一週一言インデックス

2020年9月30日水曜日

愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。

今週の一週一言

                            月7日~9月13日

 

愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

 

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

  18601904。ロシアの劇作家、小説家。四大戯曲で有名だが、僕が知っているのは短編小説のみ。市井の人々をユーモラスに描いているだけなのに、実に読ませる。名言も「自明だがチェーホフが言うから深い」という感じがする(例「結婚生活で一番大切なのは忍耐である」)。なおこの名言はロシアの諺で、彼の作中の語ではないそうな。

【如是我聞】

  教員になった理由はいろいろあるが、心の底に「知識をひけらかしたい」という情動があったのを否定できない。小さい頃、僕は周囲にムダ知識を披露しては悦に入るイヤなガキンチョであった。それなら大人相手にも語れる“知の巨人にでもなれば良かったのだが、そうなれずに教職に就いて生徒にエラそうにしているとすれば、「将来の夢はガキ大将。子どものときは無理だから大人になってからなる!」と宣言してお父さんを嘆かせた、『ドラえもん』ののび太のようでもある。

  ところで、教員は文字通り「教える者」なわけだが、その中にも「教えるだけの者」と「ともに自らも学ぶ者」がいる。最近その違いを感じたのは、Eテレで観た、国語学者の金田一秀穂とアメリカ人コメディアン、厚切りジェイソンの対談だ(以下、曖昧な記憶で書いてます)。「若者の『~っす』は謙譲語だね~」などと嬉々として語る金田一先生に、ジェイソン氏が「“言葉の乱れ”って怒ってる人いますけど、先生は言われて腹立たないんスかあ?」と訊ねたところ、先生はこう答える。

  「ううん、面白い、楽しい、最高」

  ―― むろん金田一先生もゼミ生には社会常識として言葉遣いを指導していることと思うが、同時にその変化を楽しみ、新たな知見を得てもいる。物事を自らの物差しで裁断し、その正しさを疑わない者との差がここにある。別に国語学に限らない。一昔前のジュブナイル向けSFマンガには、超常現象を目の当たりにしたときに「こんなのは科学的じゃない。ありえない」と“現実を拒絶する理科の先生がよく出てきたが、これは自らの知識の枠内に事象を押さえこみたいと考える、傲慢な教える者“の態度でしかない。もしこの先生が“学ぶ者であるならば、主人公の子どもたちと一緒に未知の出来事に感動し、興味津々で身をのりだすはずだ。

  目下進行中の教育改革で、僕らは「Teacher(教える者)」から「Facilitator(促進する者)」へと役割を変えていかねばならないらしい。生徒の主体的な学びを見守り、手助けするという職務。そのとき僕は、彼らをイライラせずに見ていられるだろうか。自らの中に眠る「知識をひけらかしたい」という欲望を、どこまで抑えられるだろうか。目の前で考える生徒たちの試行錯誤を楽しみ、たとえその答が(自らの狭い知識の範囲では)間違っていたとしても、それを受け入れ、そこから何かを学ぶことができるだろうか。

                                                   (国語科  奥島  寛)





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君、時というものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものなのだよ

今週の一週一言

                                  831日~96:/

君、時というものは、それぞれの人間によって、

  それぞれの速さで走るものなのだよ

                    ウィリアム・シェイクスピア

William Shakespeare1564426-1616423日)

 イングランドの劇作家,詩人。イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物である。特に,「ソネット集」は最高の詩編のひとつとされている。

【如是我聞】

 1時間は60分,1日は24時間,これは赤ちゃんから大人まで万人に共通な長さとして決まっている。そもそも時間の長さはどのように決められたのか? と疑問に思って調べてみた。すると,1秒の長さは,赤道上を動く架空の太陽に対して,地球が自転する時間を,24時間×60分×60秒すなわち,86,400秒で割った長さに決められたそうだ。よくよく考えてみると,われわれは時間によって縛られていると思う。もし時間という概念がなければ,1講時が50分であるとか,子供に「ゲームできる時間は11時間」であるとか,1日に8時間仕事をしなければならないとか,時間におわれるような生活はないだろう。しかし,時間という概念が存在し,ある程度それに縛られているからこそ,「~までに~をしなければならない」とか,「この時間までは~をする」とかという考え方が生まれてくる。そのおかげで,人類は発展してきたと言っても過言ではない。時間があるからこそ,人間は計画を立てられたり,切羽詰って力を発揮することができたりするのだろう。もし,時間という縛りもなければ,好きなときに好きなことをしたり,やらなければならないこともなかなかできなかったりするのだろうと思う。

