一週一言インデックス

2012年12月20日木曜日

自分が自分になった背景を知る。 それが恩を知るという意である。


今週の一週一言
                                  12月10日~12月26日
自分が自分になった背景を知る。
それが恩を知るという意である。    安田理深
安田理深(やすだりじん)・・・1900-1982 真宗大谷派僧侶、仏教思想家、
私塾「相応学舎」を主宰。
【如是我聞】
“We are what we eat.”(私たちは食べ物で出来ている)先日、ある先生に教わったアメリカのことわざです。
 私たちは他のいのちを犠牲にすることなしに生きることはできません。無数のいのちに支えられて生かされています。この事実は「自分が自分になった背景」の重要な要素であるにもかかわらず、私たちの可視範囲、想像の域は決して広くありません。
 私たち真宗の家庭では、精進日というものを月のうち数日設けることによって、この背景に思いを寄せようという習慣があります。この精進日には食卓から肉・魚類が姿を消します。私が中高生の食べ盛りの頃はこの日が憂うつでした。母親は野菜を天ぷらにするなど、少しでも食べ盛りの子どもに満足させようと、色々な工夫をしてくれました。祖母の時代は卵もだめだったらしいのですが、私の母親は「あれは温めても雛にはならん」と言って、卵を食べることをOKにしました。でもかまぼこは当然だめですし、うどんの出汁もだめでした。このような習慣は今でも続いていますが、私の妻はこの習慣が新鮮らしく、精進日の献立を楽しんでいるようです。
 月のうちにせめて数日でも他のいのちを犠牲にしない。完全には無理であるにしても、そうすることで、無数のいのちにささえられている事実を改めて考えよう。そのような習慣です。
 自分の力だけで生きていると錯覚している私たちが、支えられて存在しているいのちという事実に気づけば、何か恩返しをしなければなりません。そのような気持ちにいたることが、恩を知るということかもしれません。
 あなたのいのちを「いただきます」。それを私のもとまで届け、調理してくださったものに対して「ご馳走さまでした」。恩を知った者がこの二言を粗末にすることはできないはずです。
(文責:や)

2012年12月17日月曜日

人と生まれた悲しみを知らないものは 人と生まれた喜びを知らない


今週の一週一言
                                  12月10日~12月26日

人と生まれた悲しみを知らないものは 人と生まれた喜びを知らない
                  金子大栄

金子大栄(かねこだいえい)・・・1881-1976。真宗大谷派僧侶、仏教思想家。

【如是我聞】
わたしはわたしが積み上げた経験や学んできた価値観からできている。毎日せっせと積み上げて、今、どのくらいの高さになっているだろうか。人一倍努力して、いつか「どうだ!高いだろ、凄いだろ!」と自慢したいわたしがいる。
 わかっている。こんなに積み上げても実は何のあてにもならないこと。身につけている高価なものも、ただのガラクタであること。わかっているつもりだが、手放すことはできない。わたしは何より守りたい自分からどうしても離れることができないのだ。これが我執というものか。しかし本当の自分に出会うことが怖くて、ずっと自分をごまかしている。
 最近寒くなり、温泉に行くことが多くなった。服も化粧も全部取って湯に浸かっていると、「わたしもその他大勢の一人だ。」と感じる。もしかするとこの中に大富豪がいるかもしれないし、大発明家がいるかもしれない。しかしここでは関係ない。みんな同じ。そんなことを考えていると、張り詰めた気持ちが楽になる。比べて生きるのは苦しいだけだ。
 近い未来、自力無効を知ったとき、きっと今積み上げているものは何の意味もないことを痛感するのだろう。「念仏は自我崩壊の響きであり、自己誕生の産声である。」という金子先生の言葉のように、わたしは同時にそのまま包まれている自己を見いだすことができるのだろうか。
(文責:さ)

2012年12月7日金曜日

自分は正直なつもりであろうが、実はそんな人間が、一番不正直な人間であろう。

今週の一週一言
                                         12月3日~12月9日

 自分は正直なつもりであろうが、
 実はそんな人間が、
 一番不正直な人間であろう。
                        曽我量深

「あの人の言葉は信用できない。」

「あいつは失礼なやつやで。」

「あの人は、困ったらすぐ逃げる。」

 こういう言葉が私の口から出るとき、「まあ、私は大丈夫だけどな」、「私は違うけどな」と思っている。どこかで「私は正しい」と思っている。
 もし仮に、「私も信用されないようなことをしてしまうことがある」し、「失礼なやつだと思われているかもしれない」し、「またもや、踏ん張れずに逃げてしまった」などという思いが、自分に対してあるならば、露骨な他人に対する批難は、私の口からは出てこないのかもしれない。
 でも出てくる。時に堂々と。時にこそっと。「ここだけの話やで~」という枕詞に続いて。
 そういうときの自分は、意識としてどこまでも「善人」である。そして近くにいる「悪人」を許せずに批難しているのだ。

 ある先生に教わった。「人間は自分が正しいと思ったときに、その人の持つ、最もいやらしい部分が顔を出す」と。

 自らの悪人性にうなづくことなく「善人」を目指す生き方には、きっと無理が生じる。校歌に詠われる「よき世の人」に成ろうとする歩みとは異なるはずだ。都合の悪いことすら、切り捨てるのではなく受け入れる。上に立つのではなく共にある。そういう歩みであろう。
 「悪人」という自覚がスタートになったとき、そのゴールにあるのは絶望でも失望でもなく希望であろう。
(い)

内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1...