一週一言インデックス

2012年12月20日木曜日

自分が自分になった背景を知る。 それが恩を知るという意である。


今週の一週一言
                                  12月10日~12月26日
自分が自分になった背景を知る。
それが恩を知るという意である。    安田理深
安田理深(やすだりじん)・・・1900-1982 真宗大谷派僧侶、仏教思想家、
私塾「相応学舎」を主宰。
【如是我聞】
“We are what we eat.”(私たちは食べ物で出来ている)先日、ある先生に教わったアメリカのことわざです。
 私たちは他のいのちを犠牲にすることなしに生きることはできません。無数のいのちに支えられて生かされています。この事実は「自分が自分になった背景」の重要な要素であるにもかかわらず、私たちの可視範囲、想像の域は決して広くありません。
 私たち真宗の家庭では、精進日というものを月のうち数日設けることによって、この背景に思いを寄せようという習慣があります。この精進日には食卓から肉・魚類が姿を消します。私が中高生の食べ盛りの頃はこの日が憂うつでした。母親は野菜を天ぷらにするなど、少しでも食べ盛りの子どもに満足させようと、色々な工夫をしてくれました。祖母の時代は卵もだめだったらしいのですが、私の母親は「あれは温めても雛にはならん」と言って、卵を食べることをOKにしました。でもかまぼこは当然だめですし、うどんの出汁もだめでした。このような習慣は今でも続いていますが、私の妻はこの習慣が新鮮らしく、精進日の献立を楽しんでいるようです。
 月のうちにせめて数日でも他のいのちを犠牲にしない。完全には無理であるにしても、そうすることで、無数のいのちにささえられている事実を改めて考えよう。そのような習慣です。
 自分の力だけで生きていると錯覚している私たちが、支えられて存在しているいのちという事実に気づけば、何か恩返しをしなければなりません。そのような気持ちにいたることが、恩を知るということかもしれません。
 あなたのいのちを「いただきます」。それを私のもとまで届け、調理してくださったものに対して「ご馳走さまでした」。恩を知った者がこの二言を粗末にすることはできないはずです。
(文責:や)

2012年12月17日月曜日

人と生まれた悲しみを知らないものは 人と生まれた喜びを知らない


今週の一週一言
                                  12月10日~12月26日

人と生まれた悲しみを知らないものは 人と生まれた喜びを知らない
                  金子大栄

金子大栄(かねこだいえい)・・・1881-1976。真宗大谷派僧侶、仏教思想家。

【如是我聞】
わたしはわたしが積み上げた経験や学んできた価値観からできている。毎日せっせと積み上げて、今、どのくらいの高さになっているだろうか。人一倍努力して、いつか「どうだ!高いだろ、凄いだろ!」と自慢したいわたしがいる。
 わかっている。こんなに積み上げても実は何のあてにもならないこと。身につけている高価なものも、ただのガラクタであること。わかっているつもりだが、手放すことはできない。わたしは何より守りたい自分からどうしても離れることができないのだ。これが我執というものか。しかし本当の自分に出会うことが怖くて、ずっと自分をごまかしている。
 最近寒くなり、温泉に行くことが多くなった。服も化粧も全部取って湯に浸かっていると、「わたしもその他大勢の一人だ。」と感じる。もしかするとこの中に大富豪がいるかもしれないし、大発明家がいるかもしれない。しかしここでは関係ない。みんな同じ。そんなことを考えていると、張り詰めた気持ちが楽になる。比べて生きるのは苦しいだけだ。
 近い未来、自力無効を知ったとき、きっと今積み上げているものは何の意味もないことを痛感するのだろう。「念仏は自我崩壊の響きであり、自己誕生の産声である。」という金子先生の言葉のように、わたしは同時にそのまま包まれている自己を見いだすことができるのだろうか。
(文責:さ)

