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いつもいつもありがとうね なんでそれが言えないんだろう

一週一言 5月13日~5月19日                                   いつもいつもありがとうね なんでそれが言えないんだろう DISH// 「沈丁花」    DISH//  日本の 4 人組ダンスロックバンド。 2011 年結成。同じ事務所で俳優として活動していたメンバーが集められ、「今日から君たちはバンドだ」と言い渡される形で組んだのが始まり。 【如是我聞】  めったにないほど素晴らしい。  「ありがたし」は「有り難い」と書いて……と、定番の説明をする。古文単語でもかなり重要なので、聞き飽きたという人も多いはず。  さて、そうなると「いつもいつもありがとうね」は、ひょっとしたら矛盾を孕んだことばかもしれない。だから素直に言えなくなるのかな。 そもそも「いつも」「ありがとう」というべきはずの対象は、自分(「ありがとう」を言う側)にとってかなり身近な人だろう。それに対して「ありがとう」は感謝のことばであると同時に、もしかしたら、どことなく「よそよそしさ」を含む響きを持っているものなのかもしれない。いわば、この「ありがとうの有する距離感」が、簡単に言えなくさせている原因ではないだろうか。  たとえばお弁当。作ってもらえることは、もちろん「ありがたい」わけだが、なかなか「いつもいつもありがとう」と言えない。「ありがとう」よりはハードルが低い(ように思える)「お弁当おいしかった」も言えない。場合によっては、自分で洗いもしないお弁当箱を、ただ黙ってテーブルにでも置いておくだけということもあるかもしれない。いや、そもそもお弁当箱を持っていくのや持って帰るのを忘れた、なんてことも……。  そのほか、洗面所のタオルを替えてもらった、コーヒーを淹れてもらった、点在するゴミ箱からゴミを回収してもらった、濡れた傘を干しておいてもらったなど、あらゆるありがとうの可能性を消してしまっているのではないだろうか。  なるほど「よそよそしさ」を感じるから「ありがとう」が言いにくいというのはあるだろう。しかし、本来なら身近な人こそもっとも感謝の気持ちを伝えていくことが大切である。『沈丁花』も後半ではこう歌っている。  いつもいつもありがとうね 今日はそれが言えな

その人を憶いてわれは生き、その人を忘れてわれは迷う

今週の一週一言 5 月 8 日 〜 5 月 14 日 その人を憶いてわれは生き、その人を忘れてわれは迷う 金子大榮 金子 大榮( 1881 ~ 1976 年)  新潟県高田出身の真宗大谷派の僧侶。真宗京都中学(現、本校)を卒業後、真宗大学(現、大谷大学)に入学。 1917 年、大谷大学教授に着任するも、 1928 年には辞任。 1915 年には、清澤満之が創刊した『精神界』の編集責任者を務めた。 【如是我聞】  その人とは「親鸞聖人」である。「憶う(おもう)」を辞書で調べると、心に留めて忘れないとあった。「思う」や「想う」とは違う「憶う」。 その人と言われて私がおもいうかべたのは「父」である。父が亡くなってもう 20 年が経った。父は 55 歳で、ある日突然、心不全で亡くなった。セントレア空港島内の橋をかける仕事をしていた。 9 月のお彼岸、残暑が厳しく、開港にむけて、急ピッチで仕事をしていたときである。父が亡くなって、単身赴任先の一人暮らしの部屋を片付けていた時、どこかでもらったであろううちわに父の丸字が書いてあった「人生には3つの坂がある 上り坂 下り坂 まさか」 父は 50 歳を目前に、高校卒業以来 30 年以上務めた会社を退職した。転職をして、単身赴任になり、そこへ遊びに行ったとき、夜、兄や母が先に寝て、眠れずにいた私に、ふと父が話し出した。「(前職で管理職になり、仕事を監督する側になったとき、)自分の持っている技術を生かしたいと思った。(だから、転職した)」と。 父が亡くなって、お経をあげに来てくださった住職が「生きているときはそばにいないと会った気がしないけれど、大切な人がなくなると、ずっとそばにいてくれる感じがしませんか」と話してくださった。転職以来、父はずっと単身赴任で、たまに帰ってくるという感じだったが、亡くなってからはずっとそばにいる。確かに、そう感じていた。父に会ったことがないわが子たちは「じぃじは、お母さんの肩にずっといるんでしょ」と話す。  仕事でうまくいかないことがあるとき、いつも父に語り掛ける。大谷で働き始める前に亡くなった父に、仕事のことをきくことはできなかった。私が幼いころから仕事人間で、平日は朝早くから夜遅くまで、休日ももちろん出勤。たまに休みがある