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怨みは怨みによって鎮まらない。 怨みを忘れて、初めて怨みは鎮まる。

今週の一週一言                              9 月28日~10月4日   怨みは怨みによって鎮まらない。 怨みを忘れて、初めて怨みは鎮まる。 『法句経』 『法句経』・・・原始仏教の経典の 1 つ。詩集。 【如是我聞】   「怨み」によって生まれた悲劇は世界中で数え切れないほど起こっているが、私にとってこういった社会に影響を与える人間の行動心理というものはとても興味深い。最近私が最も深く考えたことといえば 2020 年 5 月にアメリカで起こった George Floyd さんの死とそれをきっかけに白熱した Black Lives Matter の運動だと思う。白人警察官が、黒人である George さんに対して不適切な拘束を行ったことにより窒息死してしまうという出来事が、ここ日本では考えられないような影響をアメリカ国内だけでなく世界中に与えた。 最も印象に残っているのは George さんの6歳の娘とその母親が行った会見である。母親が涙ながらに「彼の命を奪った人たちは家に帰って家族に会うことができる。けれど George は二度と娘が成長するのを見ることはできない。この先娘は困難に直面したとき、彼女は父親に相談できない。これが、彼らが奪ったものです。」と語る姿は、子供がいない私でさえも心に強く訴えかけられ泣いてしまった。  この一連の運動に関して色んな情報をかき集めたのだが、様々な立場の考え方があって結局何が正解か私にはわからなかった。この運動自体の怪しさも囁かれていたり、そもそもなぜ黒人だけなのかという疑問があったり(黒人だけじゃなくて全人種の命が大切だろ!と主張する人もいる)、日本にも差別があるのに『私達には関係ない』と思っている日本人がたくさんいるって怒っている人がいたり。そもそもメディアの放送や SNS の情報なんて偏っているし真偽もわからないから本当のところはどうなんだろうと思いつつ、色々見て思ったことがある。  怒りに任せてか、デモに乗じてか、暴徒化し破壊行為や略奪行為を行う者もいた。そんな彼らに対して George さんの弟が「何をしているんだ!私でさえ暴れていないのに。そんなことをしても兄は帰ってこない。私達がしなければいけないのは投票だ

ひとを踏みにじって苦しめるのがいじめ 人を苦しめていることに気付かず、苦しんでさけんでいるこえを聞こうとしないのがいじめ

今週の一週一言                              9 月7日~9月13日 ひとを踏みにじって苦しめるのがいじめ 人を苦しめていることに気付かず、苦しんでさけんでいるこえを聞こうとしないのがいじめ 重松 清『青い鳥』 重松 清   1963 年~。小説家。『ビタミン F 』で直木賞受賞。『ナイフ』、『エイジ』等の有名作品多数。 【如是我聞】  “ with コロナ”が日常となり半年が過ぎました。 当たり前が崩されて、居心地のよい日々が奪われて。ストレスを飲み込んでは、胃の痛みに耐えて。 ひたすら我慢するか、我慢できずに今まで通りにすがりついては、得体のしれない虚無感を覚えつつ。 隠れてはこっそりと「テヘぺロ」と舌を出したり。 実は相当凹んでいる自分をごまかして、「全然平気」と強がったり。誰にともなく。 または、「本当はそんなにたいしたことじゃないんじゃないの?」などと根拠なく平静を装ったり。 この胸の内の感覚は、何かに似ている。いつかどこかで味わった感覚。その再来。 その正体に気づくのに時間がかかりました。いじめに会った初期段階の心模様でした。 思えば 3 月以降、いかにコロナに感染しないかということに皆が夢中になっていました。国や自治体が出す「これが正しい」という方針に従い、新しい生活様式」という言葉に、神秘的な響きと若干の安堵感を覚えてもいました。でもそれはいつの間にか「こうすればいじめに会わない」という机上の論理とよく似た感覚を与え出しました。もちろん、感染を予防することは大事です。医療崩壊を防ぐ意味でも。しかし、「もっと大事なことがあるだろ !! 」と、具現化できない引っ掛かりを感じてもいました。その実態がやっと見えてきました。 家族が感染した時の対応についても少しは考えました。でも、友人やご近所が感染した時、どういう言葉をかければいいのかを考える前に、その人といつどのくらいの濃厚接触をしたかをフルチェックしてしまう、そんな自分が、自分さえ良ければという自分が育っていました。育てたのは自分ですけど。 自分自身が感染した時、どうするかはあまり考えませんでした。それは、自分がいつか必ずいのち終えるにもかかわらず、それを非現実的なこ

愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。

今週の一週一言                              9 月7日~9月13日   愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。 アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ   アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ    1860 ~ 1904 。ロシアの劇作家、小説家。四大戯曲で有名だが、僕が知っているのは短編小説のみ。市井の人々をユーモラスに描いているだけなのに、実に読ませる。名言も「自明だがチェーホフが言うから深い」という感じがする(例「結婚生活で一番大切なのは忍耐である」)。なおこの名言はロシアの諺で、彼の作中の語ではないそうな。 【如是我聞】   教員になった理由はいろいろあるが、心の底に「知識をひけらかしたい」という情動があったのを否定できない。小さい頃、僕は周囲にムダ知識を披露しては悦に入るイヤなガキンチョであった。それなら大人相手にも語れる“知の巨人 ” にでもなれば良かったのだが、そうなれずに教職に就いて生徒にエラそうにしているとすれば、「将来の夢はガキ大将。子どものときは無理だから大人になってからなる!」と宣言してお父さんを嘆かせた、『ドラえもん』ののび太のようでもある。   ところで、教員は文字通り「教える者」なわけだが、その中にも「教えるだけの者」と「ともに自らも学ぶ者」がいる。最近その違いを感じたのは、Eテレで観た、国語学者の金田一秀穂とアメリカ人コメディアン、厚切りジェイソンの対談だ(以下、曖昧な記憶で書いてます)。「若者の『~っす』は謙譲語だね~」などと嬉々として語る金田一先生に、ジェイソン氏が「“言葉の乱れ”って怒ってる人いますけど、先生は言われて腹立たないんスかあ?」と訊ねたところ、先生はこう答える。   「ううん、面白い、楽しい、最高」   ―― むろん金田一先生もゼミ生には社会常識として言葉遣いを指導していることと思うが、同時にその変化を楽しみ、新たな知見を得てもいる。物事を自らの物差しで裁断し、その正しさを疑わない者との差がここにある。別に国語学に限らない。一昔前のジュブナイル向けSFマンガには、超常現象を目の当たりにしたときに「こんなのは科学的じゃない。ありえない」と“現実 ” を拒絶する理科の先生がよく出てきたが、これは自らの知

君、時というものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものなのだよ

今週の一週一言                                   8 月 31 日~ 9 月 6:/ 日 君、時というものは、それぞれの人間によって、    それぞれの速さで走るものなのだよ                      ウィリアム・シェイクスピア William Shakespeare ( 1564 年 4 月 26 日 -1616 年 4 月 23 日)  イングランドの劇作家,詩人。イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物である。特に,「ソネット集」は最高の詩編のひとつとされている。 【如是我聞】   1 時間は 60 分, 1 日は 24 時間,これは赤ちゃんから大人まで万人に共通な長さとして決まっている。そもそも時間の長さはどのように決められたのか? と疑問に思って調べてみた。すると, 1 秒の長さは,赤道上を動く架空の太陽に対して,地球が自転する時間を, 24 時間× 60 分× 60 秒すなわち, 86,400 秒で割った長さに決められたそうだ。よくよく考えてみると,われわれは時間によって縛られていると思う。もし時間という概念がなければ, 1 講時が 50 分であるとか,子供に「ゲームできる時間は 1 日 1 時間」であるとか, 1 日に 8 時間仕事をしなければならないとか,時間におわれるような生活はないだろう。しかし,時間という概念が存在し,ある程度それに縛られているからこそ,「~までに~をしなければならない」とか,「この時間までは~をする」とかという考え方が生まれてくる。そのおかげで,人類は発展してきたと言っても過言ではない。時間があるからこそ,人間は計画を立てられたり,切羽詰って力を発揮することができたりするのだろう。もし,時間という縛りもなければ,好きなときに好きなことをしたり,やらなければならないこともなかなかできなかったりするのだろうと思う。  さて,そのようなことを考えていると,私は今年の 5 月 22 日で, 376,920 時間生きてきたことになる。先にも述べたが, 1 秒の長さは万人に共通であるが,時間の長さの感覚はその時々によって違ってきた。これまでを振り返ると,最もゆっくりと時が流れたと感じるのは,小学校 6 年間である。中