2012年12月7日金曜日

自分は正直なつもりであろうが、実はそんな人間が、一番不正直な人間であろう。

今週の一週一言
                                         12月3日~12月9日

 自分は正直なつもりであろうが、
 実はそんな人間が、
 一番不正直な人間であろう。
                        曽我量深

「あの人の言葉は信用できない。」

「あいつは失礼なやつやで。」

「あの人は、困ったらすぐ逃げる。」

 こういう言葉が私の口から出るとき、「まあ、私は大丈夫だけどな」、「私は違うけどな」と思っている。どこかで「私は正しい」と思っている。
 もし仮に、「私も信用されないようなことをしてしまうことがある」し、「失礼なやつだと思われているかもしれない」し、「またもや、踏ん張れずに逃げてしまった」などという思いが、自分に対してあるならば、露骨な他人に対する批難は、私の口からは出てこないのかもしれない。
 でも出てくる。時に堂々と。時にこそっと。「ここだけの話やで~」という枕詞に続いて。
 そういうときの自分は、意識としてどこまでも「善人」である。そして近くにいる「悪人」を許せずに批難しているのだ。

 ある先生に教わった。「人間は自分が正しいと思ったときに、その人の持つ、最もいやらしい部分が顔を出す」と。

 自らの悪人性にうなづくことなく「善人」を目指す生き方には、きっと無理が生じる。校歌に詠われる「よき世の人」に成ろうとする歩みとは異なるはずだ。都合の悪いことすら、切り捨てるのではなく受け入れる。上に立つのではなく共にある。そういう歩みであろう。
 「悪人」という自覚がスタートになったとき、そのゴールにあるのは絶望でも失望でもなく希望であろう。
(い)

2012年11月26日月曜日

自信教人信 (自ら信じ人をして信ぜしむ)


今週の一週一言
                              11月26日~12月2日

自信教人(じしんきょうにん)(しん)(自ら信じ人をして信ぜしむ)
   
                    善導大師
善導・・・613年生まれ、681年没。親鸞聖人が師と仰がれた中国の高僧。 

【如是我聞】
 本校の初代校長清澤満之先生は、大谷大学の前身である真宗大学の初代学長も勤められた。先生は「真宗大学開校の辞」において、この善導大師の語をひいて「我々に於て最大事件なる自己の信念の確立の上に其信仰を他に伝える即ち自信教人信の誠を尽すべき人物を養成するのが本学の特質であります」と述べられた。
 本校もまったくこの教えをもとに、開設されたのである。
本校の建学の精神である「樹心」とは、「自らの心を広大な仏の願いの中に置く」ということであり、東本願寺の標語である「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」も同じ趣旨である。
 人を教化しようとするとき、まず自分がその生き方を実践し、それが良いものであること実感しておくことが第一だというのである。
 この頃のグルメ番組を見ても、材料や彩りの良さは伝えることは出来ても、本当にその食べ物が美味しく安全で、何よりも生きる力になることは、なかなか伝わりにくい。
まず無心に食べて「うまい!」という実感が得られること、それが生きる力になる。          (文責:如)

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし


今週の一週一言
                              11月19日~11月25日

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし
   
                  宗祖親鸞聖人
親鸞・・・1173年京都生まれ、1262年没 

【如是我聞】
 我々にとって最もなじみある法語であり讃歌である。法要の最後を飾り、本山報恩講でも、最終日に高らかに詠いあげられる。しかし、問題はその後である。よかった、よかった、終わった、終わったという訳にはいかない。なぜなら、歌のような気持ちが、悲しいぐらいに湧いてこないからである。湧かないとすれば、身を粉に、骨を砕きなど、絵に描いた餅ならぬ、歌に詠われた単なる美辞であろう。私は、ここ数年いつもそのことが気になり、そして気になりつつそのまま放置していた。
 では、宗祖はどうであったのか?報恩感謝の念に満ちあふれて生きられたのか?
恩徳讃に続き、次のような和讃がしたためられている。
  仏智の不思議をうたがいて  自力の称念このむゆえ
   辺地懈慢にとどまりて   仏恩報ずるこころなし
 宗祖も私と同じであった。仏恩を報ずる心はないのだ。
しかし、どこまでもそういう自分自身を厳しく見つめ続けるところが、うやむやに誤魔化し続ける私との決定的な違いである。恩徳讃に続くこの和讃を読み、つくづくそう感じる。
                     (文責:そ)

