にして子どもたちを寝かせてきました。一番上の子が生まれたときに、宗教科の先生が「恩徳讃は子守歌にええよ~」と教えてくださったので実践したところ効き目抜群で、それ以来、子どもたちを寝かすときは恩徳讃を子守歌にしました(ちなみに、長男と次女は恩徳讃、長女は四弘誓願が一番よく寝ました)。子どもたちも気に入っていたのか、夜、添い寝をしていると、「おとうしゃ~ん、♪にょ~らいだ~いひ♪歌って」とよくせがまれました。それがあってか私の子どもは意味もわからずに恩徳讃を歌うことができます。
 恩徳讃の意味?私もよくわかりません。私は大谷高校出身で礼拝でも歌い、宗教の授業でも意味もならったはずなのに。大谷には宗教の先生がいますので、私ごときが意味を説明するまでもないと思いますが、恩徳讃の、「恩徳」「報ず」「謝す」の言葉を聞くたびに頭をよぎる言葉があります。それは「ノブレスオブリージュ」です。
 「ノブレスオブリージュ」とは「高い地位や身分に伴う義務」です。かつてのヨーロッパの貴族階級は、庶民からの税などで生活をしていたので、その分、戦争や事件が起こった時は庶民よりも先に貴族が行動を起こす義務を伴うのだと、ひろさちや氏がおっしゃっていました。
 貴族でなくても我々も同じだと思います。何かを施してもらったら、そのことを何かで恩返しをする義務を伴うのではないか。私たちは命を授けてもらいました。ならばそれに伴う義務があるのではないか。目の前で起こっていることが不幸につながることが明白ならば、それを看過するのではなく手を差し伸べる義務をおうのではないか。特に命に関わることならなおさらそうではないか。それが命を授かったものの「ノブレスオブリージュ」なのではないか。
 先日、フランスでISによるテロ攻撃がありました。それに対してフランスも報復のようにISを空爆しました。遠くても、多くの人間の命が奪われています。私たちも看過せずに「ノブレスオブリージュ」を遂行しなくてはならないのではないでしょうか。直接的に何ができるかわかりませんが、子どもたちと平和について語り合うことはできます。私は子どもたちに言います。「私は世界平和を望む」と。そして共に考えます。どうすれば世界平和が実現できるか。

 我が家ではどうか。「宿題やったか?」「宿題するのいやや!」「アホか、学校行くことを選択したら、宿題をするのはノブレスオブリージュや!!嫌なら学校行くな!!」「何その、ノブレスなんちゃらって?」「やらなあかんことという意味や」「は~い、宿題やってきます、ノブレスオブリージュ」我が家ではこのようにノブレスオブリージュが遂行されています。         (英語科 田中星朗)




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自由とは「自分の持って生まれた才能や性質を十分に発揮する」 ということである 

今週の一週一言
                                 
自由とは「自分の持って生まれた才能や性質を十分に発揮する」
ということである 
                  
西田幾多郎(1870~1945) ・・・ 日本を代表する哲学者。京都大学教授、名誉教授。
主著『善の研究』。

【如是我聞】
 若い頃、特に中高校生の頃(1960年代後半から1970年代の初めの頃)に、「自由」という言葉に憧れていた。当時よく耳にしていた洋楽の世界にはFreeというバンドがあったし、当時の洋楽の歌詞の中で”free”とか”freedom” あるいは”liberty”という語をよく耳にした。私の中高生の頃はそういう時代であった。当時の中高生には、今よりもずっと多くの制約がかけられていたように思う。たとえば、そういう音楽を聞いていたり、electric guitar (場合によってはacoustic guitarでも)を弾いていたりするだけで不良と呼ばれたりしたものだ。田舎の中学生の頭髪は丸刈りと決められていたし、夜遅くに外出することも、特定の異性と仲良くすることも簡単には許されない雰囲気があり、大人たちによって束縛されている感じが常にあったように思う。そんな時代の若者にとって「自由」という言葉は、ありきたりな表現を用いて言えば、鳥が大空を羽ばたいているようなイメージを伴って本当に魅力的なことばとして存在していた。
 「自由」という言葉は相対的な言葉である。束縛や制約のない状態のことを指す言葉であるからだ。自由という言葉を意識するときはいつも何らかの束縛や制約を感じているということでもあった。若い頃の私は、自分の思い通りにならないのは、「制約が多く自由がないからだ」と周囲のせいにしていたように思う。しかし、自由とは文字通り「自分に由る」ということであり、すべての行動が自分自身に起因するということだ。自由になる、あるいは自由を感じるのは、結局のところは自分次第ということなのだ。そこにもっと早く気付くことができていれば、自己を見つめ、「自分の持って生まれた才能や性質を十分に発揮する」ことが可能になっていたのかもしれない。
free という語の日本語訳には「暇」という表現もある。すべての束縛、制約から解放されると「暇」になってしまうものなのかなあ。

