一週一言インデックス

2013年12月6日金曜日

人間の邪悪な心を変えるより  プルトニウムの性質を変えるほうがやさしい

今週の一週一言
12月2日~12月8日
   
人間の邪悪な心を変えるより 
プルトニウムの性質を変えるほうがやさしい
アインシュタイン
アルベルト・アインシュタイン・・・1879~1955、ドイツ生まれ。
ユダヤ人の理論物理学者。1921年ノーベル物理学賞受賞。相対性理論・光電効果の解明など、輝かしい業績を持ち、
20世紀最大の物理学者とも、現代物理学の父とも呼ばれる。
       

【如是我聞】
自分の中に邪悪さを見出さない人はいまい。誰しも自分自身の邪悪さに多かれ少なかれ気付き、嘆息する。そして、それが大人になるということかもしれない。
しかし、人間の心とはおそらく、当人が自覚しているものを遙かに超えるほどの邪悪さを時に発揮するのではないか。思いもよらない(よこしま)さが実は「人間の心」のポテンシャルである。つまり、何らかの成り行きや状況、関係性において、突如変わってしまうものが人間の心の本性であるように思う。というか、そうでなければ説明がつかないほど惨たらしい出来事に世の中は満ちている。人間は鬼にもなればホトケにもなるということか・・・。

元素番号94Pu、プルトニウム。この名前の由来はプルート、ギリシャ神話における冥界の王。プルトニウムはもともと自然界に存在していた元素ではない。人間が人工的に作り出した元素である。自然界に存在していたウランを、互いに憎しみ合い争い合い殺し合っていた人間が、お互いを一気に大量に殺す目的で加工し生み出されたモンスターである。
モンスターの平和利用が推奨され、長らく推進されてきた。しかし、モンスターがエンジェルに変わるわけもなく、時折思いついたように牙をむく。当たり前のことである。
しかし、その当たり前のことに周章狼狽し右往左往するモンスターがいる。明らかにメルト・ダウンしていても、メルト・ダウンではないと言い張るモンスターがいる。放射能が充満しているところに、多くの人々を送り込むモンスターがいる。そして、それを遠くからそしらぬ顔を決め込むモンスター。電気料金値上げが嫌でモンスターを飼い続け、そのくせ中国産の野菜を敬遠するモンスターが。

                            (文責:国語科 曽我)

2013年11月19日火曜日

如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし  師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし

今週の一週一言
11月18日~11月24日
   
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし
『正像末和讃』
親鸞聖人・・・1173~1262。幼少の頃出家し、比叡山延暦寺に学ぶ。29歳の時、山を下り、法然の門弟となる。法然に連座して越後に流され、赦免後は常陸に住み、多くの人々を教化する。晩年は京都に戻り、『教行信証』などの著述に専念した。

【如是我聞】
この和讃を讃歌にしたものを「恩徳讃」といいます。本校でも講堂礼拝や報恩講のときに皆で歌います。この和讃の中で親鸞聖人は、「如来大悲」と「師主知識」という二つの恩徳に対する、自らの姿勢をうたわれています。
「身を粉にしても報ずべし」と「骨を砕きても謝すべし」。どちらも出来ないことです。しかし、出来ないことをあえて「べし」とおっしゃっているということは、その恩徳ということが、いかに深いものであるか、そしてこの身に余るものであるかということを表しておられるのだと思います。
親鸞聖人が「べし」という言葉を使われる時は本当に大事なことをおっしゃられる時です。「べし」とは正式には7~8通りの意味を持つ言葉ですが、聖人が「べし」と使われる時は、「当為」の助動詞で、命令的な意味を持ちます。何々をしなさいと。しかし、聖人は人に命令されているのではなく、本当に大切なことを、もう一度ご自身の上に確認されるために「べし」を使われているのだと思います。親鸞聖人が数ある『和讃』のなかで、「べし」を2回も使われているのはこの一首だけです。それがこの「恩徳讃」です。

報ずべき 身を粉にもせず 親鸞忌

親鸞聖人が「べし」と二度も重ねておっしゃっている「恩徳」に背いてばかりいるこの私というものが、「恩徳讃」を歌うたびに見えてくるのでしょう。そういう形で親鸞聖人に申し訳ないなと、逆に聖人に出遇っておられる方の句です。


                         (文責:宗教・社会科 山田)

2013年11月12日火曜日

大悲無倦常照我身

今週の一週一言
11月11日~11月17日
                                 
 大悲無倦常照我身
                    
源信・・・942~1017。平安中期の天台僧。若くして比叡山横川に隠棲し、
      『往生要集』を著す。親鸞聖人は真宗相承の祖師として、七高僧の一人に
      数えた。