2012年11月14日水曜日

いかに文釈をおぼえたりとも信がなくはいたずらごとよ


今週の一週一言
                              11月12日~11月18日

いかに文釈をおぼえたりとも
   信がなくはいたずらごとよ
                    蓮如上人

蓮如・・・1415年京都生まれ、1499年没 真宗の僧侶。本願寺第8世、中興の祖。衰退の極みにあった本願寺を再興し、現代の本願寺教団(東・西本願寺)の礎を築いた。

【如是我聞】
 この一言を読み、なるほどごもっとも、と頷く。そして我々は、そうだ「信念」が大切だ、何事も「信念」をもって行動すべきだ、と納得する。しかし、この「信念」というやつが甚だやっかいである。
 そもそも信念を伴わない行動などというものがはたして存在するのだろうか?強いか弱いかを別にして、何らかの判断、思いが我々の行動の先にはあるはずだ。しかし、それがあまりにも、そして恥ずかしいばかりに利己的で、かつ場当たり的であることが問題なのだ。
 確たる信念は美しい。しかし、人間はそれによって他者を傷つけたり自分が傷ついていったりもする。しかも、強ければ強いほど取り返しのつかない傷つき方をしてしまう。
えーい、ままよ!信念などくそ食らえ、俺は流され流され生きてやる!!
 それもまた、身勝手な信念であった。ころころ変わるのも私の信念の特徴かもしれない。
                     (文責:そ)

2012年11月7日水曜日

苦しみの報酬は経験なり


【11月 5日】 苦しみの報酬は経験なり

アイスキュロス  前525~前456
         アテネの三大悲劇詩人の一人。『アガメムノン』・『縛られたプロメテウス』などが残る。


 私たちは自分の苦労話をするのが大好きです。しかし、さまざまな苦しい
出来事に遭い、その結果として得られた経験が、単なる苦労話にとどまって
いては、自分の糧となる生きた経験とはなりません。その苦しい経験が他者
へも向けられ、他者への共感となってこそ、本当の経験となるのでしょう。
なぜなら「私」一人の苦しみは、実は人類全てに共通する苦しみであるはず
だからです。私たちは孤立しているわけではなく、不可思議としか言いよう
のない他者との様々な縁によって、ただ今このいのちをたまわっている存在
です。他者とのかかわりなしに、この私は存在しません。私たちは単独で生
きているのではなく、相互依存の関係の中を生きているのです。相互依存の
関係を生きている以上、他者の苦しみに「知らん顔」するわけにはいきませ
ん。
病を得てはじめて健康のありがたさを知り、大切な人をうしなってはじめ
ていのちのはかなさを実感する。そのような人は同じ境遇の人に優しくなれ
るはずです。これこそがアイスキュロスのいう報酬かもしれません。

(や)

2012年11月5日月曜日

すぐ「わかりました」という人間に、わかったためしはない



【10月29日】 すぐ「わかりました」という人間に、わかったためしはない

小早川隆景    15331597
         毛利元就の第3子。安芸の小早川家を継ぎ、毛利氏の中国覇権確立を助けた。秀吉の五大老にも列し、朝鮮出兵にも従軍した。

 すぐにわかりましたと言う人は、その指示さえ守ればいいと思っているの
で、自分の頭で考えようとしません。臨機応変の対応に弱く、応用がききません。そんな人は命がかかった戦場では使えないのです。隆景にとって、そのような部下は扱いに困る存在であったに違いありません。「わかったためしがない」とわざわざ言っているのは、周囲にそんな人物が多くいたからかもしれません。
 使い勝手の悪い部下を持って苦労しているのは何も隆景だけではありません。私たちも同様かもしれないのです。例えば知識として仏教を学んでいても、そこにこの私自身を通した実感がともなわないと、仏教は生きた教えになりません。これを確かめ続けることを聞法といいます。聞法に終わりはありません。一生続けなければならない大切なことです。「聞く」ことは「信じる」ことと別々のものではなく、一つのものだからです。
また聞法は、けっして私にとって役に立つ言葉をさがすことではありません。そうではなく、逆に自分の生活を常に照らし出してくださる言葉に出会うこと、つまり、言葉につかまれる体験だと思います。そしてそのように私の血肉となった言葉だけが、私の本当の学びとなっていくのだと思います。
ともすればその場だけのこととして、あるいは今度の授業で使ってやろうなど、仏教の言葉を自分の都合でしか聞いていない私です。蓮如上人はこのようなありかたを、「()(ぎょう)にきき」、「ただ、得手(えて)に法をきく」と厳しく戒めてくださいます。

