スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

人間は相手が自分にとって何者か分からないから 友情も恋も愛も面白いんだよ

今週の一週一言                               10 月19日~25日 人間は相手が自分にとって何者か分からないから 友情も恋も愛も面白いんだよ                    『君の膵臓を食べたい』(住野よる) 住野 よる(すみの よる)  小説家。高校時代より執筆活動を開始。2014年、小説投稿サイトに『君の膵臓を食べたい』を投稿し、大きな話題となった。ペンネームの由来については、「教室のすみっこにいるような子の夜に創造性があるはずだという意味」と語っている。 【如是我聞】 ちょうど 1 年ほど前だろうか、食堂でお昼を食べていたところ、ふと「一週一言」が話題になった。「今回の○○先生のコメント、面白かったですよ」「そうそう、私も読みました」などと盛り上がっていたとき、ある先生から新たな「一週一言」の楽しみ方を教えて頂いた。 それは、内容を読みながら誰が書いたかを予測していくというスタイル。書いた人の名前が文章の最後に記されているので、読み終わったときに正解が明かされる。「案外当たりますよ」とその先生は楽しそうにおっしゃっていた。 それをお聞きし、私は「目から鱗」の思いだった。それまでの私は、真逆の読み方、つまり、書いた先生をまず確認してから、本文を読んでいたのだった。 「一週一言」の愛読者の一人として痛恨の極み。内容を楽しむだけでなく、作者を当てるというワクワク感まで味わえるなんて、2倍「おいしい」ではないか!というわけで、それ以来、必ずこの「作者当てスタイル」を実行している。(よろしければ、皆さんもぜひお試し下さい。) ちなみに最近の正答状況を記すと、1段落だけ読んで、答えを見事的中させたのが、チェーホフの言葉に触れた国語科のO先生の文章である。ご自分の体験をユーモラスに語りながら、しかも奥深い。O先生のお人柄そのままの内容だったので、すぐにピンときたのだ。 逆に、最後まで全く分からなかったのが、社会科のM先生だった。世阿弥の言葉について書かれていたが、「初心を忘れたくない」という誠実で真っ直ぐな姿勢が印象的だった。 O先生は、同じ教科、同じ校務分掌というアドバンテージがあることもあり、正解は当然といえば当然かもしれない。ただ、

同じ川に二度はいることはできない

今週の一週一言 10月12日~18日 同じ川に二度はいることはできない ヘラクレイトス ヘラクレイトス( B.C.540-480 )・・・古代ギリシアの哲学者。エフェソス出身。孤高の生涯を送り、「泣く哲学者」「暗い人」と称される。倫理の教科書的には「万物の根源(アルケー)は火である」「万物は流転する(パンタレイ)」という主張で有名。 【 如是我聞 】  むかしから川をみるのが好きでした。  ぼくの地元の石川県では、 霊峰 ( れいほう )   白山 ( はくさん ) から 手取 ( てどり ) 川 ( がわ ) や 梯 ( かけはし ) 川が流れ出ています。冬のあいだに降り積もった雪が、春になると 清冽 ( せいれつ ) な流れとなるのです。ぼくは中学生のころ、ときどき自転車を日本海までひとり走らせて、これらの川が日本海に流れ出る様子をながめに出かけたものです。日本海はこれらの川の流れを黒々と 呑 ( の ) み込んでいきました。  大学生のときは、京都の 賀茂 ( かも ) 川 ( がわ ) のほとりに下宿していたのですが、よく家から仲間とテーブルやら料理やらを持ち出して、ピクニックをしていました。気の置けない仲間との楽しいおしゃべり。それに飽きたらバドミントンやジャグリングをしたり。そしてまた日が暮れるまでお話を続ける・・・。よくもまあそんなに話すことがあったものだと今さらながら思うのですが、これもまた大学時代の良き思い出の一つです。  ほかには東南アジアを1カ月ほど旅したときに、ラオスという国でメコン川をスローボートで 遡上 ( そじょう ) するという経験をしました。古都ルアンパバーンを早朝に出発して、小さなボートで延々と大河を 遡 ( さかのぼ ) っていきます。ボートには乗客と、ついでに食料品やビールなどの商品が積み込まれています。川のほとりには地元の子どもたちが水遊びをしていたり、あるいは母親たちが洗濯している様子です。こちらが手を振ると、向こうも手を振ってくれました。そして・・・延々と小舟に乗ることおよそ10時間くらい経ったでしょうか、ちょうど夕陽が沈むころにメコン川上流の小さな村に辿りつきました。発電機で電気を起こしているような、そんな小さな村です。とりあえずメコン川のほとりに

