今週の一週一言 9月7日~9月13日 ひとを踏みにじって苦しめるのがいじめ 人を苦しめていることに気付かず、苦しんでさけんでいるこえを聞こうとしないのがいじめ 重松 清『青い鳥』 重松 清 1963年~。小説家。『ビタミンF』で直木賞受賞。『ナイフ』、『エイジ』等の有名作品多数。 |
【如是我聞】
“with コロナ”が日常となり半年が過ぎました。
当たり前が崩されて、居心地のよい日々が奪われて。ストレスを飲み込んでは、胃の痛みに耐えて。
ひたすら我慢するか、我慢できずに今まで通りにすがりついては、得体のしれない虚無感を覚えつつ。
隠れてはこっそりと「テヘぺロ」と舌を出したり。
実は相当凹んでいる自分をごまかして、「全然平気」と強がったり。誰にともなく。
または、「本当はそんなにたいしたことじゃないんじゃないの?」などと根拠なく平静を装ったり。
この胸の内の感覚は、何かに似ている。いつかどこかで味わった感覚。その再来。
その正体に気づくのに時間がかかりました。いじめに会った初期段階の心模様でした。
思えば3月以降、いかにコロナに感染しないかということに皆が夢中になっていました。国や自治体が出す「これが正しい」という方針に従い、新しい生活様式」という言葉に、神秘的な響きと若干の安堵感を覚えてもいました。でもそれはいつの間にか「こうすればいじめに会わない」という机上の論理とよく似た感覚を与え出しました。もちろん、感染を予防することは大事です。医療崩壊を防ぐ意味でも。しかし、「もっと大事なことがあるだろ!!」と、具現化できない引っ掛かりを感じてもいました。その実態がやっと見えてきました。
家族が感染した時の対応についても少しは考えました。でも、友人やご近所が感染した時、どういう言葉をかければいいのかを考える前に、その人といつどのくらいの濃厚接触をしたかをフルチェックしてしまう、そんな自分が、自分さえ良ければという自分が育っていました。育てたのは自分ですけど。
自分自身が感染した時、どうするかはあまり考えませんでした。それは、自分がいつか必ずいのち終えるにもかかわらず、それを非現実的なこととして意識を向けない普段の生き方と変わりませんでした。
いじめはよくない、決してやってはいけない。そんなことみんな知っています。でも、喜怒哀楽を全て経験したはずの大人が、知性と理性を兼ね備えたはずの紳士淑女が、「そんなつもりはなかった」という言い訳しか発せられないいじめをしてしまいます。いじめは学校だけの問題ではありません。孤独を共有するはずの老人ホームでも起こります。それが人間の本質(=nature)です。悲しむべき私の姿です。
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし <by親鸞>
(時と場合によってはどんなに悲惨で横暴でむごたらしいことでもしてしまうこの私)
「いじめなど私には関係のないことです」などと思っていたら、それはたまたま縁が整っていないだけです。
「私はいじめをするし、いじめにも会う」。そこにしっかりと立った学びをしてこなかった私。それは、「確実にコロナに感染する私として、このご時世をきちんと生きること」と、「私はコロナに感染した隣人とどう接するかをきちんと自問自答しておくこと」をないがしろにしている自分のことです。
自己がわからない人は他人を責める。自己がわかった人は他人を痛む。 <安田理深>
自分は時と場合によっては、人を傷つけてしまう人間であるということがわかっていないと、平気でいじめをしてしまいます。それがわかっていても、縁さえ整えばやってしまうのがいじめです。この私のことです。
ただ、それがわかっていれば、「あなたがやったことはいじめだよ」と指摘されても、「そんなつもりはなかった」で乗り切ろうとする私ではなく、そんな自分の行いを、やっと恥ずかしく思えるのかもしれません。そこに学べるのかもしれません。申し訳ないという思いが素直に出てきて、それが相手に通じるのかもしれません。
たとえ、いじめに会ったとしても、それを乗り越えて、または、それが故に、自分が自分であることを喜んで生きる、そんなすてきな人生が待っているのかもしれません。
私はそう思うのです。
(宗教・英語科 乾 文雄)
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