(や)



2012年10月23日火曜日

しずかに急げ


今週の一週一言
                                 10月21日~10月27日
しずかに急げ
                    カエサル

カエサル・・・100年頃~前44 古代ローマ平民派出身の政治家。第1回三頭政治、ガリア遠征などで独裁権を得る。『ガリア戦記』などの著作でも知られる。ラテン語でガイウス=ユリウス=カエサル。英語ではジュリアス=シーザー。

【如是我聞】
 カエサルは何を急いでいたのでしょう。「しずかに急げ」の出典は明らかではありませんが、ルビコン川を渡る時に、部下に命じたことばかもしれません。
 私たちは毎日、様々なことに急かされて生活しています。しかし、忙しさを言い訳に、たくさんのことを先送りにしてしまっています。ひょっとしたら、どうでもいいようなことにまで急かされているのかもしれません。では、私たちが本当に急がなくてはならないこととは何でしょうか。
蓮如上人は「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。仏法の事は、いそげ、いそげ」とおっしゃったといいます。私には上人が「何をぐずぐずしているんだ!本当に大切なことに目覚める時は、今をおいてほかには無いんだぞ!」と厳しい顔つきで叱りとばしたあと、一転優しい笑顔で「いそげ。いそげ。」と私たちを励ましてくださっているように思えるのです。本当に大切なこと、そして私たちが本当に急がなくてはならないこと。その答えの一つが本山(東本願寺)の壁面に大書してあります。「生まれた意義と生きる喜びをみつけよう」と。私は本山の前を通るたび、「そうやったなぁ」と思うのですが、通り過ぎるころにはもう別のことに急かされています。いそげ、いそげ。
                       (文責:や)

2012年10月18日木曜日

失敗の最たるものは、何一つそれを自覚しないことである


今週の一週一言
                                  10月15日~10月21日

失敗の最たるものは、何一つそれを自覚しないことである
               トーマス・カーライル


Thomas Carlyle(1795-1881)・・・19世紀イギリスの歴史家・評論家。スコットランド出身。『英雄崇拝論』『フランス革命史』など。


【如是我聞】
 「先生教科書がありません」と生徒。よくよく話を聞くと家に忘れたということが言いたかったそうです。「それは教科書のせいにしたらアカンなー」と諭しながら、こんな譬え話を思い出していました。

人が茶碗を割ったら「あの人が割った」
自分が割ったら「茶碗が割れた」

 わたしも実際、ガッシャーンという音に驚き駆け付けた家族に「お皿割れちゃった」と何回言ったことか。偉そうに言いながらもとっさに「ごめんなさい」が言えないわたしです。知らずのうちに都合のいいものさしで物事をはかっている。ここでは測っているというよりも、くわだてるという意味では謀っているのかもしれません。
 あらゆる面で自分を中心に思う身勝手な心を「我執(がしゅう)」といいます。「自分が」という気持ちが強くなると、ますます「自分を良く見せたい」と思ってしまう。またこれは熱心に学ぶ人ほど深く執着し、傲慢になるというところが恐いところでもあるようです。いつでも初心に立ち返り、心の濁りを明らかにしていきたいものです。
(文責:さ)

