一週一言インデックス

2023年11月28日火曜日

人生から返ってくるのは、あなたの投げた球

今週の一週一言

11月27日~12月3日

人生から返ってくるのは、あなたの投げた球

斉藤茂太

斉藤茂太(19162006

 日本の精神科医・随筆家。斎藤茂吉の長男として東京に生まれる。「モタ」の愛称で親しまれる。

【如是我聞】

 115日 阪神タイガースは38年ぶりの日本一を勝ち取った。多くの選手たちがチームの勝利に貢献したがその中で私は横田慎太郎選手のことが忘れられない。

 718日 元阪神タイガースの横田慎太郎選手が28歳という若さで亡くなった。

 現役時代真面目にひたむきに練習する姿がファンに愛され将来活躍が期待されていたがプロ4年目で脳腫瘍と診断され,その後、後遺症の影響で現役引退を余儀なくされた。プロ最後の引退試合で1096日ぶりに試合に出場した。その当時ボールを見ることも難しい横田のもとにボールがきたが,そのボールを捕球して,「本塁へのノーバウンド送球で走者を捕殺する」というファインプレーで現役生活を終えた。私はこのファンプレーは横田の今までの努力など積み重ねてきたものがこのプレーを呼んだものだと感動した。

現役引退後,講演活動などを行っていたが,腫瘍が再発し,今年帰らぬ人となった。

915日リーグ優勝が決まる直前には現役当時の登場曲「栄光の架橋」が流れ,ファンとチームが一つになるきっかけになった。そして優勝を分かち合うときには,横田のユニフォームが常に共にあった。そして彼のユニフォームは胴上げの際に共に宙を舞った。綺麗な話に見えるが,そのストーリーは横田選手が現役の時に人一倍努力して練習をしてことなど自分自身で積み重ねてきたものが返ってきた結果ではないか。そのストーリーを彼は直接見ることができないが心の中には届いているように私は感じた。

 「人生から返ってくるのは、あなたの投げた球」そのことを常に心に刻みながら生活していくことが大切だと思う。実際に返ってくるかどうかはわからない。しかし,自分自身の行動は必ず周りに見られている。

私は,まだまだ人として力不足である。これからも一つ一つのことを丁寧に行動していくことを日々心掛け,人として成長していきたい。

(数学科 坂根)





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2023年10月23日月曜日

わがこころのよくて、ころさぬにはあらず

今週の一週一言

10月23日~10月29日

 

わがこころのよくて、ころさぬにはあらず

『歎異抄』

『歎異抄』

親鸞の教えを弟子・唯円がまとめたとされる仏教書。鎌倉後期に成立。室町中期に蓮如によって見出され、明治期、清澤満之らによって宗派を超えた宗教哲学の書として再評価される。なお作成にあたり、乾文雄先生、山田友能先生よりご教示いただきました。

【如是我聞】

あるとき、親鸞は弟子の唯円に、私を信じるかと尋ねた。彼が肯定すると、今度は言いつけに逆らわないかと訊く。常に従うと答えると師は告げた。千人殺してこい、そうすれば極楽浄土へ行ける、と。仰せではありますが一人も殺せません、そう訴える弟子に、親鸞は、これでわかっただろう、と言う。自らの思いのままにできるのなら、千人でも殺せるはずだ。しかしそういう業縁がないときには一人さえ殺せない。これは自分のこころが良くて殺さないのではない。逆にやりたくないと思っていても、百人千人を殺してしまうことだってあるのだ──。「絶対他力」、すなわち何事も自分の思い通りにはできないという教えとして知られる一節である。

有名すぎるため見過ごされがちだが、よく考えるとこの話、かなり絶妙なバランスの上に成り立っている。というのは、もし唯円が師の指示に呆れて従う気をなくしたり、逆に刀を持って飛びだしていったりしたら、彼は「思い通り」に行動したことになってしまうからだ。弟子をあやまたず「他力」という気づきへと導くには、「師の指示に従いたいが、そうできない」という状況にならねばならない。つまり親鸞はこのとき、唯円が自分に心服しながらも命令だけは断ってくれること ──言い換えれば業縁が整っていないこと── に賭けた、ということになる。