【如是我聞】

 中国、中唐の詩人劉禹(りゅうう)(しゃく)に「(しゅう)(ぶん)(よう)」という漢詩がある。聚は集まる、謡は歌の形式。つまり「蚊がたくさん集まってブンブンいっているような歌」が「(しゅう)(ぶん)(よう)」だ。一匹いても気になって気になって仕方ないあの蚊がたくさんいるのだからたまったものではない。今なら防虫剤、殺虫剤が威力を発揮するところだろうがその頃はどうしたのだろう。劉禹(りゅうう)(しゃく)は蚊のことを言ったわけではなくて自分をあれこれ悪く言う人がたくさんいる。自分は悪くないのに、ということを訴えている詩ではあるが。
 さて、人から嫌われる虫は時に「害虫」と呼ばれる。人に不快な思いをさせたり、農家さんを困らせたりするから「害虫」と呼ばれるのだが、虫自身は自分が害虫とはだ思っていないだろう。だから蚊は来なくてもいいのに何度でも人から血を吸おうとする。一方ミツバチなどは人に利益をもたらすため「益虫」扱いされることもあるが、これも子どもたちを育てるためせっせと蜜を集めているはずのミツバチからするとたまったものではないかもしれない。つまり「害虫」も「益虫」も人間中心の見方からの呼び名で、どちらも人間にいのちを奪われている。
 「一切の生きとし生けるものは幸いであれ」と説く仏教の教えに照らすと人間の虫に対する行いはいかにも罪深い。そんな人間は、いや私は救われるのだろうか。阿弥陀仏の大いなる慈悲の心、大悲は罪深い行為をし、なおかつ救われることに疑問を持ってしまう我が身すら救おうとするという。私はそれをありがたいと感じるよりも慈悲を受けるにふさわしい自分か振り返る方に意識が向いてしまう。



(文責:宗教・国語科 佐々木)

2013年11月5日火曜日

慚愧あるが故に 名づけて人となす。

今週の一週一言
11月5日~11月10日
                                 
 慚愧(ざんき)あるが(ゆえ)に 名づけて(にん)となす。
涅槃経(趣意)・・・釈尊の最後の旅、入滅、遺骨の分配などの様子を伝える。
           東晋の僧、法顕によって『大般涅槃経』として漢訳された。                    

【如是我聞】
東京スカイツリーは2011年にギネス認定された世界一高いタワーだ。東京の新名所として多くの人が訪れている。最も高いところで634m。でも私たちが行くことができるのは450mまで。それも床が450mなのか、天井がそうなのか。最近チラッと「東京スカイツリーから見る夜景」を組み込んだツアーの広告を見た。でもせいぜい450メートルでしょ…それほど感動するだろうか。比叡山なら848メートルあるのでこちらのほうが高さはうんと高い。
 ならば世界文化遺産に登録された富士山。こちらは高さ3776メートル。ここから見る夜景はきれいなことだろうと思って登った人の話に聞くと、きれいなのは日が出ている間の自然の景色のほうがきれいだと思うよ、とのことであった。なるほど、それはそうかもしれない。朝日が昇ってくるところを多くの人が目指したいと思う気持ちもわかる。
 ではずっと高く行って、宇宙から見た地球の夜景はどうか。私たちはそれを映像でしか見られないが、宇宙飛行士ならば自分の目で見ることができる。日本人宇宙飛行士として二度、宇宙に飛び立った毛利衛さんは次のように言っている。「シャトルから見た日本は夜の地球の中でひときわ明るく、列島の形がくっきりと浮かび上がっていた」。このあとに毛利さんはどのような言葉をつなげたと思いますか?「他国のクルーと見ていて恥ずかしかった」。私はこの「恥ずかしい」という気持ちには大事なことが含まれていると思う。明るいのは人間が大量にエネルギー消費をしているためだ。そのエネルギー消費の弊害は既に地球規模の問題なのに、さらに消費規模を拡大しようとし、それをよしとしているのではないか。日本だけじゃない、アメリカだって、中東だってなどと言ってはいけない。それこそ「恥も外聞もない」ことだ。ここで人間が自らを振り返らず、「恥ずかしさ」もなくしてしまったらどうなってしまうのだろう。


                        (文責:宗教・国語科 佐々木)

