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その人を憶いてわれは生き、その人を忘れてわれは迷う

今週の一週一言

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その人を憶いてわれは生き、その人を忘れてわれは迷う

金子大榮

金子 大榮(18811976年)

 新潟県高田出身の真宗大谷派の僧侶。真宗京都中学(現、本校)を卒業後、真宗大学(現、大谷大学)に入学。1917年、大谷大学教授に着任するも、1928年には辞任。1915年には、清澤満之が創刊した『精神界』の編集責任者を務めた。

【如是我聞】

 その人とは「親鸞聖人」である。「憶う(おもう)」を辞書で調べると、心に留めて忘れないとあった。「思う」や「想う」とは違う「憶う」。

その人と言われて私がおもいうかべたのは「父」である。父が亡くなってもう20年が経った。父は55歳で、ある日突然、心不全で亡くなった。セントレア空港島内の橋をかける仕事をしていた。9月のお彼岸、残暑が厳しく、開港にむけて、急ピッチで仕事をしていたときである。父が亡くなって、単身赴任先の一人暮らしの部屋を片付けていた時、どこかでもらったであろううちわに父の丸字が書いてあった「人生には3つの坂がある 上り坂 下り坂 まさか」

父は50歳を目前に、高校卒業以来30年以上務めた会社を退職した。転職をして、単身赴任になり、そこへ遊びに行ったとき、夜、兄や母が先に寝て、眠れずにいた私に、ふと父が話し出した。「(前職で管理職になり、仕事を監督する側になったとき、)自分の持っている技術を生かしたいと思った。(だから、転職した)」と。

父が亡くなって、お経をあげに来てくださった住職が「生きているときはそばにいないと会った気がしないけれど、大切な人がなくなると、ずっとそばにいてくれる感じがしませんか」と話してくださった。転職以来、父はずっと単身赴任で、たまに帰ってくるという感じだったが、亡くなってからはずっとそばにいる。確かに、そう感じていた。父に会ったことがないわが子たちは「じぃじは、お母さんの肩にずっといるんでしょ」と話す。

 仕事でうまくいかないことがあるとき、いつも父に語り掛ける。大谷で働き始める前に亡くなった父に、仕事のことをきくことはできなかった。私が幼いころから仕事人間で、平日は朝早くから夜遅くまで、休日ももちろん出勤。たまに休みがあると、リビングで寝ていた父。

お父さん。肩にいる父に話しかける。父からの返答はない。

転職してからの父は生き生きしていた。楽しそうだった。ワクワクしていた。

10年ほど前、福井に住む父の友人が我が家を訪れてくれたことがあった。定年退職し、旧友たちに会うために、全国を回っているとのことだった。その友人が生まれたばかりの私の息子に会ったとき「田窪さん(父)のDNAの最先端ですね」という言葉を残していってくれた。そう、父は私の中にも生きており、わが子の中にも生きている。

 私も父のように、ワクワクしながら仕事をしている。変なところが似てしまったと思っている。でも、数学を通じて子どもたちと接しているとわくわくする。わが子を忘れて、仕事に没頭してしまうことがある。現に一度、こども園にわが子を迎えに行くのを忘れたことがあった(夫が迎えに行ってくれていたが)。ただ、決めていることがある。私は父のように「まさか」にならないよう、定時で退勤を目指している。それが父からの最大の教えであると思っている。父は生前「男人生2万日 あとは余生」とよく言っていた。余生はソーラーボートで航海し、その後は母とキャンピングカーで全国一周する予定だった。父のいう余生を、父は橋をかけるという新たなチャレンジをしていたのだから、きっと楽しくて仕方なかったに違いないとも思う。

私もわくわくした毎日を過ごさせてもらっていることに心から感謝している。そして、父のように「自分の技術」といえるほどに、教育の技術を磨いていきたい。

(数学科 田窪)





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