当たり前だ、殺人などそうそうできるわけがない、そう思われるだろうか。しかし歴史をひもとけば、信仰ほど人に思考を放棄させ、殺したり、殺さなかったりを命じてくるものもない。多くの指導者が信徒に無条件で自分(あるいはその背後にいる神)に従うよう求める中、弟子に「できない」という台詞を期待する親鸞の方が、むしろ例外的なのだ。「親鸞には真の意味での弟子はおらず、すべての人はともに生き、考え、悩む仲間だった」とはしばしば語られることだが、そのありようはここまで直接的に弟子を訓導するエピソードの中にあっても、その奥底に流れているということだろうか。この親鸞の弟子への接しかたは、むろん宗門校に勤める我々教員の生徒へのふるまいについて、強 い示唆を与えるものだ。言うことを聞かなくてもカッとせず、学びの機会ととらえること。知識を教えこむのではなく、

自分で判断させ気づかせること。しかしなにより僕が戦(おのの)くのは、その根源的(ラディカル)な探究の姿勢だ。なにしろこの物語では、殺人という禁忌すら相対化される。

「なるほど、自分で考えないといけないのはわかりました。でも人殺しは問答無用でダメですよね?」などという思考停止を、この逸話は決して許さないのである。

国語科 奥島 寛





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人生は学校である。 そこでは幸福より不幸のほうが 良い教師である。

今週の一週一言

10月16日~10月22日

人生は学校である。

そこでは幸福より不幸のほうが

良い教師である。

ウラディミル・フリーチェ

ウラディミル・フリーチェ(18701929)

ソ連の文芸学者。「文学とマルクス主義」誌の編集長などを務めた。ロシア革命前の著書『欧州文学発達史』は邦訳もされ、1930 年代までソ連の教科書であった。

【如是我聞】

連日ニュース番組で報道されているロシアとウクライナの戦争。最近はイスラエルとパレスチナの武力衝突についてもニュースになっている。日本で平和な生活を送っていると、今現在、この瞬間に別の場所で戦争が続いており、多くの人が亡くなっている実感がわかない。そんな中、私はニュースの報道等で「戦争」という言葉を聞くと、93 歳になる大叔母のことが時々頭をよぎる。

 

広島に原爆が落ちた日、大伯母は山口県岩国の軍事工場で飛行機にネジを入れ、組み立てる作業をしていた。当時 15 歳。原爆投下時の轟音、地面の揺れ、その直後の激しい土煙。爆弾が落ちたという知らせを受け、混乱の中、何とか自分の家に戻ったらしい。大伯母は現在でも戦争時の体験を鮮明に記憶しており、原爆投下以外にも、空襲で怖い思いをしたこと、空襲の後に死体を飛び越えながら空腹に耐えつつ歩いたこと、竹槍を持って「ヤー!」と叫びながら訓練をしていたことなどを、これまで何度もよく話してくれた。

こういった話をしながら、大叔母は、「何やっとるんかねって思っとったんじゃけどねぇ。」「こんとなネジ入れた飛行機や竹槍突いて、勝てるんかねって思ってたねぇ・・・まあ、絶対に口に出して言えんのじゃけど。」「あんなに人が死ぬんじゃもん、もう戦争はいかんよねぇ。」と思いを挟む。飄々とした口ぶりと笑いを交えながら語る口調だが、実際に体験した人からの実話であ  る。説得力があり、聞くたびにじわじわと過酷さが伝わり、辛くなる。幼い頃、大伯母が話す「学校なんてなかったからねぇ。私ら勉強してないんよ。」にピンとこなかった私も、少しずつ「学校がない」ことの意味がわかっていった。

コロナ禍の 3 年を経て、大叔母は京都まで来ることはほとんどできなくなってしまった。しか

78 年前の辛い過去の体験は、直接見聞きしたことだからこそ、いつも私たちにさまざまなことを教えてくれる。

 

再来月、久しぶりに会えるかもしれない大叔母に、また 78 年前の話を聞いてみたい。

(国語科 赤尾)





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2023年10月11日水曜日

ルールは破ってもマナーは守れよ

一週一言

109日~1015

                                 

ルールは破ってもマナーは守れよ

             甲本 ヒロト  

甲本 ヒロト(1963-)

