スキップしてメイン コンテンツに移動

善人の家に争いごと絶えず、悪人の家に争いごとなし

今週の一週一言
                                  11月18日~11月24日
 善人の家に争いごと絶えず、悪人の家に争いごとなし
                 道元禅師  
道元…1200-1253。鎌倉時代初期の禅僧で曹洞宗の開祖。24歳から宋(中国)で5年間坐禅修行に励み、帰国後『普勧坐禅儀』・『正法眼蔵』の最初の巻を著した。京都の深草に興聖寺を開き、本格的な坐禅堂を建立した。
【如是我聞】
 京都はまわりを山で囲まれており、様々な坂がありますが、上り坂と下り坂ではどちらが多いでしょう。答えは「同じ」ですね。坂の数だけ上りも下りもあります。では次の問いはどうでしょう。
 私は、私があなたにしてもらったことを挙げます。あなたは、あなたが私にしてくれたことを挙げてください。どちらが多くなるでしょう。
 こちらも答えは「同じ」になる、はずです。しかし、現実はそうはいきません。門外漢ですが心理学の話を受け売りでいえば、人間はたいていの場合「して『もらった』こと」よりも「して『あげた』こと」のほうをよく憶えているのです。したがって、さきほどの問いは後者の方が多くなります。そしてまた、自分のしたことを相手が忘れてしまったとき、それを「損した」と感じる人は、過度のストレスをためやすいともいわれます。根底にあるのは「損得」や「善悪」といった「白か黒か」の発想でしょうか。
 「私は『普通のこと』を言っているだけなのに、なぜ分からないのか」「ただ『当たり前のこと』をしたらいいだけでしょ」「なんでそれを私がしないといけないのですか。私は自分のことはやっているでしょ」などなど。善行を積む人は、その正しさゆえにその正当性を強く主張してきます。もしこれが、机上の世界であれば「解き方が違っていても、それぞれが正しければ同じ答えに行きつく」ということになるでしょうが、現実の世界はうまくいきません。それぞれの正論を言いあって、平行線をたどることはよくあります。一歩、いや半歩譲って「相手の言うことも正しい」と感じても、こちらの主張を譲ることはしません。争いはなかなかなくなりません。
 するとまたある人がいいます。争いごとをなくす方法だって。そんなのは簡単。人に迷惑をかけず、人を傷つけることをしなければいいだけだよ。
 この人も善人です。「迷惑をかけてしまう自分」「人を傷つけてしまう自分」がいるという悪人なら、そうはいいません。「そういうこともあるよね」と寄りそってくれます。そう考えるとたしかに、悪人の家には争いごとは起こりませんね。
 そこに悪人がいれば大丈夫。
そういうわたしはいつもゼンニン。 みつを ではなく、こしお。

    (国語科 小塩)




>>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

このブログの人気の投稿

子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」 易経

今週の一週一言 9 月 23日~9月29 日 子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」 易経…古代中国の書物。儒教の基本書籍の筆頭に挙げられる経典である。 【如是我聞】 悔いの多い生涯を送ってきました。なんてことを言えば周りから「おおげさな」「まだ若いのに」といった声が聞こえてきそうだ。しかし今振り返ってみても自分の生涯にはなかなかの数の後悔があるように思う。 私は物事をじっくり考えて慎重に事を進めるタイプの人間だと思っている。それは日常生活の中でもいえることで、ふらっと寄ったニトリでの買い物でもこれが当てはまるのである。日々の生活を少し快適にする魅力ある商品がずらっと並んでいる、一階の日用雑貨が陳列されているコーナー。そこにいくとなかなかそこから抜け出せなくなって困ってしまった。歯ブラシたて、これは本当に必要なのか。なくても生活できている。一人用土鍋、どのサイズが自分にぴったりなのか。大きすぎないか小さすぎないか。取っ手のとれるフライパン、何が便利なのかずっと考える。わからない。いろんな棚を眺めて結局歯ブラシたてに戻ってきては同じようなことを考える。正直しんどい。これではすぐに時間がたりなくなるしいつになったら前に進むのかもわからない。貴重なお盆休みに立ち寄ったニトリでその日が終わってしまう。 こんなエピソードは山ほどあるがしかしこれらのことが後悔につながることはほぼない。むしろ買おうが買わまいが自分で考えてだした答えに悔いはない。ただ自分の時間を無駄に消費しているだけで誰の迷惑にもなっていない。だが人との会話においてこの性格がゆえに後悔することがよくあるのである。会話の中では一瞬の間や言葉を発するタイミングや空気が重要で、そこに面白さや楽しさがあるコミュニケーションには誰かを待っている時間はない。何人かの相手がいて会話が行われている中、刻一刻と進むその空間の中で発する打算のない生の言葉こそが面白くもあり、悲しくもあり、うれしくもあるゆえに言葉というものが生きていると自分では思う。心で感じる細かな感情を表現しようと言葉を慎重に選んで考えている時間はないのである。あとになって、こんなことを言っておけばもっと気持ちが伝わったのに、もっとおもしろかったのに、と考えてももう遅い。気持ちを相手に伝えようと今の自分