人は毎日髪を整えるが、どうして心は整えないのか

今週の一週一言                                     8 月 24 日~ 8 月 30 日 人は毎日髪を整えるが、 どうして心は整えないのか チェ・ゲバラ チェ・ゲバラ( 1928-1967 )  本名はエルネスト・ゲバラ。アルゼンチン生まれでキューバ革命の指導者。「チェ」とは、スペイン語で「ねぇ」や「やぁ」などの呼びかけにあたる言葉に由来するあだ名。 【如是我聞】 チェ・ゲバラといえば、キューバ革命の英雄で、長髪のぼさぼさ頭に髭と葉巻。ワイルドでかっこいい男のイメージしかない。それが、あの優等生ヴィジュアルのサッカー日本代表キャプテン長谷部誠と同じようなことを言っていたなんて!…いやでも、オダギリジョー主演の「エルネスト もう一人のゲバラ」という映画のなかで、ゲバラはもの静かなインテリといった雰囲気だった。あの風貌は、心を整えているから髪を整える必要がなかっただけなのか…。 なんとなく裏切られたような気分になるのは、私が、外見のイメージに引っ張られて、中身も決めてしまう凡人だからなのです。だから、毎日心ではなく髪を整えてしまうのです。心を整えても人から見えないので、せめて見た目だけでも人からよく見られようと思ってしまうのです。すみません、ゲバラさん。 一昔前、「服装の乱れは心の乱れ」なんていう先生が当たり前にいました。たしかにそういう面もあります。ただ、そんなに単純ではない場合もあります。でも、見た目と内面がリンクしていると考えるほうがわかりやすい。誰かにそう思われたい自分になるために、髪を整え、服を選ぶ。そうしているうちに、そう思われたい自分が手に入るならそれでいいじゃないですか。髪を整えたら、心も整う、そういうこともありますよね、ゲバラさん。 私はあるとき、白髪を染めている自分は本当の自分の姿を知らないんだという当たり前のことに気づいて、髪を染めるのをやめました。すると、私の内面は変わっていないのに、「そんな大きな子どもさんがいるようには見えませんね」「いつも元気ですね」だった周囲の反応が、「老けたね」はもちろん、「お孫さんは何人?」に変わりました。そして、そのことに少なからずショックを受けた自分にショックを受けました。見た目と内面を結び付ける

仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま

今週の一週一言            3 月9日~4月5日 仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま 帰雲真智  帰雲真智 ( かえりくも まさと ) ・・・真宗大谷派高山二組、還來寺住職。 【如是我聞】 この言葉を見たときに連想した言葉があります。皆さんはどうでしょうか?何か思い浮かぶ言葉があるでしょうか。私が思い浮かべたのは「アナと雪の女王(原題: Frozen )」の「ありの~ままの~♪姿見せるのよ~♫」というフレーズでした。歌は「ありのままの自分」を肯定していくものだったと思います。この歌が流行っていたとき私はこう思っていました。「ありのままの姿など見せられるわけがない!」と。それは私が内面的に欲深く、不遜で謙虚さに欠け、とても自己中心的だからです。それぞれの例を挙げればきりがありません。大人になったらこうなったというより、もともとこうだったように思います。ありがたいことにいろいろな人たちから教えられて、欲を満たすのはそこそこに、他者に対しては敬意をもって、わがままを慎むことを学ばせてもらいました。それでも抑えきれず(隠しきれず?)本性が出ています。 私が基本的にこうしているというものの一つが「精進」です。本来が本来の人間ですから、「ありのまま」でいいはずがなく、少しでもよい道に近づいていきたい、歩んでいきたいと思っています。意志の力による精進よりも、普段から自然に無理なくやっているような精進です。それは意志の力が弱いからなのですが、「基本的に精進をする人間」であれば意志の力に頼ることは少なくなります。 そこで「仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま」です。この言葉を見て私は「いや、そのままではダメなんじゃないですか?」と思います。むしろブッダの最期の言葉、「怠ることなく精進しなさい」のほうに親近感があります。「私の願い」も私にとって「願い」とは「仏・菩薩が 発 ( おこ ) したもの= 発願 ( ほつがん ) 」と、これまでの学びの中で思っていますからしっくりきません。もっと単純に「私はわがまま」なら、そうだなと思います。 ところで、「願」というテーマで以前生徒がこんな短歌を作りました。  鈴ならし手をたたき神様を呼ぶお辞儀をしたら願いを話す

