一週一言インデックス

2017年2月27日月曜日

祝 卒 業

今週の一週一言
                                  月27日~3月20日
祝 卒 業
               
【如是我聞】
小学校の卒業式は「呼びかけ」で始まった。自分の担当パート(呼びかけにしては長いセリフだったし、終わりの方だった)まで緊張していた記憶がある。小さな町なので今でも小中一貫校の先駆けというわけでもないが、そのまま場所の異なる中学へという形だったので、卒業という感慨はほとんどなかった。「男子丸刈り」が強制されていたことへの抵抗を除いては。
中学校の卒業式は公立高校の入試の発表の前日であった。入学試験はそこそこできたつもりではいたが、併願校を受験していなかったので、あかんかったらどうするんやろという不安を抱えたままの卒業式であった。9年間ともに過ごした同級生たちと別れるんやなあという寂しさとともにちょっとした解放感を感じていた。
高校の卒業式は本校と同じく3月1日であった。当時はまだ共通一次もセンターテストもなく国立大学の入試の始まりは3月3日からの3日間であった。一人暮らしに憧れ、遠方の大学に出願していた私はその日の午後には旅立たなければならなかった。そのため、この日も卒業したんだなあという感慨に浸ることもなく、式やクラスのセレモニーが終わるとすぐに旅支度にとりかかったのを覚えている。
大学の卒業式の記憶はほとんどない。本来なら開通しているはずの新幹線は未完成であったが、観光見物を兼ねてというより、ほぼそれが目的ではるばる母と兄が来てくれたことだけを覚えている。その時点では4月から本校で働くことになるとは夢にも思っていなかった。
それから2週間足らずのうちに大谷に勤めさせていただくことになった。今年でもう37回目の卒業式である。中学部に9年在籍し、担任を持たなくなって(教務部長やら副校長で)16年ということもあり、高校生を担任として送り出したのはわずか4回しかない。それでも、やはり卒業式という感慨は特別である。大谷で学んでくれた生徒諸君を送り出すのは、寂しくもあり、誇らしくもある。ほとんど振り返ることもなく、未来に向かって飛び出していく姿を見送りながら彼らの明るい未来を願うばかりである。
そして、60歳となった私はこの春で定年である。いわばひとつの卒業である。業を卒える。業というほどのことができたかどうか。贔屓目に見れば幾分かの貢献はさせてもらえたかもしれないが、どう考えてみても支えられ、助けられてきたことの方が多い。ただただ感謝あるのみである。歳を重ねるにつれ、様々なつながり()の中で支えられていることを実感することが多くなった。そうした「恩」を受けた相手に返すのは当然として、それよりもその「恩」を次の世代のために何か貢献できることで返す、というか渡していくべきなのだろうと、この歳になって思う日々である。
次の「卒」を探すと「卒寿」があった。寿命を卒える頃ということかと思ったら、そうではなく、卒の略字「卆」が九十であることからの長寿のお祝いだそうだ。そこまではとてもなあ。

(文責: 辻 仁)




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聞思して遅慮することなかれ

今週の一週一言
                                  月20日~2月27日
(もん)()して()(りょ)することなかれ
                           
親鸞[1173-1262・・・浄土真宗の宗祖。9歳から29歳まで比叡山で修行するも、下山の道を選んだ。その後、師法然と出逢い「()(しん)」したという。しかし、35歳のに師とともに弾圧をこうむり、罪人として越後に流された。流罪後は北陸・関東地方で伝道し、62、3歳の時に京都に帰った。90年の生涯をみると、生没の地、師との出逢いの地である京都よりも、他の地域で過ごした時期の方が長いことに気づかされる。
【如是我聞】
「仏教って変わった教えだなあ」。僕は大学の講義中にふと思った。それは、次のような話を聞いたからであった。ブッダが生きていた当時の仏教教団は、ブッダと同じ出家した者を中心に成り立っていた。ただし、生産活動を不要とみなした彼らは、生存に必要な最低限の食べ物などを、出家していない人々(いわゆる在家)の施しから得るしかなかった。もちろん等価交換ではないが(交換ですらないだろう)、出家者が、食べ物などを施してくれた人に直接できる行為は〝はなし〟であった。つまり、仏教は誕生したときから、出家しない・出家できない人々の支えになりつつも、それらの人々に支えられて存在する宗教だったのである。
こんな素敵な仏教にまつわる話を聞きながら、僕は思ってしまった。「じゃあもしも、世界中の人がブッダに憧れて出家したら・・・」。そうなれば、支えてくれる在家信者がいなくなるので、出家者たちは自給自足するのかな。でもみんな出家しているから子孫を残さない。となると、出家者全員の寿命がきたら人類は滅んでしまうんじゃないか??「ブッダを理想としているのに、みんながブッダのようになったら破滅しちゃうなんて、なんか変テコな教えだなあ」。講義後、このことを友人に話したら即座に一言。「そんなこと考えてどーすんの?まずブッダなれへんでジブン」。あっ!そっか!