2013年10月2日水曜日

今正しいことも、数年後間違っていることもある。 逆に、今間違っていることも、数年後正しいこともある。

今週の一週一言
月30日~10月5日
「今正しいことも、数年後間違っていることもある。
逆に、今間違っていることも、数年後正しいこともある。」

ライト兄弟
兄ウィルバー・ライト、1867年生まれ。弟オーヴィル・ライト、1871年生まれ。自転車屋をしながら兄弟で飛行機の研究を続け、1903年に有人動力飛行に世界で初めて成功した。
                    
【如是我聞】
 「機械が飛ぶことは科学的に不可能」とされていた時代に動力飛行機の開発に取り組んだライト兄弟のことばだけに、真実味がある。
 彼らは「機械が飛ぶことは間違っている」という当時の科学者やジャーナリストたちの主張をくつがえし、間違っていると決めつけられていた自分たちの理論の正しさを証明した。出典までは調べていないが、信念を貫くことの大切さをこのことばに込めたのかもしれない。
 しかし、ライト兄弟の偉業からこのことばだけをとりはずして味わってみれば、「絶対の真実などない!」というようにも読めるような気がする。「正しさ」とは時代によって、地域によって、人によってうつろいゆくものだ、ということだ。
 果たして飛行機の発明は正しかったのか?
飛んだ、という「正しさ」はあったかもしれない。でも、発明後の飛行機が行なってきたことを考えると、利便やロマンの背後に、多くの殺戮や環境破壊がなかったか…、それは「正しい」ことだったか?!
 そう考えると、人類の歴史は〈真実追究〉の歩みであると同時に、〈後悔の積み重ね〉によってできていると言えるかもしれない。
 いやいや、人類の…なんて大きくでる必要はない。振り返ってみる自分の半生だけでそのことは証明できそうだ。
「今間違っていることも、数年後正しいこともある」と信じて生きるしかない自分がいる。「今正しいことも、数年後間違っていることもある」と迷う自分もいる。私にとっては、「正しさ」とはあやういものだと心に刻みつけるために、このことばが必要なのかもしれない。

      文責:社会科     佐藤 博之

2013年9月24日火曜日

人は運命を避けようとしてとった道で しばしば運命にであう

今週の一週一言
                                  月24日~9月29日
 人は運命を避けようとしてとった道で しばしば運命にであう
ラ・フォンテーヌ・・1621~1695。フランスの詩人。有名な格言に
「すべての道はローマに通ず」がある。
【如是我聞】
大げさに言うと、私は生まれながらにして、歩むべきレールを敷かれた運命(さだめ)の元にいのちを与えられた。ずっとそう思っていた。「おまえは将来、こういう職に就くのだ!」と、親からはもちろん、周囲の誰からも言われ続けた。
私がどういう人間で、どういうことに興味・関心があり、どういうことに()けているかなど、そんなことを考えても無駄でしかなかった。私の青春時代はそんな閉鎖的な思いに、時に苦しみ、時に絶望を感じながら過ぎて行った。あがきにあがいてたどり着いたのは、何をしても無駄だという「無力感」だった。
高校を卒業した私は家から逃げた。日本にいては逃げきれないと思い、二十歳の時、遠くヨーロッパまで逃避した。しかしそこで、逃げ切ったはずのもの、「宗教」に出会ってしまった。
ヨーロッパ初日、パリの駅で10人ほどの強盗に囲まれた。もう駄目だと思ったその時に全身黒ずくめの男性に救われた。彼は強盗に積極的に話しかけ、私を解放するように説得した。すると信じられないことに、強盗たちは私にうすら笑いを残しては一人また一人と去って行った。2人きりになった駅前の公園で、彼はびっくりするほど素敵な笑顔で、たった一言“Bon voyage!(いい旅を)”という言葉を残してその場を後にした。
興奮と緊張と意味不明の展開に、私はしばらくベンチから立ち上がることができなかった。やがて電車の時間がきて駅に入って売店でコーヒーを買った。お金を出す手はまだ震えていた。コーヒーを一口飲んだら、今度は全身が震え始め、ついには泣いてしまった。いったい何だったのだ、さっきの出来事は。
夜行列車に乗ってスペインに向かった。眠れぬまま朝を迎え、バルセロナの駅に降り立った時、あまりにも非現実的な一日と、それでもまだ生きているという事実に力なく笑っていた。体は疲れていたが、不思議と心は元気だった。
全身黒ずくめの彼はカトリックの神父さんだった。「宗教に生きるということであの笑顔が得られるのなら、自分の人生にひがみ続けているこの私は、いったい何から逃げようとしているのか。」逃げた先のヨーロッパで、ずっとずっと考えた。考えずにはいられなかった。

あれから30年が経つ。今でも彼の笑顔ははっきりと覚えている。逃げまくった果てに、今は学校でその授業を受け持っている。出会い(縁)によって今の私(果)がここにいる。想像もつかなかった私として。                              宗教科 乾