 岡山県出身の日本のミュージシャン。1985年、真島昌利らとTHE BLUE HEARTSを結成。1987年に「リンダリンダ」でメジャーデビュー。









【如是我聞】

私のなかで甲本ヒロトといえば、THE BLUE HEARTSというパンクロック・バンドのボーカルという印象が強いです)。1980年代後半から1990年代前半にかけて活動したため、1992年生まれの私はリアルタイムで活躍を見たわけではないが、彼らの曲からはパワーをもらい、「TRAIN-TRAIN」、「リンダリンダ」「情熱の薔薇」など聴くようになりました。

 「ルールは破ってもマナーは守れよ」というこの発言について甲本ヒロト自身もかつてラジオで、「ルールを破れって言っているんじゃないよ?(笑)。まあ、仕方なく破ることもあるけども。」と言っています。

正直これもよくわからないので、まず「ルール」と「マナー」の意味を調べることにしました。そしたら、以下の内容にたどり着きました。

 

「ルール」:守らなければならない 規則・決まりごと

「マナー」:「行儀、作法」(広辞苑第7版)とあり、個人の自発的意思に基づく心掛けや振舞いを指すものであり、法令で規制された行為規範とは異なるものと考えられる。

 

私の解釈としては、「ルール」は既に決まっている守るべきもので、「マナー」とは罰則はないが自分から意識して守るべきものだということです。さらに、時代や状況を鑑みてルールが変更されることはあるが、マナーが変わることはないのでは?と思いました。

 私はバスケットボールが好きで、現在でも社会人チームでプレーしています。バスケットボールでも、私が高校生の時と比べると、何ヵ所もルールが変わっています。しかし、試合開始時に「お願いします」と会釈したり、試合終了時に相手ベンチに行き、「ありがとうございました」と挨拶するといったマナーは変わっていません。マナーを守ることで、自分たちも相手も気持ちよく過ごせることができている気がします。

 

無理やりまとめてみると、「ルール」は守るべきものではあるが破ることはでき、変更することもできる。その一方で、「マナー」は人間関係を築いていくうえで必要なものであり、最低限守るべきものということでしょうか。数字上の年齢としては31歳(中身は到底そこにはいない)となった今、「マナー」は守れているのだろうか。今一度、自分の普段の行いに目を向けていきたいと思います。

(社会科  増田)





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2023年10月3日火曜日

絶対の帰依こそ宗教である

一週一言

925日~101

                                 

絶対の帰依こそ宗教である

             柳 宗悦  

 

柳 宗悦(18891961)

  「民運動の父」と呼ばれる。武者小路実篤や志賀直哉らとともに雑誌「白樺」の発刊に携わる。心霊現象やキリスト教神学などの研究や、西欧近代美術の紹介につとめる。











【如是我聞】

 2000年頃、雑貨屋で手に取った銀色のカトラリーは、主張が派手すぎず、食事をするのによさそうな形だった。当時の私には誰のデザインかもわからなかったが、その洗練されたフォルムに惹かれ、購入した。このカトラリーは今も我が家の食器棚に入っている。お気に入りの食器のひとつだ。

この食器を作ったのは柳宗理。家具やキッチンツール、食器など生活にかかわる工業デザイナーである。彼は戦後に出回った商業主義に偏ったものや流行に左右される製品に対し、素材や機能を踏まえたうえでの、質の高いデザインを旨とした。没後もその精神は「柳工業デザイン」として、新たな意匠を生み出しつづけている。私が思わず手に取ったカトラリーにも、その想いが詰まっていると言っていいだろう。

 柳宗理に大きく影響を与えたのは、実父の柳光悦だ。李朝時代の無名の職人の手になる食器などの美をいち早く評価した人物であり、「民芸運動の父」とも呼ばれている。とりわけ「仏教美学」は光悦が生涯をかけて構築した、仏教思想に基づく新しい美学の集大成であり、柳自身の美的体験に深く根ざすものだったといわれている。

 光悦は民衆の食器が持つ魅力は「信と美」の深い結びつきの結果だと考え、「凡夫も救いからもらさぬ仏の力」、すなわち阿弥陀仏の本願力の恩恵に他ならないと結論づけた。なるほど生活用品ほど庶民の暮らしとともにあり、使い勝手の良さという“知”をもって、人々をサポートするものはない。民芸品も、人々にそっと寄り添い助ける、阿弥陀の無限の知恵のひとつのあらわれなのだ。そこに崇高な美が宿るのは、柳の思想として当然の帰結だったろう。