初心忘るべからず

今週の一週一言                                    10 月5日~10月11日 初心忘るべからず 世阿弥「花鏡」   世阿弥…父である観阿弥とともに、能の大成者として知られる。 【如是我聞】 本校東側に「新熊野神社」がある。我々になじみ深いこの神社は創建のおり、後白河法皇が紀州にあった楠をご神木として境内に移植したと伝えられ、現在樹齢 900 年といわれる神木が祀られている。時は 1374 年、この新熊野神社で行われた猿楽能に室町幕府 3 代将軍足利義満が訪れ、その境内で舞う子の姿に目を奪われた。それが世阿弥である。当時 12 歳であった世阿弥はこれ以後、義満の援助を受け、猿楽能の芸術性を高めていく。 この話を聞いて、私は世阿弥に興味を持った。自分にゆかりがある人のように感じ、ファンになった。冒頭の「初心忘るべからず」は誰でも知っている言葉だと思う。この言葉が世阿弥の言葉だと知り、自分の座右の銘にしようと思った。「はじめの志を忘れてはならない」「初志を貫徹する」という意味で一般に使われているこの言葉は、調べてみるとそれだけではないことがわかった。彼の能芸論書『花鏡』の最後の段「奧段」には芸の奥義として以下のように記されている。   しかれば、当流に、万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。 この句、三箇条の口伝あり。 是非の初心忘るべからず。 時々の初心忘るべからず。 老後の初心忘るべからず。   世阿弥がいう「初心」とは、最初の志に限らず、人生の中にいくつもの「初心」があるという。「是非の初心忘るべからず」とは、若いときの失敗や、未経験による苦労によって身につけた芸(経験)は決して忘れてはならず、それが後々の成功の糧になるということ。「時々の初心忘るべからず」とは、歳と経験を重ねていく過程で会得した芸を「時々の初心」といい、青年期、壮年期、老齢期に至るまで、その時々に合った演じ方を常に初心の心で身につけ成長していくことが大切であるということ。「老後の初心忘るべからず」とは、老齢期には老齢期でなければわからない試練や葛藤があり、その芸風を新たに身につけることを「老後の初心」という。歳をとったから、経験があるから完成されたというこ

怨みは怨みによって鎮まらない。 怨みを忘れて、初めて怨みは鎮まる。

今週の一週一言                              9 月28日~10月4日   怨みは怨みによって鎮まらない。 怨みを忘れて、初めて怨みは鎮まる。 『法句経』 『法句経』・・・原始仏教の経典の 1 つ。詩集。 【如是我聞】   「怨み」によって生まれた悲劇は世界中で数え切れないほど起こっているが、私にとってこういった社会に影響を与える人間の行動心理というものはとても興味深い。最近私が最も深く考えたことといえば 2020 年 5 月にアメリカで起こった George Floyd さんの死とそれをきっかけに白熱した Black Lives Matter の運動だと思う。白人警察官が、黒人である George さんに対して不適切な拘束を行ったことにより窒息死してしまうという出来事が、ここ日本では考えられないような影響をアメリカ国内だけでなく世界中に与えた。 最も印象に残っているのは George さんの6歳の娘とその母親が行った会見である。母親が涙ながらに「彼の命を奪った人たちは家に帰って家族に会うことができる。けれど George は二度と娘が成長するのを見ることはできない。この先娘は困難に直面したとき、彼女は父親に相談できない。これが、彼らが奪ったものです。」と語る姿は、子供がいない私でさえも心に強く訴えかけられ泣いてしまった。  この一連の運動に関して色んな情報をかき集めたのだが、様々な立場の考え方があって結局何が正解か私にはわからなかった。この運動自体の怪しさも囁かれていたり、そもそもなぜ黒人だけなのかという疑問があったり(黒人だけじゃなくて全人種の命が大切だろ!と主張する人もいる)、日本にも差別があるのに『私達には関係ない』と思っている日本人がたくさんいるって怒っている人がいたり。そもそもメディアの放送や SNS の情報なんて偏っているし真偽もわからないから本当のところはどうなんだろうと思いつつ、色々見て思ったことがある。  怒りに任せてか、デモに乗じてか、暴徒化し破壊行為や略奪行為を行う者もいた。そんな彼らに対して George さんの弟が「何をしているんだ!私でさえ暴れていないのに。そんなことをしても兄は帰ってこない。私達がしなければいけないのは投票だ