2013年8月28日水曜日

古人の跡を求めず 古人の求めたるところを求めよ

今週の一週一言
                                  月26日~9月1日
 古人の跡を求めず 古人の求めたるところを求めよ
                    松尾 芭蕉 

松尾芭蕉・・・寛永21年~元禄7年(16441694)江戸前期の俳人。伊賀の人。蕉風俳諧を確立。各地を旅して発句や紀行文を多く残した。旅先の大坂で病没。『野ざらし紀行』、『笈の小文』、『奥の細道』など。

【如是我聞】
 「まねしぃごんぼ、ごんぼ食(く)て走れ」。
小学生くらいのとき、誰かまねをしたときには、必ずと言っていいほどこう言ってからかわれました。子どもの頃は、どうして「ごんぼ(ゴボウ)」を食って走らなあかんのかなんて考えもしないまま使っていました。今でもなぜ「ゴボウ」なのかはよくわかりませんが…。ただ、そこには誰かのまねをするのはあかんことだという思いがあったんでしょうね。
 何かをしようとするとき、失敗はしたくないものです。いや、少なくともぼくはそうです。「失敗を恐れるな」とか「失敗は成功のもと」など周囲からはいろいろと言われますが、やっぱり失敗するのは嫌なものです。
「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」。松尾芭蕉は、弘法大師の言葉を参考にしながら、この言葉を弟子の許六(きょりく)に贈りました。「古人」とは、過去の偉人でしょうか。昔の偉人たちが、何をしたかという結果ではなく、何をしようとしたかという志(こころざし)を見極めて行動しなさいという意味でしょうか。俳諧や書道、文学や芸術においては、誰かのまねをすることはよくないことかもしれません。しかし、最初は自分が憧れる誰かのまねであってもいいと思います。たとえ物まねから始まったとしても、それをやり遂げようとする過程のなかで、自分が理想とするものが見えてくるはずです。許六もきっと芭蕉の物まねから俳諧を始めたのでしょうから。物まねや失敗したくないという足掻(あが)きのなかから、芭蕉翁が言うように、古人の志を見極められたらいいですね。それまでは「ごんぼ」を食いながら頑張りますか。


                            (文責:国語科中川)

2013年7月24日水曜日

元気いっぱいに一日三時間歩けば 七年後は地球一周できる

今週の一週一言
                                  月22日~7月28日
元気いっぱいに一日三時間歩けば 七年後は地球一周できる(ほどだ)
  
サミュエル・ジョンソン・・・17091784 イギリスの詩人・批評家・文献学者。シェイクスピアの研究で知られる。

【如是我聞】
 
 元気いっぱいに一日三時間歩けば、結果的に七年後には地球一周をしている計算になる。七年間で地球一周分を歩かなければならないとなれば、これは相当つらいことになる。はじめから無理とあきらめてしまうだろう。「千里も一歩」という。恋しい人の所へ行く時は、遠い路も短く感じられて苦にならない。
私たちは元気いっぱいに何かに夢中になっている時、時間が過ぎるのを早く感じることがある。元気いっぱいに楽しんで歩くことを継続することができれば、七年間もあっという間に感じられることだろう。
 楽しんで元気いっぱいに取り組むということを考えるとき、非常に素敵なモデルとしてと思い浮かぶのが観音菩薩である。観音菩薩は三十三に姿を変え、衆生を救済するといわれる。そして、衆生の救済自体を「遊戯している」菩薩である。衆生の救済を仕事としてではなく、楽しみ、遊んでいるというのだ。遊んでいるように仕事をする。こういうことができたら、素晴らしいと思うが、私たち凡夫には、なかなか難しいことだ。
 ちなみにサミュエル・ジョンソンはこの他にも多くの語録を残している。「腐敗した社会には、多くの法律がある」「過ぎゆく時を捉えよ。時々刻々を善用せよ。人生は短き春にして人は花なり」「地獄への路は善意で舗装されている」などは特におもしろい。

                          (文責 や)