 あれから20年以上の月日がたち、私もいろいろなことを経験してきた。年をとるにつれて社会の変化は気にならなくなり、泰然自若として暮らせるかと思いきや、流転する世間にふりまわされるばかりの毎日が続いている。しかし、そんな日々の中においても、簡素なカトラリーの静かな美に変わりはない。だから私は時折それを目にすると、日々の生活の中にも、不変の、無窮の知恵がたしかに在ると実感するのだ。

(理科 谷口)





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2023年9月20日水曜日

非暴力とは戦術ではなく生き方だ

一週一言

918日~924

                                 

非暴力とは戦術ではなく生き方だ

             ロナルド・デルムス  

 

ロナルド・デルムス(1935-2018)・・・アメリカの政治家。

デルムスは、カリフォルニア州下院議員やオークランド市長を歴任するなど、1900年代後半に活躍したアメリカの政治家である。彼は最初、黒人至上主義を掲げる過激派のブラックパンサー党に所属していたが、キング牧師の演説を耳にして以降「非暴力」を掲げ、あらゆる戦争や差別に反対した。

【如是我聞】

 私はデルムスについて、この原稿を書くにあたって初めて知った。ネットなどで彼の思想や活動を調べていくと、ベトナム戦争などの全ての戦争に反対したようである。ただ私が驚いたのは、ベトナム戦争反対運動で若者と警察が衝突した際、デルムスは両者の間に入り「非暴力」を訴えたという点だ。若者の「戦争反対」という信念がいかに正しかったとしても、それを実現するための暴力に反対の意を示したデルムスの姿は、まさしく「生き方としての非暴力」を体現していた。私は思わず心のなかで「めっちゃかっこいい!」と叫んでしまった。おそらくパソコンをみている私の顔はニヤニヤしていただろう。画面が真っ暗でなくてよかった……。それはさておき、このデルムスの思考に触れるなかで、ある思想家の言葉を思い出した。それが『ペスト』でお馴染みのアルベール・カミュ(1913-1960)である。

わたしは、暴力が避けることのできないものだと考えています。(中略)ただ、あらゆる暴力の正当化を拒否しなければならないというのです。その正当化が、絶対的な国家理由から由来するにせよ、全体主義的な哲学から由来するにせよ、拒否しなければなりません。暴力は、避けることのできないものであると同時に、正当化することのできないものなのです。

アルベール・カミュ「エマニュエル・ダスティエ・ド・ラ・ヴィジュリーへの二通の返事」『カミュ全集5』(新潮社、1973年)、180

カミュは、この文章で暴力がなくならないという「不条理absurdité」に触れつつ、いかなる暴力をも正当化できないことを強調する。カミュの言うように、世界各地では現在でも数多の暴力が起こっている。ただそのなかでも暴力それ自体は、たとえ「祖国を守るため」であろうと「自分の信念を守るため」であろうと、許容できるものではない。暴力が無くならないなかでそれと格闘し、ためらい続けるカミュの姿勢はデルムスの非暴力に通ずるものがあるのではないか。 

そもそも非暴力という主張はどこから生まれるのだろうか。それは「人は他者なしには生きていけない」という考えに帰着すると思う。言葉なんてまさしくそうだ。言葉は、生まれたときから話せるわけではない。最初は親から、そして親族・友人など他者から教わるなかで身についていく。また精神科医のジークムント・フロイトは人間を「寄る辺なきhilflos」存在と規定し、一人では生きていけないからこそ何かに頼ることで自らの生を全うできると主張している。自分自身の弱さ(=ヴァルネラビリティvulnerability)や他者の大きさに気づくからこそ、非暴力という信念が生まれてくるのではないか。

私たちは、数多くの他者との「想定外の出会い」を通じて自己を形成している。その他者に暴力をふるう行為は、裏を返せば自分自身を傷つけることにもつながるだろう。私自身、31歳になった今、これからも他者との想定外の出会いを大切にしながら、自分自身と向きあっていきたい。

(社会科 穂波)





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2023年7月8日土曜日

真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。 新たな目で見ることなのだ。

今週の一週一言

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真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。

新たな目で見ることなのだ。

マルセル・プルースト

マルセル・プルースト(1871-1922)

 パリ郊外のオートゥイユ(現・パリ市)生まれ。代表作の『失われた時を求めて』は後世の作家に強い影響を与え、20世紀の西欧文学を代表する世界的な作家として位置づけられている。