悲しきかなや自分の妄想。勝手にもしもの話をふくらませて、肝心の自分と現実に考えが届いていなかった。そもそも、全ての人が同じ生活スタイルをすること自体おかしーべよ。ブッダも「人類みんな出家しろ!」なんて言ってないしね。変テコなのは僕でした。トホホ。
けれども、このとき僕は少しこだわって考えた。仏教はブッダ(釈尊)という「人」が「人」に説いた。そして、ブッダの死後も人々が繋げてきた「生」の歴史とともにあった。要するに仏教は、「人が生きること」のなかで意味を持つ教えなのだ。そこでハッと思った。では、仏教は人に、僕に、どのような〝生き方〟を指し示す教えなのだろう。
紀元前5世紀頃のインドという特定の状況のもとで成立した仏教。この教えは、時代や地域をこえて広く伝えられた。出家・在家を含めた教団のあり方も、ブッダの〝はなし〟を聞き伝えた人々の歴史を通じて多様に変化してきた。しかし、伝えられた〝はなし〟(経典など)に真摯に向き合った人々は、「仏教」と称された多くの教えのなかから、その本質を探したに違いない。僕が生まれた日本にも、伝わってから約1500年続く仏教の歴史があり、知っておくべき仏教者たちが何人もいる。ただ、僕は、僕の知りえたわずかな範囲で、やはり親鸞という人物の理解した仏教(真宗)に驚くのである。

「聞思して遅慮することなかれ」。これは、親鸞の主著『教行信証』のはじめの部分に出てくる言葉だ。「聞いて受け取った教えに対して、自らの計らい・疑いをあれこれ差し挟んではならない」というような内容だと思う。意訳しても、自分にとっての意味を考えるのは楽じゃない。でも、どうしても気になることがある――親鸞は何を「聞思」したのだろうか?――ひとつだけ言えるのは、親鸞がそれを「(せっ)(しゅ)()(しゃ)(しん)(ごん)(ちょう)()()()(しょう)(ぼう)」と表現していることである。ヒーッこれまた難しい。
とはいえ、おそらくこうなのであろう。親鸞は、「摂取不捨」すなわち「全ての人が平等に救われる」という〝はなし〟を、歴史世界を超えた真の教えとして「聞思」した。つまりは、その〝はなし〟を、自らの計らい・疑いを差し挟まずに受け取り、生き抜いたのだ。たとえ自分たちが、平等な救いとは無縁の弾圧にさらされても。だとすれば、僕は親鸞の〝生き方〟を、もっと知りたいと思わずにはいられない。

(文責:社会・宗教科 北畠 浄光)




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2017年2月13日月曜日

愛ゆえに人は悲しまねばならん 愛ゆえに人は苦しまねばならん

今週の一週一言
                                  2月13日~2月19日
愛ゆえに人は悲しまねばならん 愛ゆえに人は苦しまねばならん       サウザー
漫画『北斗の拳』のキャラクター。孤児であったサウザーは,南斗鳳凰拳の伝承者オウガイに拾われ,本当の父親のように愛情を受けて育つ。最後の試練において目隠し状態で、襲ってくる男を倒すように指示される。実はその敵とはオウガイ。自ら愛するオウガイを殺してしまったその悲しみから,彼は愛情を捨てることを決意するのだが,愛情を捨てきれない。自分を祭るピラミッドを子どもたちを使役して建設するが,子どもを殺すことはない(大人は平気で殺す)。またピラミッドの本来の目的はオウガイを祭るものだということが最後にわかるのである。サウザーは,作中で最も愛と情を求めた人物なのであった。サウザーの名言には,「退かぬ,媚びぬ,顧みぬ」というものもある。負け戦でも最後まで認めなかった時の言葉。                   
【如是我聞】
母方の祖父のことを好きではなかった。なんでも仕切りたがる人で自分中心でなければ嫌な人だった。小学生だった頃,夏休みには旅行に連れて行ってくれたが,修学旅行状態で,引率の先生=祖父,と言った感じだった。家族で楽しむ旅行ではなかった。正直そういったルールとかに付き合うのが面倒くさかった。また,自分の武勇伝や,自分の不幸話を,何度も孫に語る。そして長い。これも嫌だった。他にも別の孫に対する贔屓がひどいとか,そういう理由もあって,だんだん会うのが嫌になり,仕方なく行く新年の挨拶くらいしか会うことはなくなった。
そんな気持ちが変化したのは,大学に入ったくらいだったと思う。新年の食事会で,例によって祖父が大演説を始めると思ったら,突然泣き崩れたのである。自分の老いに対しての不安に押しつぶされた様子で,自分の死がそろそろ迫ってきていることに対して,耐えきれず,死にたくないと泣く。弱さ丸出しで,今までは包み隠そうと必死で生きてきたのだな,と気づいた。そして今まで聞かされた語りは,自分を隠す虚勢だったんだろう。非常に上からの感情だが,祖父の弱さを受け入れようと。そう思った。
祖父は小さいときに,貧しさもあって両親からの愛情をあまり受けなかったらしい。その経験が,常に不安を感じる性格になったようだ。特に死への不安は強烈だった。小さい時,親戚の死に直面して,自分の命を半分あげてもいいから救ってほしいと願ったそうだ。その半世紀程前の記憶を,私に何度も語った。そこにはかつて偉そうにしていた面影はなかった。
実際に祖父が亡くなるまでは,もう暫くの猶予があった。ループするように同じ話が多かったが,沢山聞いた。他の従兄弟たちは面倒くさがっていたが,私はこれが祖父にしてあげられる最後の孫としての仕事だと思っていた。祖父の自分の弱さを隠し自らを誇示するところを,最後は孫として受け止めてあげられたんじゃないかと思う。
ところで,今うちの娘たちは私の父と母のことが大好きで,「じじのとこいくー。」一人で泊まりに行ったりする。私の祖父との関係に比べれば,甘いにも程があるスィートな関係である。祖父の経験を反面教師的に踏まえているようで,孫に対して嫌われないためか,かなり甘い。「退くし,媚びるし,顧みる。」溺愛である。                           (社会科 今堀)




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内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1...