2013年7月18日木曜日

固く握り締めた拳とは手をつなげない

今週の一週一言
                                  月14日~7月21日
固く握り締めた拳とは手をつなげない
  
ガンディー・・・1869-1948 独特の宗教性の強い非暴力・不服従の無抵抗主義をとなえ、第二次世界大戦後にインド独立をかちとる。「インド独立の父」と称される。

【如是我聞】

 ガンディーの唱える非暴力主義は、暴力という非真理に対して、平和と生命への愛という真理の力によって闘うことであり、暴力という非真理は同じ暴力によって破ることはできないというものです。
 「固く握りしめた拳」とは、暴力という非真理の象徴でしょう。とすると、この非真理を破るものは「合掌」という真理しかないのではないでしょうか。
「合掌」はインドに仏教が広まる以前から行われていた日常の挨拶の形式で、インドでは今でも「ナマステ」と挨拶をします。「合掌」は「降伏帰順」の姿だともいわれます。降伏というのは相手に対して、くだり、伏することで、帰順というのは、反逆の心を改めて、服従することです。これは相手への最高の尊敬を表す姿です。
なぜ両手を合わせるのかについては諸説ありますが、一般的には、インドでは左手が不浄、右手が清浄とされます。「合掌」というのはその両方を合わせる姿であり、それで自分の全てを表現しているのです。
私たちは誰もが清浄な面と不浄な面の両方を持ち合わせる存在です。それらを全てさらけ出した姿が「合掌」です。人間である限り、絶対的な清浄も不浄もあり得ません。それに対する気づきがあれば、拳を固く握り締める必要は無くなるはずです。


                          (文責 や)

2013年7月3日水曜日

自分を狂わせ迷わせる敵は内にある

今週の一週一言
                                  6月16日~6月22
自分を狂わせ迷わせる敵は内にある
                    安田理深 

安田理深(1900-1982)・・・真宗大谷派の僧籍を持つ仏教学者。

【如是我聞】
 私の母はいつも楽しそうだ。ニコニコ笑っている。結婚当時、とてつもない田舎に引っ越してきたとがっかりしたらしいが、「でもどうこう言っても仕方ないし、まぁいいか。」と、田んぼ道もルンルンと自転車を漕ぎながら生活していたらしい。家の目の前に高速道路が通る話になり近隣の住民が次々と引っ越していくなかでも、「まぁしょうがないな。」と思ったという。「何も分かっていない。」と皆に馬鹿にされたらしいが。
しかしどういうことか、何年経っても高速道路が建設されることはなく、代わりに徒歩5分の場所に阪急の駅ができた。数年後には徒歩3分の場所にJRの駅が。そしてもうじき家の前に京都府最大級のイオンモールができる。「やったー♪」と毎日窓から工事現場を嬉しそうに見つめる母から、ありのままを受け入れることが最大の強さだということを教えてもらっている。きっと家の周りが田舎のままでも母は何かと楽しいことを見つけて笑っていただろう。わたしが就職で京都を離れるときも泣きながら笑顔で送ってくれた。わたしが京都に帰ってくるときも泣きながら喜んでくれた。駄目だとか、こうしろ、ああしろとは絶対に言わない、しかしいつでもわたしの帰る場所を用意してくれている母には、底知れぬ力があるような気がするのである。

目の前のものを敵にするか味方にするかは自分の思いひとつ。それでもわたしは敵を作り、言いたいことを言わずにはいられない。言わなければ負ける気がするから、後からその話をまた取り上げてでも相手をねじ伏せようとする。強くなんかない、話す力ばかり身に付けた弱虫。どこまでも自分さえ良ければいいという自己への執着のためだけに行動しているわたしは、一体どんな親になるのか。本当に気を付けなければ。             (文責:た)

2013年5月30日木曜日

月かげの とどかぬ里はなけれども ながむる人の 心にぞすむ

今週の一週一言
                                  月27~6月2日
 
 月かげの とどかぬ里は なけれども 
   ながむる人の 心にぞすむ
                法然上人    

法然房源空・・・1133年岡山県生まれ。僧侶、浄土宗開祖。幼少時に武士であった父が討ち死にし、比叡山に登る。43歳の時、善導の言葉によって回心し、比叡山を下山、以来東山吉水で念仏の教えを説いた(浄土宗立教開宗)。興福寺奏上をきっかけに、1207年、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下され、土佐に流罪となる。赦免され1211年に帰洛するが、翌年80歳で死去する。                   

【如是我聞】
 実際に目に見えるものだけが世界であり、自分の目に見えないものは存在しない。そして、そのことに疑いを持たないのが、我々である。してみると、我々はずいぶん狭い世界に住んでいることになる。
 京都駅を8時に出発する電車は、8時3分に東福寺駅に到着する。それから10分歩けば大谷高校だ。大谷高校に行くことを目的にしている人間に見えている世界はこれだけである。
しかし、電車は突然降って湧いてくるものではない。線路も勝手に轢かれていくものではない。駅もいきなり現れ出るものではない。つり革も、ICOCAも、路も、人も。なのに我々はどうしても今見えている世界にこだわる。時刻表の数字に左右される。8時ちょうどに出発するはずの電車がいつまでたってもやってこない。それが極めて受け入れ難いのだ。見ようとすれば見えるはずの世界を見ようとしていないのかもしれない。
花の絵を描いてみる。花だけを描くと何とも寂しい。茎をつけ葉をつけ、大地を描き込み、太陽を描き、雲も加えてみる。そして花を見ている私を。風の音が聞こえる。世界はどこまでも広がっているのがわかる。果てしなく広がる世界があるのだ。そしてふと、そこに懐かれている私に気づく。
それまで存在しなかったものに出会うことを成長というのだろう。