【如是我聞】

 歳のせいだろうか、最近通勤途中で困っている人を見かけるとどうしても見過ごせない。目の不自由な人、足の不自由な人、こないだは駅の乗り越し精算機の前の列が縮まらないのでよく見るとお婆さんがコインを入れようとしているところだった。そもそも精算機の使い方もままならないのだが、震える手では硬貨が入れられない。「私、やりましょか?」というと頼みますー、とのこと。重いカバンを持っているお年寄りがいたらつい「私、運びましょか?」だし、目の不自由な人に出会うと「白杖ガール」を思い出す。私の周りの日常はそんなに変わっていないはずなのに、次々と困っている人が出現するからさながらパラレルワールドのようだ。

 こういうことって、マルセル・プルーストならどう答えるだろうか。ChatGPTになり切って答えてもらった。紅茶にマドレーヌを浸したときの気持ちを聞いたら、それなりの答えが返ってきたので、このように尋ねてみた。「最近出会ったおばあさんは震える手でコインがうまく掴めず、困っていました。今までなら気づかなかったのですが、私はどうしても立ち止まって彼女を助けたくなり、声をかけました。それはまさに新しい景色ですか。」

 

ChatGPTの答えはこうだった。

 

 あなたがおばあさんに声をかけて助けるという行為は、単に新しい景色を探すことではありません。それは、新たな目で見ることなのです。これは、あなたが以前とは異なる視点や意識を持ち、社会的弱者の存在に気付いたことを意味します。おばあさんの困りごとに気付き、声をかけて助けることで、あなたは社会的弱者に対する新たな目で物事を見ることができました。これによって、彼女の立場や経験に共感し、彼女の困難を理解することができました。

 このエピソードは、私たちが予測可能な枠組みを超え、他者の経験や感情に共感することの重要性を示しています。真の発見の旅は、新しい景色を探し求めるだけでなく、自分自身の目を新たにし、他者との共感と理解を育むことです。このエピソードはまた、私たちが社会的弱者に対して優しさと思いやりを示すことができるという希望を伝えています。真の発見の旅は、社会の不平等や差別に対して目を向け、自己の立場や特権に気付き、行動を起こすことを奨励します。

 「真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新たな目で見ることなのだ。」という格言は、私たちが自己の視点を拡大し、他者とのつながりを深めるための重要な指針です。あなたの行動は、この格言の真の意味を体現し、社会的弱者との共感と配慮の新たな視点を示しています。

 

なんか、正された。

 

 世界は同じように回っているし、お年寄りや困っている人があふれている。そうした人々が、教習所のシミュレーターのごとく私の目の前に現れることがありがたい。

 ChatGPTをはじめ、生成系AILINEに常駐し、WeblioLudwigと言った英語学習アプリにも搭載され、今や私にとってはなくてはならない壁打ち相手になっている。Google翻訳が出てきた時にも「あんな役に立たないもの」と排除する動きがあったが、今やプロの翻訳家も活用しているという。超高齢社会も生成系AIのある教室も、現実だ。今年は私にとって半世紀の節目の年でもある。いつまでも日々新たな世界に出会うことを楽しみとしたい。

(英語科 江藤)





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2023年6月20日火曜日

人間は怒りと寂しさの処理で人生を間違える

今週の一週一言

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人間は怒りと寂しさの処理で人生を間違える

加藤諦三

加藤諦三(1938

 日本の社会学者。1972年からニッポン放送のラジオ番組『テレフォン人生相談』のパーソナリティを務めている。

【如是我聞】

大学時代に短期間であったが、学習支援員として小学校にボランティアで行っていた。そのときに、「先生はなんでいつも笑ってんの?」と担当していた小学3年生の女の子に言われたことがある。先日も「先生はいつも笑顔やなぁ。」と高校1年生に言われた。「そりゃあ、笑っているほうが楽しいからでしょ。」なんて、返したかどうかは覚えていないが、そう思っている。それでも、疲れてくるといけませんね。すぐにイライラしてしまいます。普段だったらそうでもないんだろうけど、自分に余裕がないと、ちょっとしたことにイラっっっっッとしてしまうのです。