 さて,そのようなことを考えていると,私は今年の522日で,376,920時間生きてきたことになる。先にも述べたが,1秒の長さは万人に共通であるが,時間の長さの感覚はその時々によって違ってきた。これまでを振り返ると,最もゆっくりと時が流れたと感じるのは,小学校6年間である。中学校3年間と高等学校3年間を合わせた時間も同じ6年間であるのに,小学校6年間の方がゆったりと時が流れたと感じる。もちろん人間の成長によって感じる時間の感覚は違うのかもしれないが,今思えば,中学校時代,高校時代はクラブ活動に多くの時間を使ったことを考えると,何かに打ち込んでいる時は,時の流れが早く感じるのであろう。もちろん,人によって,どの時代が最もゆったりとした時間を持てていたかは様々であろう。時間は,その人その人によってさまざまな速さで走るものかどうかはわからないが,感じ方が違うことは頷ける。しかしながら,やはり1秒という長さは平等であることにかわりはない。命尽きるまでの時間はあとどれくらいあるのかはわからないが,尽きる寸前に,「いい人生であったな」と言えるような時間の使い方をしたいものだ。

(数学科 髙間 秀章)





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人は毎日髪を整えるが、どうして心は整えないのか

今週の一週一言

                                   24日~830

人は毎日髪を整えるが、

どうして心は整えないのか

チェ・ゲバラ

チェ・ゲバラ(1928-1967

 本名はエルネスト・ゲバラ。アルゼンチン生まれでキューバ革命の指導者。「チェ」とは、スペイン語で「ねぇ」や「やぁ」などの呼びかけにあたる言葉に由来するあだ名。

【如是我聞】

チェ・ゲバラといえば、キューバ革命の英雄で、長髪のぼさぼさ頭に髭と葉巻。ワイルドでかっこいい男のイメージしかない。それが、あの優等生ヴィジュアルのサッカー日本代表キャプテン長谷部誠と同じようなことを言っていたなんて!…いやでも、オダギリジョー主演の「エルネスト もう一人のゲバラ」という映画のなかで、ゲバラはもの静かなインテリといった雰囲気だった。あの風貌は、心を整えているから髪を整える必要がなかっただけなのか…。

なんとなく裏切られたような気分になるのは、私が、外見のイメージに引っ張られて、中身も決めてしまう凡人だからなのです。だから、毎日心ではなく髪を整えてしまうのです。心を整えても人から見えないので、せめて見た目だけでも人からよく見られようと思ってしまうのです。すみません、ゲバラさん。

一昔前、「服装の乱れは心の乱れ」なんていう先生が当たり前にいました。たしかにそういう面もあります。ただ、そんなに単純ではない場合もあります。でも、見た目と内面がリンクしていると考えるほうがわかりやすい。誰かにそう思われたい自分になるために、髪を整え、服を選ぶ。そうしているうちに、そう思われたい自分が手に入るならそれでいいじゃないですか。髪を整えたら、心も整う、そういうこともありますよね、ゲバラさん。

私はあるとき、白髪を染めている自分は本当の自分の姿を知らないんだという当たり前のことに気づいて、髪を染めるのをやめました。すると、私の内面は変わっていないのに、「そんな大きな子どもさんがいるようには見えませんね」「いつも元気ですね」だった周囲の反応が、「老けたね」はもちろん、「お孫さんは何人?」に変わりました。そして、そのことに少なからずショックを受けた自分にショックを受けました。見た目と内面を結び付けると人を傷つけることがある。でも、傷つくのはわかりやすいそのイメージに自分も取り込まれているからだと。私は髪を整えなかったとしても、心も整いそうにありません。心が整っていたから、あのぼさぼさのヘアスタイルはあんなにかっこよくみえるのでしょうか。人からどう見られるかではなく、自分の心をしっかり見つめることが大切、それはわかっているのです。でも、ゲバラさん、自分の心は整っているから、外見など構わない、という孤独を私は引き受けられそうにありません。そのかわり、せめて、目に見えない部分を想像すること、自分が見ていないことがあることは忘れないようにしたいと思います。

そういえば、ゲバラの肖像がパッケージ書かれているたばこを、ぼさぼさ頭の息子が気取って吸っていた。あいつは毎日心を整えているのだろうか。二学期、頭髪検査に引っかかっているあの生徒も、もしかしたら心は整っているのかもしれないなあ…。