                               (文責:そ)

2013年5月17日金曜日

あなたも望まれてこの世に生まれてきた大切な人なのですよ

今週の一週一言
                                  4月29日~5月5日
 あなたも望まれてこの世に生まれてきた
 大切な人なのですよ
                    マザー・テレサ
マザー・テレサ・・・本名はアグネサ/アンティアゴ・ゴンジャ・ボヤジ(アルーマニア語)。インドのコルカタで修道女として、貧しい人々のための活動に従事する。1979年ノーベル平和賞受賞。日本を訪れたときに残した言葉が感銘深い。1910―1990年


【如是我聞】

 今週の言葉は、以下のような症状をお感じの方々に効果があります。
       最近、失敗したり、つまずいたりして、気分がすぐれない方。
       人間関係に行き詰まりを感じている方。
       時々、なんで生きているのかわからなくなる方。
       とことん、自分であることに嫌気がさしている方。
       もう全てがどうでもいいと感じてしまった方。

 このような症状の見られない方には、残念ながら今週の言葉は響かない可能性があります。
 しかしながら、「私」を真剣に生きていると、少なくとも一度くらいは、先のような症状に見舞われることがあります。悲しいですがそれが現実です。
 今はそうではない、つまり、「自分大好き」、「私って最高」などと思っている人。または、自分のことを好きだとか嫌いだとか考えたことも無い人。どうぞ、もしもの時の常備薬として、今週の言葉を頭に入れておいてください。
 もちろん、自分が嫌になる経験を心待ちにする必要はありません。でも、もしも、自分が大切な人に思えなくなったとき、それは、深く生きるチャンスです。そしてそれは、乗り越えられる壁です。
 「夜明けに先んじて闇は無い」
 心の闇も、夜明けの準備に過ぎないのです。人と成る、大切な準備なのです。
                                 (文責:い)

2013年2月21日木曜日

もし なんと空しい二文字だろう


今週の一週一言
                                  2月18日~2月24日
もし なんと空しい二文字だろう

シドニィ・シェルダン・・・19172007 アメリカの小説家。『ゲームの達人』『真夜中は別の顔』など、全作品の売り上げ総数は3億部をこえる。

【如是我聞】
 佐々木先生がパンフレット「涅槃会によせて」の中で、『絵本・地獄』についてふれられていました。よく売れているということなので、私もさっそく本屋でちらりと立ち読みをしました。うそをついたり、悪い言葉を言ったり、親に感謝したりしなければ、地獄で釜ゆでにされたり、火あぶりにされたりするぞと、絵本にしてはかなりインパクトのある内容です。元の「地獄・極楽図」から教育効果に期待ができる部分だけを取り出して使うという、大人のいやらしい一面が見え隠れしています。
 お寺では、古くから絵解きと呼ばれる教化方法がとられてきました。掛け軸や屏風絵を使って法話をするというものです。耳で聞くだけよりも、目で見たほうがわかりやすいということでしょう。その代表格が先の「地獄・極楽図」です。他にも、幽霊の掛け軸などもよく絵解きに使われます。
幽霊の特徴は三つあります。一つ目は後ろ髪が長いことです。後ろ髪を引くという言葉がありますが、これは何を表しているかというと、もう何年も前に過ぎ去ったことを、「もしあの時ああしておけば」「もしあの時あんなことをしなければ」と後悔することです。どれだけ「もし」と言っても無駄なことですが、終わったことをいつまでも気にしているという愚かな面が私たちにはあります。後悔したことのないという人はいないでしょう。
 二番目の特徴は、手を前に出しているということです。これも経験がないという人はいないでしょう。これは後悔の反対です。「もし失敗したらどうしよう」「もしケガをしたらどうしよう」と、来ない先のことをあたかも来たかのごとくに思って心配し、不安でいられないという面を私たちは持っています。これを後悔に対して「取り越し苦労」と言います。残念ながら私たちはどうにもならない事と分かっていながら、こういう不安から離れることができません。
そして三番目の特徴は足が無いことです。「今」を生きていながら、足下が見えないということは、その「今」に足が付いていないということです。一度も「今」というかけがえのない自分自身に出遇ったことがない。今を生きていながら今を忘れているということです。ではその幽霊とは何者でしょうか。
日本画の技術の一つに「三方正面の図」というのがあるそうです。たとえばその幽霊の掛け軸の前に何十人と人がいても、自分一人だけを見ているように描かれている。そして、横から見ても、下から見ても、上から見ても、まっすぐに自分を見据えている。つまり、幽霊とは何者でもない、「お前のことやぞ」と、掛け軸の幽霊から教えられるのです。
私はこの教えられるということが大事だと思います。「ああ、自分のことだった」と教えられることと、火あぶりにされるぞと脅かされることの間には、大きな違いがあると思います。
     (文責:や)