そんなときは高校生のときからのクセで、その負の感情の原因をぐるぐると考えてしまうのです。

Q:「なんでこんなイライラしてるんやろ?」

A:「あいつがあれをせんかったからや。」

A:「またオレがせなあかんのか。」

A:「なんでオレがせなあかんねん。」

A:「もうオレがやればいいんでしょ。」

ぐるぐる考えたわりには単純で、そしていつもだいたい同じような結論に至り、さらにイライラが増してしまうことが大概だ。余計にしんどくなるなら、考えなきゃいいのにね。そこまでの達観はなかなかできない。この堂々巡りを少し紐解いてみると、このイライラのなかには「誰か助けてくれよ」という気持ちがある気がする。そして、その気持ちの中には、「自分のことを助けて然り」と考えている存在がいるのではないか。それじゃあ、このイライラの端を発しているのは「ぼく寂しいよ」という思いなのかもしれない。

もし、人が生まれてからずっと一人きりで生きていったとして(英文法で言うところの仮定法の世界なのでうまく想像できないが)、「怒り」という感情はあるだろうか? ありそうな気がする。例えば、足の小指を何かでぶつけたら、「コノヤロウ!!」と何でもないその痛みの原因に対して怒る気がする。「寂しさ」はどうだろう? 寂しいと感じるのは、自分の心を満たす何か、特に他人との関わりが不足していると感じたときではないだろうか。じゃあ、最初から孤独が当たり前であれば、「寂しさ」は感じないのかもしれない。

ペラペラ(実際はアプリの辞書を使っているので、音はならない)。寂しさはlonelinessか。語の由来が見当たらない。じゃあ、lonely【初17c; lonely = lone + ly】なるほど。-lyで終わるくせに形容詞だ(ここにも歴史がある)。次は、lone【初14c; aloneの頭音消失】へー。そしたら、alone【初13c; al-all)+one】ほー。端的な解釈をすると、「すべて + 一人=寂しい」となるかな(実はこの解釈には2つの無茶がある:現在のaloneには必ずしも寂しさが含意されていない+このallは強意のために使われているので、必ずしも「すべて」の意味はない)。英単語の語源を見ても、やはり「誰かそばにいてよ」という気持ちが「寂しさ」の中にあるように見える。

最近、「漫画で読む」とかいう甘えたシリーズの本でこんな言葉を見つけた。

「一人居て喜ばは二人と思うべし 二人居て喜ばは三人と思うべし その一人は親鸞なり」

いかがわしいクマのぬいぐるみが活躍(大暴れ)する映画では、そのクマが「一人か?」と聞かれたときにこう言っていた。

“Uh, no, no, I'm not. You know, you’re never alone when you’re with Christ. So, no, I’m not alone.”いつか、ぼくの存在が、誰かの寂しさを救うことができるような力強いものになれればいいなぁなんて思ったり、でも「そんな器ではないか。」と思ったり、「そんな存在、自分に欲しいわ!」と思ったり。まだまだ精進が足りないな。とりあえず、angerの語源を調べよっと。

(英語科 杉原一輝)





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2023年6月13日火曜日

時間の自由には二つのものがあるのではなかろうか。 自在に時間を配分する自由、もう一つは失われることのない、 今という時間を自在につくりだす自由である。

今週の一週一言

                                  612日~6月18

時間の自由には二つのものがあるのではなかろうか。

自在に時間を配分する自由、もう一つは失われることのない、

今という時間を自在につくりだす自由である。

内山 節『自由論―自然と人間のゆらぎの中で』 

内山 節

 哲学者。立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科客員教授。特定非営利活動法人森づくりフォーラム代表理事。

【如是我聞】

2023年本屋大賞・高校生直木賞を受賞した、『汝、星のごとく』(凪良ゆう著)を読んだ。主人公は二人の男女の高校生。彼らの恋愛を軸に、その後二十年に渡って彼らの生き方を描く。舞台は愛媛県のとある小さな町。閉鎖的かつムラ意識の強い地域だ。彼らは嫌悪し高校卒業後、ともに上京を志向する。やがて彼の方は上京を果たし、一定の成功を収める。一方の彼女にはさまざまなアクシデントが生じ、田舎に残される。運命は無残にも彼らを結び付けず、二人は互いへの思いを持ちつつも、それぞれ新たな彼、彼女と出会い別々の人生を歩む形でストーリーが展開する。