2012年10月10日水曜日

生まれるのはやさしいが 人になるのは難しい



                             
10月8日~10月14日


生まれるのはやさしいが 人になるのは難しい
                 フィリピンの諺


【如是我聞】

 わたしは人間のはずなのに、人の間でうまく生きられない。わがままなくせに脆くてどうしようもない。
 普段は嘘と綺麗事で誤魔化して、悪口と二枚舌で強く見せているだけ。本当はものすごく人の目を気にする臆病者だ。そして人と比べて幸せをはかっては、何となくいつもイライラしている。事と次第では何をしでかすかわからない、まったく情けないわたしである。
 しかし、このままではいけないことも十分わかっている。きっとみんなそうだ。得意なこと、苦手なこと、好きな人、苦手な人・・・全てから逃げちゃいけない。わかっているが、それが凄く難しい。悩んだり笑ったり疲れてしまうこともあるけれど、それでも諦めずに長い時間をかけて。私たちは人の間で人になるのだろう。

 生まれた意味は?生きる意味は?いつまで問い続けるのかわからない。けれども今ここに一生懸命になっているわたしがいる。答えは近いはずだ。もしかすると、既に出ているのかもしれない。
(文責:さ)

2012年10月2日火曜日

あなたが他の人々に求める変化を自分で行いなさい


今週の一週一言
                                  10月1日~10月7日

Be the change you wish to see in other people.
あなたが他の人々に求める変化を自分で行いなさい
               マハトマ・ガンジー


Mahatma Gandhi(マハトマ・ガンジー)・・・1869年―1948年。インド独立の父。「非暴力、不服従」による平和を訴え続けた。政治思想家、人権活動家として、世界中に大きな影響を与えている。


【如是我聞】
 「自分と違う考えを持っている人がいたらどうしますか?」という質問に、「一応自分の考えを話して、それでも駄目なら諦めます。」と答えてくれた生徒がいました。わたしが「それは平和ですか?」と問いかけると、周囲もうんうんと頷きました。続けて「そこに愛はありますか?」と聞くと、みんなシーンと静かになってしまいました。
 個性を尊重することがどこかで間違った個人主義へと向かうこともあります。暴力や支配だけでなく、放っておくことも、そこに「わたしが正しい!」という考えがある限り、立派な自己中心的行為ではないでしょうか。
「愛は創造的肯定である」という考え方があります。愛は力とは異なり、その対象の中に入り込んで、それとまた新しいものを創り出します。そこにどちらが年上であるとか、そういったこと(力)は及びません。仏教を学ぶ私たちは常に同朋であるのです。
ガンジーは今も語り継がれる多くの名言を残しています。それらの言葉にはわたしたちが日頃つい忘れてしまう、けれども一番大切にしなければならない他を想う優しい気持ちが込められています。まずはわたしたちから開いていきましょう。「握り拳では握手できない」のですから。
                         (文責:さ)

2012年9月24日月曜日

0から1への距離は 1から1000への距離より大きい


今週の一週一言
                                  9月24~30日

0から1への距離は
1から1000への距離より大きい
ユダヤの格言
【如是我聞】
 私は昔から、何事につけても熱しにくく冷めにくい性格である。よく言うと慎重であり、大切だと思うことには粘り強い方だとも自負している。いや、それでは格好をつけ過ぎている。ただ、かかりが遅いだけであり、嫌なことは後回しにしているだけである。
しかし、興味がないことには全く心が騒がない。どれだけ世間がちやほやし、「えっ、知らないの?」等と真顔で言われても我関せずを貫くところがある。要は時代遅れに心地よさを感じる人間なのだ。
 iで始まる様々な機器にも未だ無縁である。AKBの前田さんと大島さんは何度見ても同じ人だ。そのくせ、今年に入って北方謙三にはまるや、『三国志』から『水滸伝』シリーズ約50巻を読み、続編を心待ちにしている。
 趣味の世界ならばそれでいい。特に誰にも大きな迷惑はかけないだろう。しかし、仕事となると。勉強となると、、。締切があるとなると、、、、。
 0が1になった時、流れるように、また、重なるようにそこに続く世界がある。それはすでに体感している。同時に、0を1にまで持っていくことがどれほど大変かも痛いほど経験している。1になるのを前に逃げたこともある。「あの時やっていれば」。でも、それは言うまい。
 