2013年2月8日金曜日

笑顔こそ最高のデザインだ


今週の一週一言
                                  2月4日~2月10日

笑顔こそ最高のデザインだ
               水谷 孝次

水谷孝次(1951-)・・・日本のアートディレクター。2005年愛知万博にて「MERRY EXPO」を展開。北京五輪開会式のオープニングセレモニーにも芸術顧問として参加。

【如是我聞】
 高校時代。「ヘラヘラするな!」と先生に怒られたことがあった。ニコニコしていたつもりがヘラヘラしていると思われていたのだ。笑わなくなってから「意識が変わった」とわたしの評価は上がった。が、得意だった勉強も好きだったスポーツも楽しいものではなくなっていった。挨拶もしなくなった。挨拶しないのが大人だから、まぁこれでいいのだろうと思った。放課後ALT控え室で笑談をしながら、「いつか必ず日本から出よう」と考えるようになっていた。
 大学進学後、わたしは「あなたはその明るさがいい、見ていて癒されますよ」と言ってくれる教授に出会った。癒されると言われることで、わたし自身が癒されていくのが分かったし、全てに対するやる気が湧いてきた。わたしの能力ではなく、わたしという人間そのものを見てくれている人がいる。日本を出なくとも、そこには安心できる世界があった。わたしはその教授といる時間が好きだった。
『大無量寿経』に「和顔愛語 先意承問」という言葉がある。和やかな顔で優しい言葉をかけると、自分も相手も幸せになる。つまり、お金や物を持っていなくても、笑顔はお布施となるのだ。社会人になり、仏頂面が増えてきたわたしが大切にしていくべき言葉である。わたしがもらった幸せを他の人に渡していけるよう、いつでも、どこでも、誰にでも、笑顔と思いやりの心を持って接していきたいものである。
(文責:さ)

2013年2月6日水曜日

読むことは考えることであり  知識は忘れたころに知恵となる


今週の一週一言
                                  1月28日~2月3日
読むことは考えることであり 
知識は忘れたころに知恵となる

松原治・・・1917年生。201294歳没。元紀伊国屋書店名誉会長。東大法学
       部卒業後、満州鉄道に入社。戦後、紀伊国屋創業者田辺茂一氏に出
       会い、同社に入る。同社のニューヨーク進出などに尽力。
【如是我聞】
 本を読むのが好きになったのは、大学を出てからだ。高校時代などは嫌いとまでは行かないが、読書に熱中することなどは決してなかった。
 それが今では、読むものを持たずに電車に乗ったりしたものなら、もう大変である。全く落ち着きを失い、座っていることもままならず、吊られている車内広告の文字を追いかけて移動してしまう。そんな活字中毒である。
 かなり以前、東京の大学や専門学校で英語を教えている友人たちと、何かのひょうしで「言葉はなんのためにあるのか」という話になったことがある。当時、私は英語教師ではなく、外国人に日本語を教えていた。即座に「コミュニケーションのためだろう」と答えた。友人の一人は「自分の考えや思いを表現するため」と言った。隣にいたのが「表現じゃないよ、整理するためだよ」と言った。最後に残っていたのがこう言った。「思考のためだよ」。そして続けた。「言葉が頭の中に何も浮かばないって想像してごらん。考えるってことそのものができないじゃん」。新鮮な気分になったのを覚えている。
 今週の言葉とは、直接関係がないことかもしれない。でも、今週の言葉に出会い、その友人の言葉をほぼ20年ぶりに思い出した。読んではあれこれ考えるのが好きになったのは、その頃からかもしれないことも。
 知っているかどうかということは、往々にして、それほどたいしたことではない。せいぜい「よく知ってるなあ~」と言われて、心の中でニヤッとできるくらいの恩恵しか手に入らない。要は、その知っていることをどう活かすかなのだろう。何かを知る前と知った後で、わたしに変化が起こるかどうかなのだろう。
 知識が知恵となる。そのことの尊いことはいうまでもない。しかし、仏法はわたしに語りかける。ついたその知恵が、いつしか、あなたを悩ませ、苦しめる因となると。これは「ほこ×たて」なのだろうか。
(文責:い)