              (文責:英語科 辻)




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自分と向き合うにはひとりになるんじゃないわ  自分を知らない人たちと関わりあうのよ  見えてくるわよ、本当の自分が

今週の一週一言
                                  11月2日~11月8日
自分と向き合うにはひとりになるんじゃないわ 
自分を知らない人たちと関わりあうのよ
               見えてくるわよ、本当の自分が
ちびのミイ・・・ちびのミイ、またはリトルミイはトーベ・ヤンソンによるムーミンシリーズのキャラクターの一人である。ミイは「ムーミンパパの思い出」という4作目で初めて登場した。


【如是我聞】

この言葉は、自己分析に役立つと思う。確かに自分を見つめ直すとか、自分自身について考える時、一人になってじっくり考える人は多いだろうし、実際私もその方が多い。しかし、ミイの言うように色んな人と関わり合うと、自分の知らなかった自分に出会えるかもしれない。
少し自分自身の話をしたいと思う。大学を卒業し、四年が経った。中学時代から、将来の夢が教員であった私は、遠回りをしながらも無事教壇に立つことができた。そして、毎日充実した日々を過ごしているが、最近考えることがある。毎日家と学校の往復。もちろん年々出会う生徒は変わるが、違う環境で生活している人との出会いは激減してしまった。学校現場は、世間一般と比べると閉鎖的な環境であり、人との関わり合いは、どうしても限りがあると思う。その中でどのように自分が動き、様々な人と出会い、自分の価値観や今持っている考え方の幅を広げることができるのか。
自分自身の小さな殻に閉じこもり、自分の歩んできた人生だけで、子供たちと関わるのは、とてもちっぽけだと感じる。だが、自分に数多くの引き出しがあれば、子供たちに様々な選択肢を与えることができるかもしれない。
そのためにも色んな人と出会い、色んな生き方を見て、自分はどうありたいのか問い直したい。もっと人との関わりを大切にしていきたい。人との出会いは何にも代えられない財産になるはずだから。実際は日々の仕事や、生活でいつの間にか毎日が過ぎ去っているのだが・・・。
それでも、自分の人生に大きな影響を与える人により多く出会いたいと願っている。

(英語科 中川智仁)




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計画のない目標は ただの願い事にすぎない

今週の一週一言
                                  10月26日~11月1日
 
計画のない目標は ただの願い事にすぎない

サン=テグジュペリ・・・・1900年~1944年。フランスの作家、操縦士。
               代表作『夜間飛行』、『星の王子様』など多数。
【如是我聞】
 一見すると、この言葉は、『星の王子様』を書いたサン=テグジュペリの言葉らしくない。どこか大人の賢しらな処世術と打算を感じさせる。目標に向けて綿密な計画を立て、それを一つずつ実行していく姿勢がなければ、どんな立派な目標も、「ただの願い事」にすぎず、決して実現することはないと。「お説ごもっとも。言い返す言葉もありません」と少しげんなりしてしまう。私自身も教師としてそんな言葉を生徒たちに言ってきたようにも思うが、あまり好きになれない言葉だ。
 しかし、レーダーもない時代、無蓋の飛行機に乗り、前をよく見るために風防ガラスから身を乗り出して郵便飛行機を操縦していたサン=テグジュペリにとっては、先輩パイロットの経験を聞き、目印を地図に書き込み、徹底した飛行計画を立てて目標飛行に臨むことは、無事に郵便物を輸送し、自らの命を守るために欠くことのできない重大事だったのだろう。その上、そんな用意周到な計画の上に実現した目標には、深い感動と驚嘆が伴っていたことは、自らのパイロット経験をもとに書いた『人間の大地』を読むとよく分かる。夜間飛行中に垣間見られる奇跡のような光景が彼の心に刻まれる。「闇の大海原に瞬く光の一つ一つが、今、そこに人間の意識という名の奇跡が存在していることを教えていた」と。そして、「絆を取り戻そうとしなければならない。平原のそこここに燃えている灯のいくつかと、心を通わせようとしなければならない」という彼の「願い」が語られる。サン=テグジュペリは、決して単純に「願い事」を否定しているのではない。計画がなければ大事な「願い事」も実現することなく終わってしまうと言いたいのだろう。
 しかし、私は、このごろ、それでもいいと思うようになった。60歳を過ぎたせいか、「願い事」は願い事のままでいいのではないかと。大切な願い事を持ち続け、心の中で温め続けていることが自分にとって、また自分を取り巻く人にとってささやかだが大切で意味のあることではないのかと。

 サン=テグジュペリの言葉の言葉をこんなふうに言い換えてみる。「計画を持たない目標は心の中だけにある大切な願い事だ」と。               (国語科  角谷有一 )V




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内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1...