(国語科 春日)





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2020年3月10日火曜日

仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま

今週の一週一言          月9日~4月5日
仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま
帰雲真智 
帰雲真智(かえりくも まさと)・・・真宗大谷派高山二組、還來寺住職。
【如是我聞】











この言葉を見たときに連想した言葉があります。皆さんはどうでしょうか?何か思い浮かぶ言葉があるでしょうか。私が思い浮かべたのは「アナと雪の女王(原題:Frozen)」の「ありの~ままの~♪姿見せるのよ~♫」というフレーズでした。歌は「ありのままの自分」を肯定していくものだったと思います。この歌が流行っていたとき私はこう思っていました。「ありのままの姿など見せられるわけがない!」と。それは私が内面的に欲深く、不遜で謙虚さに欠け、とても自己中心的だからです。それぞれの例を挙げればきりがありません。大人になったらこうなったというより、もともとこうだったように思います。ありがたいことにいろいろな人たちから教えられて、欲を満たすのはそこそこに、他者に対しては敬意をもって、わがままを慎むことを学ばせてもらいました。それでも抑えきれず(隠しきれず?)本性が出ています。
私が基本的にこうしているというものの一つが「精進」です。本来が本来の人間ですから、「ありのまま」でいいはずがなく、少しでもよい道に近づいていきたい、歩んでいきたいと思っています。意志の力による精進よりも、普段から自然に無理なくやっているような精進です。それは意志の力が弱いからなのですが、「基本的に精進をする人間」であれば意志の力に頼ることは少なくなります。
そこで「仏の願いはそのまま、私の願いはわがまま」です。この言葉を見て私は「いや、そのままではダメなんじゃないですか?」と思います。むしろブッダの最期の言葉、「怠ることなく精進しなさい」のほうに親近感があります。「私の願い」も私にとって「願い」とは「仏・菩薩が(おこ)したもの=発願(ほつがん)」と、これまでの学びの中で思っていますからしっくりきません。もっと単純に「私はわがまま」なら、そうだなと思います。
ところで、「願」というテーマで以前生徒がこんな短歌を作りました。

 鈴ならし手をたたき神様を呼ぶお辞儀をしたら願いを話す
 
穏やかでよい作品だと思います。通常は動詞が多いと内容に乱れを生じやすいのですが、一連の動作が流れるようで引っかかりがありません。作者は何を願ったのでしょうか。作品の雰囲気からは素直で嫌みのない願いのように思われます。願いを話すということは聞く存在があるということでもあります。願いを話す-聞く。人間の本質的な部分がそこにあると思います。

                               宗教科 佐々木敦史




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2019年11月19日火曜日

善人の家に争いごと絶えず、悪人の家に争いごとなし

今週の一週一言
                                  11月18日~11月24日
 善人の家に争いごと絶えず、悪人の家に争いごとなし
                 道元禅師  
道元…1200-1253。鎌倉時代初期の禅僧で曹洞宗の開祖。24歳から宋(中国)で5年間坐禅修行に励み、帰国後『普勧坐禅儀』・『正法眼蔵』の最初の巻を著した。京都の深草に興聖寺を開き、本格的な坐禅堂を建立した。
【如是我聞】
 京都はまわりを山で囲まれており、様々な坂がありますが、上り坂と下り坂ではどちらが多いでしょう。答えは「同じ」ですね。坂の数だけ上りも下りもあります。では次の問いはどうでしょう。
 私は、私があなたにしてもらったことを挙げます。あなたは、あなたが私にしてくれたことを挙げてください。どちらが多くなるでしょう。
 こちらも答えは「同じ」になる、はずです。しかし、現実はそうはいきません。門外漢ですが心理学の話を受け売りでいえば、人間はたいていの場合「して『もらった』こと」よりも「して『あげた』こと」のほうをよく憶えているのです。したがって、さきほどの問いは後者の方が多くなります。そしてまた、自分のしたことを相手が忘れてしまったとき、それを「損した」と感じる人は、過度のストレスをためやすいともいわれます。根底にあるのは「損得」や「善悪」といった「白か黒か」の発想でしょうか。
 「私は『普通のこと』を言っているだけなのに、なぜ分からないのか」「ただ『当たり前のこと』をしたらいいだけでしょ」「なんでそれを私がしないといけないのですか。私は自分のことはやっているでしょ」などなど。善行を積む人は、その正しさゆえにその正当性を強く主張してきます。もしこれが、机上の世界であれば「解き方が違っていても、それぞれが正しければ同じ答えに行きつく」ということになるでしょうが、現実の世界はうまくいきません。それぞれの正論を言いあって、平行線をたどることはよくあります。一歩、いや半歩譲って「相手の言うことも正しい」と感じても、こちらの主張を譲ることはしません。争いはなかなかなくなりません。
 するとまたある人がいいます。争いごとをなくす方法だって。そんなのは簡単。人に迷惑をかけず、人を傷つけることをしなければいいだけだよ。
 この人も善人です。「迷惑をかけてしまう自分」「人を傷つけてしまう自分」がいるという悪人なら、そうはいいません。「そういうこともあるよね」と寄りそってくれます。そう考えるとたしかに、悪人の家には争いごとは起こりませんね。
 そこに悪人がいれば大丈夫。
そういうわたしはいつもゼンニン。 みつを ではなく、こしお。