ある卒業生に教えられた。「しなければならないには二通りある。他人に言われるだけのことと、自分でそう思えたこと。前者は苦痛でしかない。後者も必ず苦痛は伴う。でも十分楽しめる。苦が単なる苦ではなく、自分を育てる大切な出会いになる。」と。
前者を()といい、後者を無碍(むげ)というのだろう。
「念仏者は無碍の一道なり」。親鸞聖人の言葉である。もうすぐ報恩講。
                            (文責:い)

2012年9月11日火曜日

師は、弟子にその準備が整った時にあらわれる


今週の一週一言
                            月10日~9月16日

師は、弟子にその準備が整った時にあらわれる
                                       チベットの格言
【如是我聞】
 チベットは中国の西南に位置する自治区です。南にそびえるヒマラヤ山脈を始め、高大な山々に囲まれた山脈地帯です。
 チベット仏教がその地に生きる人々の思想を支えていますが、その教えに基づく格言の多くが日本でも広く知られ、その一つが今週の言葉です。
 ここでいう「師」というのは、「私の大事な先生」と考えればいいと思うのですが、職業としての先生とか、立場として先生と呼ばれる人たちとかではなく、「今の私があるのはこの人と出会えたからだ」とか、「この人に出会えたことで私の生きる方向が定まった」とかいう、そういう人のことです。その人との出会いは、私にその準備が整った時に現われるというのです。
 準備が整うというのは、どういうことかというと、「今の私の課題・解決したい問題や置かれている状況がはっきりした」ということではないかと思うのです。答えやアドバイスや将来に関わる大事なヒントを与えてくれる人は、すでに私の周りにはいっぱいいるんですね。でも、私の問題・課題がはっきりしていないから、そのアドバイスとか教えというものが響いてこないのです。
 だから、ひょっとしたらもうすでに「師」は私の目の前にいて、その人とはしょっちゅう言葉を交わしているのかもしれないのですが、その人が「私の師」であるとは気付いていない、またはそうは思えない私がいるだけなのかもしれないんですね。
 そう考えると、「師」つまり「私の大事な人」に会えるかどうかは、私にかかっているんですね。私が、今の私にとって何が必要か、何を求めているのか、それがはっきりしたとき、きっと「あ~この人を求めていたんだ」という出会いが成り立つのかもしれません。
 親鸞聖人の「師」は法然上人ですが、決定的な出会いは親鸞さんが29歳の時だと伝えられます。しかし、親鸞さんは、もっと以前から法然さんのことを知っていたし、直接話したこともあったと言われています。「師との出会い」が成立するのに時が必要だったのでしょう。
 「この人に会えてよかった」と心から言える人生を歩みたいものです。でも、「その出会いは私にかかっている」と、この言葉は教えてくれています。(い)

2012年7月30日月曜日

WEBページでは「一週一言」を夏期休暇中ということで、2学期から再開の予定です。

また、現在、毎週木曜日21:00から KBS京都で放送中の「大谷発未来行」でもお聞きになれます。

よろしくお願いします。(本校ホームページでもお聞きになれます。)

2012年7月10日火曜日

7月9日~7月15日


7月9日~7月15日


なんでもやってみなはれや やらなわからしまへんで                                     鳥井信治郎

1879年生まれ サントリー創業者。「なんでもやってみなはれや」は口癖だったという。

【如是我聞】

釈尊は6年間の苦行をやめた。親鸞聖人も20年間の比叡山での修行をやめた。両者とも、放棄したのではなく、「あきらめた」のである。
仏教では「あきらめる」を「諦める」という。「諦」とは真理・道理ということで、「諦める」とは、「真理・道理を明らかにする」という意味になる。
ただ単に「あきらめた」のであれば、後からもっともらしい理由や説明をつけて、自分の立場を正当化しようとする。負け惜しみによる自己満足や、やせ我慢である。まるでイソップ童話に登場するブドウを取り損ねたキツネのように。私たちがあのキツネの気持ちをよく理解できるのは、大なり小なりそのような経験があるからであろう。
「諦めた」のなら納得した上でのこととなる。納得した上で断念したのなら、そこには負け惜しみはない。自己を正当化する必要もない。安心して次へ進むことができる。人間、「諦め」が肝心だ。
                     (や)