善人の家に争いごと絶えず、悪人の家に争いごとなし

今週の一週一言                                   11 月18日~11月24日   善人の家に争いごと絶えず、悪人の家に争いごとなし                   道元禅師   道元… 1200-1253 。鎌倉時代初期の禅僧で曹洞宗の開祖。24歳から宋(中国)で5年間坐禅修行に励み、帰国後『普勧坐禅儀』・『正法眼蔵』の最初の巻を著した。京都の深草に興聖寺を開き、本格的な坐禅堂を建立した。 【如是我聞】  京都はまわりを山で囲まれており、様々な坂がありますが、上り坂と下り坂ではどちらが多いでしょう。答えは「同じ」ですね。坂の数だけ上りも下りもあります。では次の問いはどうでしょう。  私は、私があなたにしてもらったことを挙げます。あなたは、あなたが私にしてくれたことを挙げてください。どちらが多くなるでしょう。  こちらも答えは「同じ」になる、はずです。しかし、現実はそうはいきません。門外漢ですが心理学の話を受け売りでいえば、人間はたいていの場合「して『もらった』こと」よりも「して『あげた』こと」のほうをよく憶えているのです。したがって、さきほどの問いは後者の方が多くなります。そしてまた、自分のしたことを相手が忘れてしまったとき、それを「損した」と感じる人は、過度のストレスをためやすいともいわれます。根底にあるのは「損得」や「善悪」といった「白か黒か」の発想でしょうか。  「私は『普通のこと』を言っているだけなのに、なぜ分からないのか」「ただ『当たり前のこと』をしたらいいだけでしょ」「なんでそれを私がしないといけないのですか。私は自分のことはやっているでしょ」などなど。善行を積む人は、その正しさゆえにその正当性を強く主張してきます。もしこれが、机上の世界であれば「解き方が違っていても、それぞれが正しければ同じ答えに行きつく」ということになるでしょうが、現実の世界はうまくいきません。それぞれの正論を言いあって、平行線をたどることはよくあります。一歩、いや半歩譲って「相手の言うことも正しい」と感じても、こちらの主張を譲ることはしません。争いはなかなかなくなりません。  するとまたある人がいいます。争いごとをなくす方法だって。そんなのは簡単。人に迷惑をかけず、人を傷つけ

学ぶに暇あらずと謂う者ものは、 暇ありと雖も亦学ぶ能わざるなり。

今週の一週一言 11 月 11日~11月17 日 学 ( まな ) ぶに 暇 ( いとま ) あらずと 謂 ( い ) う 者 ( もの ) は、 暇 ( いとま ) ありと 雖 ( いえど ) も 亦 ( また ) 学ぶ 能 ( あたわ ) わざるなり。 「淮南子」巻十六説山訓・第九の一節。「淮南子」は淮南王・劉安( BC179 ~ BC122 )と彼によって集められた学者たち(蘇非、李尚、伍被ら)によって編纂された。 【如是我聞】 『 淮南子 ( えなんじ ) 』 は道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて、治乱興亡や古代中国人 の宇宙観、逸事が体系的に記述され、一般的には雑家の書になっている。荘子の道家思想をベースとしながら、それまで別と考えられていた老子思想との共通性を見出して老荘思想としてまとめ上げ、儒家や法家 、陰陽家 の考えも取り込んで 書かれている。「人間万事、塞翁が馬」「蟷螂の斧」「一致団結」などの故事成語の出典元 で あり 、『日本書紀』の冒頭「古に天地未だ剖れず、陰陽別れざりしとき……」の典拠になっている。紀元前2世紀の書であり、『日本書紀』は8世紀に成立したことから、古代中国の雑家の宇宙哲学がその 1000 年後に日本の神話を形作ることになったのである。中国の先進性おそるべしである。 劉安( BC179 ~ BC122 )は、前漢時代の皇族(淮南王)、学者である。漢の高祖(劉邦)の七男・淮南厲王・劉長の長子である。よって、劉邦の孫にあたる。父親が劉安5歳の時に、謀反に加わったとして流罪から絶食死したが、伯父・文帝によって列侯に封ぜられ、 15 歳で淮南王に転じた。その後、紆余曲折をたどり、反乱を企図して密告により露顕し、劉安は自害し、一族はことごとく処刑された。 さて、頭記の言葉の意味は、ほぼそのままで、「『勉強する時間がない』という奴は、勉強する時間ができても勉強しない。」という辛辣な言葉である。本当に勉強をする者は、忙しい中でもなんとか時間を捻出してでも、勉強をするものだ、と。「部活動で勉強できない」という生徒に対して、もっとも教育的な精神論であろうか。しかし、時間の使い方の何と難しい事か。私など大人になっても、時間を有効に使っているとはとても思えないのである。若