2013年1月24日木曜日

目的を見つけよ  手段はついてくる


今週の一週一言
                                  1月21日~1月27日
目的を見つけよ  手段はついてくる
               マハトマ・ガンジー
Mahatma Gandhi(マハトマ・ガンジー)・・・1869年―1948年。インド独立の父。「非暴力、不服従」による平和を訴え続けた。政治思想家、人権活動家として、世界中に大きな影響を与えている。
【如是我聞】

手段の目的化に対する警鐘をしばしば耳にする。確かにその通りであり、私自身戒めなければならないことも多い。例えば、クラブ活動の目的を勝つためとすること、勉強の目的を受験に合格するためとすること、働く目的をお金を稼ぐためとすること。このような目的は、おそらく手段の目的化であろう。つまり、目的を達成することが極めて稀であるにもかかわらず、目的を達成した時点で虚無感に襲われることは確実なのだ。では、どのような目的が、「目的」となりうるのか。
マハトマの「目的」はインドの独立であったのだろうか。それとも、そのもっと先にあったのだろうか。どちらにせよ、マハトマのように人生を尽くすべき目的に出会えれば、それこそが人生最大の幸福であろう。しかし、それは容易なことではない。
人生を尽くせるような目的を見つける。それはどだい無理なことではないか。一昔前に流行った“自分探し”と似ている。“自分探し”を公言した著名なサッカー選手は、いつ“自分”を探しあてるのだろうか。ヒトのことはさておいても、もし私が目的を見つけるまでは何もしないとなると、引きこもらざるを得なくなってしまいそうだ。では、どうするのか。
手段の目的化であろうと何であろうとかまわない。まず目前の目的を達成する。それが小さければ小さいほどかえって良い。目前のことに精一杯注力する。その連続によってしか「目的」に出会うことは不可能ではないのか。まずはやってみるしかないのだ。
やってみれば、手段は必ず見つかるはずだ。





(文責:そ)

2013年1月20日日曜日

自己とは何ぞや  これ人世の根本的問題なり


今週の一週一言
                                  1月15日~1月20日
自己とは何ぞや  これ人世の根本的問題なり
                   清沢満之
清沢満之(きよざわまんし)・・・1863-1903 真宗大谷派僧侶、本校初代校長、
浩々洞を主宰。教団改革運動の中心となる。近代親鸞教学の祖。
著書『宗教哲学骸骨』・『絶対他力の大道』・『我が信念』など多数。
【如是我聞】

「不易流行」という言葉がある。芭蕉の芸術観を表す言葉である。「不易」とは詩の基本である永遠性、「流行」はその時々の新風のことである。しかし、それら二つはともに「風雅」の誠から出るものであるから、根源においては一つである、と芭蕉は言う。
 では、詩ではなく我々一人ひとりについてはどうであろうか。
 我々にとっての「流行」と言えば、枚挙にいとまがなかろう。時代の潮流、コマーシャリズム、アンチエージングにビックリ健康法、ネットの掲示板やツイッターでのつぶやき、他人のうわさ話からいかがわしいもうけ話。その一つ一つに一喜一憂、振り回されつづけるのが我々の日常ではないか。そして、当の本人には振り回されている自覚は毛頭ない。私は信念を持って盤石の日常を生きている、と勘違いしている。しかし、この“盤石の日常”がはたして我々の「不易」なのであろうか。
 清沢の言う「自己」とは、振り回され続ける自己の方であり、振り回されていることにすら無自覚な自己のことである。しかし、「自己」とはそれだけではない。そのような自己でありながらも、その自己を尽くしていきたい、「今」に納得して生きていたいと思い続けている「自己」。それがどんな時も変わらない自己の本当の願いであると言う。「今」とは変わり続け、衰え続ける「今」である。それを受け止め、諦めもせず、気負いもせず生きる。それを実現させるものが阿弥陀の本願、つまり本来の我々自身の願いに目覚めて生きることである。
本来の自己に目覚めたうえで、我々の周りの様々な事柄に応じて、様々なあり方で生きる。それが我々にとっての「不易流行」ということかもしれない。
 だからこそ、自己を問い続けることが人間の根本的問題となるのではないか。

(文責:そ)

内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1...