    (国語科 小塩)




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2019年11月12日火曜日

学ぶに暇あらずと謂う者ものは、 暇ありと雖も亦学ぶ能わざるなり。

今週の一週一言
1111日~11月17
(まな)ぶに(いとま)あらずと()(もの)は、
(いとま)ありと(いえど)(また)学ぶ(あたわ)わざるなり。

「淮南子」巻十六説山訓・第九の一節。「淮南子」は淮南王・劉安(BC179BC122)と彼によって集められた学者たち(蘇非、李尚、伍被ら)によって編纂された。

【如是我聞】
淮南子(えなんじ)は道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて、治乱興亡や古代中国人の宇宙観、逸事が体系的に記述され、一般的には雑家の書になっている。荘子の道家思想をベースとしながら、それまで別と考えられていた老子思想との共通性を見出して老荘思想としてまとめ上げ、儒家や法家、陰陽家の考えも取り込んで書かれている。「人間万事、塞翁が馬」「蟷螂の斧」「一致団結」などの故事成語の出典元あり、『日本書紀』の冒頭「古に天地未だ剖れず、陰陽別れざりしとき……」の典拠になっている。紀元前2世紀の書であり、『日本書紀』は8世紀に成立したことから、古代中国の雑家の宇宙哲学がその1000年後に日本の神話を形作ることになったのである。中国の先進性おそるべしである。
劉安(BC179BC122)は、前漢時代の皇族(淮南王)、学者である。漢の高祖(劉邦)の七男・淮南厲王・劉長の長子である。よって、劉邦の孫にあたる。父親が劉安5歳の時に、謀反に加わったとして流罪から絶食死したが、伯父・文帝によって列侯に封ぜられ、15歳で淮南王に転じた。その後、紆余曲折をたどり、反乱を企図して密告により露顕し、劉安は自害し、一族はことごとく処刑された。
さて、頭記の言葉の意味は、ほぼそのままで、「『勉強する時間がない』という奴は、勉強する時間ができても勉強しない。」という辛辣な言葉である。本当に勉強をする者は、忙しい中でもなんとか時間を捻出してでも、勉強をするものだ、と。「部活動で勉強できない」という生徒に対して、もっとも教育的な精神論であろうか。しかし、時間の使い方の何と難しい事か。私など大人になっても、時間を有効に使っているとはとても思えないのである。若いときは、電車の中でも読書などよくしたものだが、40歳後半も過ぎた頃から、眠ってしまうこともよくある。そんなとき、この文言を思い出し、自分に鞭打ち頑張らなければなければならないのだろう。         (数学: 小河 洋一)