子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」 易経

今週の一週一言 9 月 23日~9月29 日 子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」 易経…古代中国の書物。儒教の基本書籍の筆頭に挙げられる経典である。 【如是我聞】 悔いの多い生涯を送ってきました。なんてことを言えば周りから「おおげさな」「まだ若いのに」といった声が聞こえてきそうだ。しかし今振り返ってみても自分の生涯にはなかなかの数の後悔があるように思う。 私は物事をじっくり考えて慎重に事を進めるタイプの人間だと思っている。それは日常生活の中でもいえることで、ふらっと寄ったニトリでの買い物でもこれが当てはまるのである。日々の生活を少し快適にする魅力ある商品がずらっと並んでいる、一階の日用雑貨が陳列されているコーナー。そこにいくとなかなかそこから抜け出せなくなって困ってしまった。歯ブラシたて、これは本当に必要なのか。なくても生活できている。一人用土鍋、どのサイズが自分にぴったりなのか。大きすぎないか小さすぎないか。取っ手のとれるフライパン、何が便利なのかずっと考える。わからない。いろんな棚を眺めて結局歯ブラシたてに戻ってきては同じようなことを考える。正直しんどい。これではすぐに時間がたりなくなるしいつになったら前に進むのかもわからない。貴重なお盆休みに立ち寄ったニトリでその日が終わってしまう。 こんなエピソードは山ほどあるがしかしこれらのことが後悔につながることはほぼない。むしろ買おうが買わまいが自分で考えてだした答えに悔いはない。ただ自分の時間を無駄に消費しているだけで誰の迷惑にもなっていない。だが人との会話においてこの性格がゆえに後悔することがよくあるのである。会話の中では一瞬の間や言葉を発するタイミングや空気が重要で、そこに面白さや楽しさがあるコミュニケーションには誰かを待っている時間はない。何人かの相手がいて会話が行われている中、刻一刻と進むその空間の中で発する打算のない生の言葉こそが面白くもあり、悲しくもあり、うれしくもあるゆえに言葉というものが生きていると自分では思う。心で感じる細かな感情を表現しようと言葉を慎重に選んで考えている時間はないのである。あとになって、こんなことを言っておけばもっと気持ちが伝わったのに、もっとおもしろかったのに、と考えてももう遅い。気持ちを相手に伝えようと今の自分

いいえ昨日はありません 今日を打つのは今日の時計 昨日の時計はありません 今日を打つのは今日の時計  三好達治 

今週の一週一言                                      10 月 21 日~ 10 月 27 日 いいえ昨日はありません 今日を打つのは今日の時計 昨日の時計はありません 今日を打つのは今日の時計                   三好達治    三好達治 (1900-1964) …大阪市出身の詩人、翻訳家、文芸評論家。詩集『花筐』をはじめ多くの作品を手がけ、昭和を代表する詩人と称された。 【如是我聞】   最近発売された iPhone11 が欲しくてたまらない。私が iPhone を初めて手にしたのは、高校入学時だった。 iPhone 歴は 9 年目に突入したが、 iPhone という存在を知り、初めて手にした日を私は今でも忘れない。昨日まで自分の世界に無かった新しいモノとの出会いは、自分の人生の選択肢を広げてくれた。箱から取り出した iPhone を操作した指は緊張していたが、心は躍っていた。自分の生活に存在しないモノが、今日の生活では当たり前になり、 9 年経った今では必要不可欠になった。スティーブ・ジョブズの魔法にかかった私は、もう以前の自分には戻れなかった。当然のように情報分野に心を奪われた私は、受験する大学もこだわりが強く、担任の先生と予備校の先生を困らせた。志望校は「情報を専門とする学部で、企業出身の教授が多い大学に行きたい!それ以外は受験しない」と、とても頑固であった。当時は理工学部に情報科がある大学は多くあったが、学部となると数も限られ、受験指導を行う先生に大変苦労をかけたと思う。そこまでこだわりを強くさせたのもまた、ジョブズの魔法だった。「一番大切なのは、心の声や直感に従う勇気を持つこと」という名言に心を奪われてしまった。ここまでくるとすぐに影響されるところが、自分の弱点だと考えられる。しかし、影響されたことで一つのことを成し遂げる大切さと大変さを学び、第 1 志望の大学で念願の情報技術を学ぶことができた。私にとって iPhone との出会いが昨日と違う今日を魅せてくれた。 私にとってきっかけはなんでも良くて、自分の心が動いた時、自分で今日の時計を進め、今日という日が未来を創るのではないかと思う。  最近でいうと影響されやすい私は、旦那さんが買