ひとを踏みにじって苦しめるのがいじめ 人を苦しめていることに気付かず、苦しんでさけんでいるこえを聞こうとしないのがいじめ

今週の一週一言                              9 月7日~9月13日 ひとを踏みにじって苦しめるのがいじめ 人を苦しめていることに気付かず、苦しんでさけんでいるこえを聞こうとしないのがいじめ 重松 清『青い鳥』 重松 清   1963 年~。小説家。『ビタミン F 』で直木賞受賞。『ナイフ』、『エイジ』等の有名作品多数。 【如是我聞】  “ with コロナ”が日常となり半年が過ぎました。 当たり前が崩されて、居心地のよい日々が奪われて。ストレスを飲み込んでは、胃の痛みに耐えて。 ひたすら我慢するか、我慢できずに今まで通りにすがりついては、得体のしれない虚無感を覚えつつ。 隠れてはこっそりと「テヘぺロ」と舌を出したり。 実は相当凹んでいる自分をごまかして、「全然平気」と強がったり。誰にともなく。 または、「本当はそんなにたいしたことじゃないんじゃないの?」などと根拠なく平静を装ったり。 この胸の内の感覚は、何かに似ている。いつかどこかで味わった感覚。その再来。 その正体に気づくのに時間がかかりました。いじめに会った初期段階の心模様でした。 思えば 3 月以降、いかにコロナに感染しないかということに皆が夢中になっていました。国や自治体が出す「これが正しい」という方針に従い、新しい生活様式」という言葉に、神秘的な響きと若干の安堵感を覚えてもいました。でもそれはいつの間にか「こうすればいじめに会わない」という机上の論理とよく似た感覚を与え出しました。もちろん、感染を予防することは大事です。医療崩壊を防ぐ意味でも。しかし、「もっと大事なことがあるだろ !! 」と、具現化できない引っ掛かりを感じてもいました。その実態がやっと見えてきました。 家族が感染した時の対応についても少しは考えました。でも、友人やご近所が感染した時、どういう言葉をかければいいのかを考える前に、その人といつどのくらいの濃厚接触をしたかをフルチェックしてしまう、そんな自分が、自分さえ良ければという自分が育っていました。育てたのは自分ですけど。 自分自身が感染した時、どうするかはあまり考えませんでした。それは、自分がいつか必ずいのち終えるにもかかわらず、それを非現実的なこ

愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。

今週の一週一言                              9 月7日~9月13日   愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。 アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ   アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ    1860 ~ 1904 。ロシアの劇作家、小説家。四大戯曲で有名だが、僕が知っているのは短編小説のみ。市井の人々をユーモラスに描いているだけなのに、実に読ませる。名言も「自明だがチェーホフが言うから深い」という感じがする(例「結婚生活で一番大切なのは忍耐である」)。なおこの名言はロシアの諺で、彼の作中の語ではないそうな。 【如是我聞】   教員になった理由はいろいろあるが、心の底に「知識をひけらかしたい」という情動があったのを否定できない。小さい頃、僕は周囲にムダ知識を披露しては悦に入るイヤなガキンチョであった。それなら大人相手にも語れる“知の巨人 ” にでもなれば良かったのだが、そうなれずに教職に就いて生徒にエラそうにしているとすれば、「将来の夢はガキ大将。子どものときは無理だから大人になってからなる!」と宣言してお父さんを嘆かせた、『ドラえもん』ののび太のようでもある。   ところで、教員は文字通り「教える者」なわけだが、その中にも「教えるだけの者」と「ともに自らも学ぶ者」がいる。最近その違いを感じたのは、Eテレで観た、国語学者の金田一秀穂とアメリカ人コメディアン、厚切りジェイソンの対談だ(以下、曖昧な記憶で書いてます)。「若者の『~っす』は謙譲語だね~」などと嬉々として語る金田一先生に、ジェイソン氏が「“言葉の乱れ”って怒ってる人いますけど、先生は言われて腹立たないんスかあ?」と訊ねたところ、先生はこう答える。   「ううん、面白い、楽しい、最高」   ―― むろん金田一先生もゼミ生には社会常識として言葉遣いを指導していることと思うが、同時にその変化を楽しみ、新たな知見を得てもいる。物事を自らの物差しで裁断し、その正しさを疑わない者との差がここにある。別に国語学に限らない。一昔前のジュブナイル向けSFマンガには、超常現象を目の当たりにしたときに「こんなのは科学的じゃない。ありえない」と“現実 ” を拒絶する理科の先生がよく出てきたが、これは自らの知