それから二十年、紆余曲折を経てお互いが探し求めていた半身同士だったことに改めて気づくが、彼が病魔に倒れ夭逝することで結末を迎える。その刹那、帰省した二人は満天の星の下でおだやかな瀬戸内の海を見ながら、あれほど嫌っていた故郷を振り返る場面がある。こんなすばらしい所で生まれ育ち、二人が出会ったのだと。彼の死で、重く悲劇的な幕切れのように見えるが、むしろ軽やかな思いさえ持てたことが印象に残る。今でも彼らの弾んだ会話が聞こえてきそうでインパクトのある感動作だった。

 さて、表題にある二つの時間の自由である。内山節氏のこの『自由論』の中には、後者についてこんな話が出てくる。ある老人が若者に語りかけるシーンだ。「私は八十年近く生きたから、もう十分に生きたし、それほど生に執着することもないだろうと思うでしょう。ところが、生きるということは年齢で変わるものではないことがわかってくるのですよ。私も、あなたも、生まれたばかりの子どもも同じように生きているのです」。老人は、「もう一つの時間」を「自分がこう生きたいと思った時間を、実現しようとする時間」と定義し、それが人間にとって最も大切なものだと言いたいのだろうか。「永遠の今」と呼べるほど今の時間を充実させているという点で、若い人と同じということなのか。

 『汝、星のごとく』の二人は、同じ人生を歩めなかったという意味で、時間を自由に使うことができなかったかもしれない。彼らが切望した甘い二人の生活は送れなかったのだから。しかし、「もう一つの時間」を創造することで貴い人生が過ごせたのではないか。念願の再会を果たしながら、一人残された彼女に漂う安堵感がそう語っているようだ。

彼女は三十歳の後半。第二の人生を新しい伴侶と過ごすかもしれない。あるいは彼との思い出の中に生きる人生を送るかもしれない。後者なら、過去ばかりを懐かしんで暮らす寂しい生き方との見方もあるだろう。しかし、いずれにしても彼と生きた「永遠の今」は変わることがないように思われる。

                                           (宗教科・国語科  中川)





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2023年5月30日火曜日

遠いものは大きく、近いものは小さくみえるだけのこと

今週の一週一言

月21日~5月27日

遠いものは大きく、近いものは小さくみえるだけのこと

耳をすませば バロン 

 

耳をすませば…スタジオジブリのアニメでも知られる、柊あおいのベストセラーコミック。1989年に少女まんが雑誌『りぼん』で連載。

                                 

 

【如是我聞】

 

「残念―。今日の12位はうお座のあなた。ラッキーカラーは赤、ラッキーアイテムはアロハ柄のものです!」赤のアロハ柄…。あったら良いが、なかったら最悪の一日。そんな時は必殺、別のチャンネルの占い!今度は10位くらいだったりして、ホッとする。

 

 今日一日くらいならまだしも、月刊誌では今月のわたしが決まってしまうし、手相なんて一生!?もう油性ペンでシワを書き足したい。幸運のメイクに幸運のブレスレット…全部やったらキリがないが、一個より二個のほうが効果がありそう。

 

未来への不安は尽きない。しかし救われたい一心でわたしの主体性がなくなり、わたしの生き方が見失われることがある。そういう生き方を親鸞聖人は「悲しきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」とおっしゃった。

 

わたしたちは生まれながらに自分さえ良ければという煩悩を身にまとっている。それはまるで甲冑を着ているようであり、その姿を煩悩具足という。その甲冑の重さで身動きが取れなくなってしまっては意味がないのではないか。わたしがわたしらしく生きるために、わたしの弱さを知ることも大切なのかもしれない。

                                 (宗教・英語科 髙橋愛)





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2023年5月18日木曜日

ケシゴムの本当の役割は 間違いを消すことじゃなくて、間違えたっていいんだよって、 えんぴつを安心させることだ

今週の一週一言

                                  515日~522

ケシゴムの本当の役割は

 間違いを消すことじゃなくて、

   間違えたっていいんだよって、

えんぴつを安心させることだ

                      「ケシゴムライフ」より                                

「ケシゴムライフ」・・・2014年出版されたコミック。 日本初の漫画家育成ファンドの対象作品。 本当に人はずっと孤独なのか・・・。どこにでもあるような普通の高校を舞台に、青春の時を過ごす高校生たちのつながりを爽やかに描く、オムニバス形式の短編集。著者は羽賀翔一(1986~)。茨城県出身。学習院大学卒。2010年『インチキ君』で第27MANGA OPEN奨励賞受賞。 現在Twitterで「お題マンガ」として日々1ページ漫画をアップしている。

