今週の一週一言
9月23日~9月29日
子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」
易経…古代中国の書物。儒教の基本書籍の筆頭に挙げられる経典である。
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【如是我聞】
悔いの多い生涯を送ってきました。なんてことを言えば周りから「おおげさな」「まだ若いのに」といった声が聞こえてきそうだ。しかし今振り返ってみても自分の生涯にはなかなかの数の後悔があるように思う。
私は物事をじっくり考えて慎重に事を進めるタイプの人間だと思っている。それは日常生活の中でもいえることで、ふらっと寄ったニトリでの買い物でもこれが当てはまるのである。日々の生活を少し快適にする魅力ある商品がずらっと並んでいる、一階の日用雑貨が陳列されているコーナー。そこにいくとなかなかそこから抜け出せなくなって困ってしまった。歯ブラシたて、これは本当に必要なのか。なくても生活できている。一人用土鍋、どのサイズが自分にぴったりなのか。大きすぎないか小さすぎないか。取っ手のとれるフライパン、何が便利なのかずっと考える。わからない。いろんな棚を眺めて結局歯ブラシたてに戻ってきては同じようなことを考える。正直しんどい。これではすぐに時間がたりなくなるしいつになったら前に進むのかもわからない。貴重なお盆休みに立ち寄ったニトリでその日が終わってしまう。
こんなエピソードは山ほどあるがしかしこれらのことが後悔につながることはほぼない。むしろ買おうが買わまいが自分で考えてだした答えに悔いはない。ただ自分の時間を無駄に消費しているだけで誰の迷惑にもなっていない。だが人との会話においてこの性格がゆえに後悔することがよくあるのである。会話の中では一瞬の間や言葉を発するタイミングや空気が重要で、そこに面白さや楽しさがあるコミュニケーションには誰かを待っている時間はない。何人かの相手がいて会話が行われている中、刻一刻と進むその空間の中で発する打算のない生の言葉こそが面白くもあり、悲しくもあり、うれしくもあるゆえに言葉というものが生きていると自分では思う。心で感じる細かな感情を表現しようと言葉を慎重に選んで考えている時間はないのである。あとになって、こんなことを言っておけばもっと気持ちが伝わったのに、もっとおもしろかったのに、と考えてももう遅い。気持ちを相手に伝えようと今の自分の気持ちをあれこれ考えているうちにワンテンポ・ツーテンポ遅れをとる私の生涯は後悔ばかりである。
「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」とは儒教の経典である「易経」の中の言葉で、「言葉で言い表したいことを書物にすべて書き尽くすことはできない。また、言葉は心で動き感じることをすべて言い尽くすことができない。」といった意味であり、自分には痛いほど身に染みる言葉である。でもこの言葉の真意は、足りないものはどちらかで補い合えばいいのではないか、ということではないかと解釈することもできるし自分はそう考えてこれから先も後悔を取り戻したい。まずは普段クラスの生徒たちに伝えきれていない日々の後悔の分だけでも文字にして、まだ書きなれていない学級通信を書いてみようと思う。 (英語科:石黒)
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