夢の世に あだにはかなき 身をしれと 教えて還る 子は知識なり

今週の一週一言               8 月24日~8月30日 夢の世に  あだにはかなき  身をしれと 教えて還る  子は知識なり 和泉式部…平安時代の歌人、10世紀後半から11世紀初めに橘道貞、為尊親王・敦道親王と夫婦・恋愛関係を結び、道貞との間には「おほえ山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」で知られる小式部がいる。一条天皇の中宮彰子に仕え、藤原道長の家司藤原保昌と再婚、夫の任地丹後へ下った。晩年は不詳。この歌は、小式部に先立たれた式部が、悲しみを越え、影響を受けていた仏の教えにたどり着いたものとされる。 【如是我聞】 和泉式部は、子に先立たれた思いを吐露する和歌も数多く知られている。なかでも「とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるなり 子はまさりけり」が有名であろう。先立つ娘を思う遺された母と、子より先立つ母としての娘の思いを読み込んだものである。淡く降ってくる春の雪を見ては、はかなく消えていく雪でも自分の前に姿を現すところから「などて君 むなしき空に 消えにけん 淡雪だにも ふればふる世に」と詠じた。そして「夢の世に あだにはかなき 身をしれと 教えて還る 子は知識なり」の一首がある。そのままでとどまることない無常さという道理を導いてくれたのが、我が娘の死であったという気づきの首といってよいであろう。 ここでいう知識は、本来は善知識と呼ぶものである。善知識は「よきとも」の意であり、原語的には「巧みな友」というべきもので、自分をよく知ってくれている者を指す。善知識は正しい道理を教える者のことであり、仏教の道理を教え導きさとりをえさせる人、仏道に入らせる縁を結ばせる人、ともに仏道に励む人のこともいう。親鸞上人の『浄土和讃』の69首目には「善知識ニアフコトモ オシフルコトモマタカタシ ヨクキクコトモカタケレバ 信ズルコトモナヲカタシ」とある。善き師にあうことも、善き師が法を教えることも難しい。その教えをよく聞くことも難しいし、その教えを信じることも、なおいっそう難しいという。 そういう中でも、今の自分で見えてくるものを考えてみると、すんなり思い出せることが一つあった。小学生のころ、学校のテストもあまり出来がよくなく、成績も悪く、種々に苦労した(いや、苦労したのは親だな

私たちはいわば二回この世に生まれる  一回目は存在するために 二回目は生きるために

今週の一週一言                  10 月14日~10月20日   私たちはいわば二回この世に生まれる      一回目は存在するために 二回目は生きるために J . J . ルソー( 1712 ~ 1778 ):ジュネーブ共和国生まれ。哲学者、教育哲学者、作家、作曲家と、フランスにおいて幅広く活躍。『エミール』など、著書多数。 【如是我聞】   ルソーの古典的な教育論、『エミール』の中の言葉だ。幼年期、少年期を終えて思春期の教育がどうあるべきかを記した第四編の最初におかれている。岩波文庫の今野氏の訳ではこの後、「はじめは人間に生まれ、つぎには男性か女性に生まれる」と続くが、ルソーの原文では、「 l ’ une pour l ’ espece, et l ’ autre pour le sexe. (一回目は人間という種として、もう一回は男性女性という性を持つ者として)」と書かれている。人は、思春期になってはじめて、それまではただ存在するだけでどう生きるかを考えもしなかったのに、情念に目覚め、第二次性徴の現れとともに体が大人になり、激しく異性を求める時期に入る。そして、この時期こそ「まさにわたしたちの教育をはじめなければならない時期だ」とルソーは主張するのだ。  ここでちょっと余談。残念ながら今から250年前を生きたルソーには、性を「ジェンダー」として捉えるという発想はなかっただろう。思春期に体が大きく変化する男性は、「嵐のような」この時期をくぐり抜けなければならないが、女性はいつまでも子供にとどまっていると考えていたようだ。なんで? まあ、そこは目をつぶって先に進もう。  では、ルソーはどんな教育をはじめなければならないというのか。「目がいきいきしてきて、他の存在をながめ、わたしたちのまわりにいる人々に興味をもちはじめ、人間はひとりで生きるようにはつくられていないことを感じはじめる。こうして人間的な愛情にたいして心がひらかれ、愛着をもつことができるようになる」という、この思春期の性本能の目覚め、伴侶を求める異性に対する欲求の発現を、「人間愛」の感情へと育てていくことだと説くのである。自分に対する愛しか知らなかった子供が異性である他者に目を向け始めたこの時期に、柔らかい感受性を利用して他者