 

【如是我聞】

 

五月病の季節になった。予防には、腸内環境を整えるのがいい、と朝の情報番組で耳にした。それには発酵食品! 納豆や味噌汁、そしてヨーグルトらしい。どれほど前になるのか、カスピ海ヨーグルトなるものがはやった。たしか、我が家でも母が製造していたように記憶している。しかし、自家発酵させると毒化する可能性があり危険、という専門家の意見で一気に消え去った。発酵にもいろいろあるようで、それで体内環境を薄幸にさせるわけにもいかぬ(ダジャレです)。

人間が生きていれば、間違いも犯すし、傷も負う。問うまでもなくネガティブなことだが、実は意外と「傷」には「毒」ばかりではなく、効用も存在している。

消える間違いと消えない間違い。最近はICT化の暴走で、ずいぶんと消えなくなった。でも、もともと消えないものじゃなかったのかな。気分転換も忘却も処方箋としては大はずれ。あまたの細菌が繁殖しだす。じっくりと自分で塩を塗っていくのが、荒療治でも正解か? 間違ったり、傷付いたり、でもそこが足場になれば自分自身は変わっていけるかもしれない。

“あのこと”によって今の僕がある、と言えれば発酵完了ということになるのだろうか。

 

                         (文責:国語科・宗教科 曽我)





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2023年5月9日火曜日

しんのすけ とうちゃんが人生で一番幸せだと思ったのは お前とひまわりが生まれたときだ

今週の一週一言

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「しんのすけ とうちゃんが人生で一番幸せだと思ったのは

お前とひまわりが生まれたときだ」

野原 ひろし(「クレヨンしんちゃんより)

野原 ひろし

 漫画「クレヨンしんちゃん」の主人公、野原しんのすけの父親。一家の大黒柱として家族を支える。家族を傷つけるものや、悪に対しては立ち向かっていく正義感の強さの持ち主であり、情に厚く、涙もろい性格である。

【如是我聞】

 かくばかり 偽り多き世の中に 子の可愛さは誠なりけり

この4月、我が家に大きな変化が訪れた。私が定年を迎えたなどというのは小さなことで、一人娘が家を出たことが一大事であった。「家を出た」と言っても、むろん家出した訳ではなく、就職で一人暮らしを始めたわけである。

 娘はもう二十六歳なので、順調にいっていればもう3~4年前には社会に出ていたはずなのだが、それが(詳細は省くが)いろいろあって今年まできてしまっていた。本校でも何年も前から、娘と同年の先生が何人も勤めておられ、皆さん立派に働いておられるのを見るにつけ、それに引きかえ…といつも思っていたが、ついに遅ればせながら娘も社会人の仲間入りを果たしたのである。

 会社を選ぶ際、京都という選択肢もあったようで、迷っている様子だったが、娘は結局、勤務地が遠いほうの会社を選択した。実のところ私としては、家から通えるところを選んだ方がよいのではと思っていた。というのは、娘はいい年をして炊事洗濯や掃除といった家事全般のことはみんな親がかりで、自分はほとんど何もしていなかったので、大丈夫かなという不安があったのだが、本音を言えば家にいてほしいというのが第一であった。しかしながら、親のエゴを押しつけて、せっかく自立しようとしているのを妨げてはいけないと思い、やせ我慢をして口をつぐんでいた。

 3月末にバタバタと引っ越しを済ませ、その後いったん帰ってきて、この4月の初めにいよいよ本格的に家を離れるということになり、駅の改札で見送って姿が見えなくなった後、寂しさがこみ上げてきて不覚にも涙がこぼれた。妻と二人だけになってみると、娘のいた部屋はガランとして、そこだけポッカリと穴があいたようである。

 冒頭にあげたのは、「藪入り*」という落語のマクラで必ずと言っていいほど用いられる狂歌だが、子どもがいくつになっても、どんなに成長しても、親の思いはこのとおり不変であろう。

ウチの娘もこの連休に初めての藪入りを迎える。いまは夫婦ともそれを心待ちにする毎日である。

*藪入り…昔の奉公人が年に二回、盆と正月にだけ休みをもらって実家に帰ること。

(左溝)





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内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1...