君、時というものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものなのだよ

今週の一週一言                                   8 月 31 日~ 9 月 6:/ 日 君、時というものは、それぞれの人間によって、    それぞれの速さで走るものなのだよ                      ウィリアム・シェイクスピア William Shakespeare ( 1564 年 4 月 26 日 -1616 年 4 月 23 日)  イングランドの劇作家,詩人。イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物である。特に,「ソネット集」は最高の詩編のひとつとされている。 【如是我聞】   1 時間は 60 分, 1 日は 24 時間,これは赤ちゃんから大人まで万人に共通な長さとして決まっている。そもそも時間の長さはどのように決められたのか? と疑問に思って調べてみた。すると, 1 秒の長さは,赤道上を動く架空の太陽に対して,地球が自転する時間を, 24 時間× 60 分× 60 秒すなわち, 86,400 秒で割った長さに決められたそうだ。よくよく考えてみると,われわれは時間によって縛られていると思う。もし時間という概念がなければ, 1 講時が 50 分であるとか,子供に「ゲームできる時間は 1 日 1 時間」であるとか, 1 日に 8 時間仕事をしなければならないとか,時間におわれるような生活はないだろう。しかし,時間という概念が存在し,ある程度それに縛られているからこそ,「~までに~をしなければならない」とか,「この時間までは~をする」とかという考え方が生まれてくる。そのおかげで,人類は発展してきたと言っても過言ではない。時間があるからこそ,人間は計画を立てられたり,切羽詰って力を発揮することができたりするのだろう。もし,時間という縛りもなければ,好きなときに好きなことをしたり,やらなければならないこともなかなかできなかったりするのだろうと思う。  さて,そのようなことを考えていると,私は今年の 5 月 22 日で, 376,920 時間生きてきたことになる。先にも述べたが, 1 秒の長さは万人に共通であるが,時間の長さの感覚はその時々によって違ってきた。これまでを振り返ると,最もゆっくりと時が流れたと感じるのは,小学校 6 年間である。中

人は毎日髪を整えるが、どうして心は整えないのか

今週の一週一言                                     8 月 24 日~ 8 月 30 日 人は毎日髪を整えるが、 どうして心は整えないのか チェ・ゲバラ チェ・ゲバラ( 1928-1967 )  本名はエルネスト・ゲバラ。アルゼンチン生まれでキューバ革命の指導者。「チェ」とは、スペイン語で「ねぇ」や「やぁ」などの呼びかけにあたる言葉に由来するあだ名。 【如是我聞】 チェ・ゲバラといえば、キューバ革命の英雄で、長髪のぼさぼさ頭に髭と葉巻。ワイルドでかっこいい男のイメージしかない。それが、あの優等生ヴィジュアルのサッカー日本代表キャプテン長谷部誠と同じようなことを言っていたなんて!…いやでも、オダギリジョー主演の「エルネスト もう一人のゲバラ」という映画のなかで、ゲバラはもの静かなインテリといった雰囲気だった。あの風貌は、心を整えているから髪を整える必要がなかっただけなのか…。 なんとなく裏切られたような気分になるのは、私が、外見のイメージに引っ張られて、中身も決めてしまう凡人だからなのです。だから、毎日心ではなく髪を整えてしまうのです。心を整えても人から見えないので、せめて見た目だけでも人からよく見られようと思ってしまうのです。すみません、ゲバラさん。 一昔前、「服装の乱れは心の乱れ」なんていう先生が当たり前にいました。たしかにそういう面もあります。ただ、そんなに単純ではない場合もあります。でも、見た目と内面がリンクしていると考えるほうがわかりやすい。誰かにそう思われたい自分になるために、髪を整え、服を選ぶ。そうしているうちに、そう思われたい自分が手に入るならそれでいいじゃないですか。髪を整えたら、心も整う、そういうこともありますよね、ゲバラさん。 私はあるとき、白髪を染めている自分は本当の自分の姿を知らないんだという当たり前のことに気づいて、髪を染めるのをやめました。すると、私の内面は変わっていないのに、「そんな大きな子どもさんがいるようには見えませんね」「いつも元気ですね」だった周囲の反応が、「老けたね」はもちろん、「お孫さんは何人?」に変わりました。そして、そのことに少なからずショックを受けた自分にショックを受けました。見た目と内面を結び付ける

仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま

今週の一週一言            3 月9日~4月5日 仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま 帰雲真智  帰雲真智 ( かえりくも まさと ) ・・・真宗大谷派高山二組、還來寺住職。 【如是我聞】 この言葉を見たときに連想した言葉があります。皆さんはどうでしょうか?何か思い浮かぶ言葉があるでしょうか。私が思い浮かべたのは「アナと雪の女王(原題: Frozen )」の「ありの~ままの~♪姿見せるのよ~♫」というフレーズでした。歌は「ありのままの自分」を肯定していくものだったと思います。この歌が流行っていたとき私はこう思っていました。「ありのままの姿など見せられるわけがない!」と。それは私が内面的に欲深く、不遜で謙虚さに欠け、とても自己中心的だからです。それぞれの例を挙げればきりがありません。大人になったらこうなったというより、もともとこうだったように思います。ありがたいことにいろいろな人たちから教えられて、欲を満たすのはそこそこに、他者に対しては敬意をもって、わがままを慎むことを学ばせてもらいました。それでも抑えきれず(隠しきれず?)本性が出ています。 私が基本的にこうしているというものの一つが「精進」です。本来が本来の人間ですから、「ありのまま」でいいはずがなく、少しでもよい道に近づいていきたい、歩んでいきたいと思っています。意志の力による精進よりも、普段から自然に無理なくやっているような精進です。それは意志の力が弱いからなのですが、「基本的に精進をする人間」であれば意志の力に頼ることは少なくなります。 そこで「仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま」です。この言葉を見て私は「いや、そのままではダメなんじゃないですか?」と思います。むしろブッダの最期の言葉、「怠ることなく精進しなさい」のほうに親近感があります。「私の願い」も私にとって「願い」とは「仏・菩薩が 発 ( おこ ) したもの= 発願 ( ほつがん ) 」と、これまでの学びの中で思っていますからしっくりきません。もっと単純に「私はわがまま」なら、そうだなと思います。 ところで、「願」というテーマで以前生徒がこんな短歌を作りました。  鈴ならし手をたたき神様を呼ぶお辞儀をしたら願いを話す

善人の家に争いごと絶えず、悪人の家に争いごとなし

今週の一週一言                                   11 月18日~11月24日   善人の家に争いごと絶えず、悪人の家に争いごとなし                   道元禅師   道元… 1200-1253 。鎌倉時代初期の禅僧で曹洞宗の開祖。24歳から宋(中国)で5年間坐禅修行に励み、帰国後『普勧坐禅儀』・『正法眼蔵』の最初の巻を著した。京都の深草に興聖寺を開き、本格的な坐禅堂を建立した。 【如是我聞】  京都はまわりを山で囲まれており、様々な坂がありますが、上り坂と下り坂ではどちらが多いでしょう。答えは「同じ」ですね。坂の数だけ上りも下りもあります。では次の問いはどうでしょう。  私は、私があなたにしてもらったことを挙げます。あなたは、あなたが私にしてくれたことを挙げてください。どちらが多くなるでしょう。  こちらも答えは「同じ」になる、はずです。しかし、現実はそうはいきません。門外漢ですが心理学の話を受け売りでいえば、人間はたいていの場合「して『もらった』こと」よりも「して『あげた』こと」のほうをよく憶えているのです。したがって、さきほどの問いは後者の方が多くなります。そしてまた、自分のしたことを相手が忘れてしまったとき、それを「損した」と感じる人は、過度のストレスをためやすいともいわれます。根底にあるのは「損得」や「善悪」といった「白か黒か」の発想でしょうか。  「私は『普通のこと』を言っているだけなのに、なぜ分からないのか」「ただ『当たり前のこと』をしたらいいだけでしょ」「なんでそれを私がしないといけないのですか。私は自分のことはやっているでしょ」などなど。善行を積む人は、その正しさゆえにその正当性を強く主張してきます。もしこれが、机上の世界であれば「解き方が違っていても、それぞれが正しければ同じ答えに行きつく」ということになるでしょうが、現実の世界はうまくいきません。それぞれの正論を言いあって、平行線をたどることはよくあります。一歩、いや半歩譲って「相手の言うことも正しい」と感じても、こちらの主張を譲ることはしません。争いはなかなかなくなりません。  するとまたある人がいいます。争いごとをなくす方法だって。そんなのは簡単。人に迷惑をかけず、人を傷つけ