2012年7月2日月曜日

7月2日~7月8日



7月 2日~7月 8日



人が旅をするのは到着するためではなく旅をするためである               ゲーテ

ドイツの文豪。疾風怒濤(しっぷうどとう)運動の先頭に立つとともに、ヴァイマル公国の宰相に就任して政治家としても活躍。シラーと親しく、のちにはドイツ古典主義文学を大成。

【如是我聞】
「わたくしはこの歳になるまで、ただ急いで終点につくことばかりを考えていたらしい。目的を追い、結論にいたることだけに、じたばたしながら毎日を過してきたようである。一日一日に、花の香りは漂い流れているし、毎日毎日に、落花(らっか)の風情が興趣を深めている。そこに眼の及ぶこともなく、終点到着だけに心奪われていた、ということになる。さて、その終点でいったい何が待っているのであろうか。愚かなことである」。・・・「それにしても、今の子供たちはどうなるのであろう。幼稚園から大学まで、そして卒業してからも一生涯、山の彼方(かなた)に何かがあるように思うて、その日その日を手段化し、競馬のように鞭をあてられ、走っている。やがて終点が見えてきたとき走り疲れた人たちは、こんなことをつぶやいている。〈何もしないでジットしていたい、自分が忘れたい、できたら蒸発したい〉。こういう人間を作ることが、教育の名のもとに行われているような気がしてならない」。      (とう)花集(かしゅう)(昭和52年)

広小路(とおる)名誉校長の至言である。これ以上何を付け加える必要があろうか。                                                                                     (や)

2012年6月26日火曜日

6月25日~7月1日

前へ!これがすべての原点         北島忠治

1901~1996 元明治大学ラグビー部監督。「前へ」と言い続けた彼のこの言葉は、明治ラグビーの代名詞となる。

【如是我聞】

 キャッチコピーやスローガンといったものは、単純で短い方が分かりやすいが、単純だけにその解釈は人によって多様となる。ラグビー界においては、「前へ」とはトライに近づくために、少しでも相手の陣地奥深くに楕円形のボールを進めよということであろう。では本校にとって「前へ」とは?私は校訓にある、「不断に精進せよ」と解釈したい。
 私たちはやらなければならないことがあると思っていても、毎日の忙しさの中でついつい先送りにしてみたり、忘れてしまったりすることが実に多い。本当にやらなければならないことは分かっているのに、色々な言い訳が先行する。そんな私たちに校訓は教え諭す。「不断に(怠ることなく)精進(努力)せよ」と。
 精進の原義が「勇敢さ」・「勇者たること」であることを思えば、明治ラグビーの「前へ」に通じるものがありはしないか。勇気を持って、本当にやらなければならないことに向き合いたいものだ。                
(や)

2012年6月25日月曜日

6月18日~6月24日

始まりはすべて小さい
                     キケロ


キケロ・・・共和制ローマ期の政治家・文筆家・哲学者である。無名の家系出身でありながら、当時の共和制ローマ期に「古代ローマ最大の政治家」と言われるまで上りつめた。ギリシャ哲学をラテン語に翻訳してローマへ導入し、のちの西欧世界に大きな影響を及ぼした。著作は『国家について』『法律について』『善と悪の究極について』など。


【如是我聞】
 何かに取り組むとき、周囲からどう見られるかと不安になることがあります。周囲の目を気にしだすと我慢することが習慣化し、次第に何を我慢しているのかさえ分からなくなってしまいます。そうしていると、ついにはどこか我慢していることを喜んでいる自分さえいるような気持ちになってくるのです。
今、自分のためにできることは何でしょうか。私たちは「周囲からどう評価されるか」ではなく「どんな人になりたいのか」と常に自分自身に問うべきだと思います。自分のしたことを他人のせいにせず、自分で責任をとれるように。そしていい人だと認められるのではなく、自分が本当に喜べることを始めていくべきだと思います。
わたしがわたしらしく生き生きと生きるために、まずは安心して自分の足で一歩踏み出しましょう。       (文責 さ)

内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1...