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2019年11月6日水曜日

子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」 易経

今週の一週一言
23日~9月29
子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」
易経…古代中国の書物。儒教の基本書籍の筆頭に挙げられる経典である。
【如是我聞】
悔いの多い生涯を送ってきました。なんてことを言えば周りから「おおげさな」「まだ若いのに」といった声が聞こえてきそうだ。しかし今振り返ってみても自分の生涯にはなかなかの数の後悔があるように思う。
私は物事をじっくり考えて慎重に事を進めるタイプの人間だと思っている。それは日常生活の中でもいえることで、ふらっと寄ったニトリでの買い物でもこれが当てはまるのである。日々の生活を少し快適にする魅力ある商品がずらっと並んでいる、一階の日用雑貨が陳列されているコーナー。そこにいくとなかなかそこから抜け出せなくなって困ってしまった。歯ブラシたて、これは本当に必要なのか。なくても生活できている。一人用土鍋、どのサイズが自分にぴったりなのか。大きすぎないか小さすぎないか。取っ手のとれるフライパン、何が便利なのかずっと考える。わからない。いろんな棚を眺めて結局歯ブラシたてに戻ってきては同じようなことを考える。正直しんどい。これではすぐに時間がたりなくなるしいつになったら前に進むのかもわからない。貴重なお盆休みに立ち寄ったニトリでその日が終わってしまう。
こんなエピソードは山ほどあるがしかしこれらのことが後悔につながることはほぼない。むしろ買おうが買わまいが自分で考えてだした答えに悔いはない。ただ自分の時間を無駄に消費しているだけで誰の迷惑にもなっていない。だが人との会話においてこの性格がゆえに後悔することがよくあるのである。会話の中では一瞬の間や言葉を発するタイミングや空気が重要で、そこに面白さや楽しさがあるコミュニケーションには誰かを待っている時間はない。何人かの相手がいて会話が行われている中、刻一刻と進むその空間の中で発する打算のない生の言葉こそが面白くもあり、悲しくもあり、うれしくもあるゆえに言葉というものが生きていると自分では思う。心で感じる細かな感情を表現しようと言葉を慎重に選んで考えている時間はないのである。あとになって、こんなことを言っておけばもっと気持ちが伝わったのに、もっとおもしろかったのに、と考えてももう遅い。気持ちを相手に伝えようと今の自分の気持ちをあれこれ考えているうちにワンテンポ・ツーテンポ遅れをとる私の生涯は後悔ばかりである。

「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」とは儒教の経典である「易経」の中の言葉で、「言葉で言い表したいことを書物にすべて書き尽くすことはできない。また、言葉は心で動き感じることをすべて言い尽くすことができない。」といった意味であり、自分には痛いほど身に染みる言葉である。でもこの言葉の真意は、足りないものはどちらかで補い合えばいいのではないか、ということではないかと解釈することもできるし自分はそう考えてこれから先も後悔を取り戻したい。まずは普段クラスの生徒たちに伝えきれていない日々の後悔の分だけでも文字にして、まだ書きなれていない学級通信を書いてみようと思う。                   (英語科:石黒)




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いいえ昨日はありません 今日を打つのは今日の時計 昨日の時計はありません 今日を打つのは今日の時計  三好達治 

今週の一週一言
                                    1021日~1027
いいえ昨日はありません 今日を打つのは今日の時計
昨日の時計はありません 今日を打つのは今日の時計
                 三好達治  
三好達治(1900-1964)…大阪市出身の詩人、翻訳家、文芸評論家。詩集『花筐』をはじめ多くの作品を手がけ、昭和を代表する詩人と称された。

【如是我聞】
 最近発売されたiPhone11が欲しくてたまらない。私がiPhoneを初めて手にしたのは、高校入学時だった。iPhone歴は9年目に突入したが、iPhoneという存在を知り、初めて手にした日を私は今でも忘れない。昨日まで自分の世界に無かった新しいモノとの出会いは、自分の人生の選択肢を広げてくれた。箱から取り出したiPhoneを操作した指は緊張していたが、心は躍っていた。自分の生活に存在しないモノが、今日の生活では当たり前になり、9年経った今では必要不可欠になった。スティーブ・ジョブズの魔法にかかった私は、もう以前の自分には戻れなかった。当然のように情報分野に心を奪われた私は、受験する大学もこだわりが強く、担任の先生と予備校の先生を困らせた。志望校は「情報を専門とする学部で、企業出身の教授が多い大学に行きたい!それ以外は受験しない」と、とても頑固であった。当時は理工学部に情報科がある大学は多くあったが、学部となると数も限られ、受験指導を行う先生に大変苦労をかけたと思う。そこまでこだわりを強くさせたのもまた、ジョブズの魔法だった。「一番大切なのは、心の声や直感に従う勇気を持つこと」という名言に心を奪われてしまった。ここまでくるとすぐに影響されるところが、自分の弱点だと考えられる。しかし、影響されたことで一つのことを成し遂げる大切さと大変さを学び、第1志望の大学で念願の情報技術を学ぶことができた。私にとってiPhoneとの出会いが昨日と違う今日を魅せてくれた。
私にとってきっかけはなんでも良くて、自分の心が動いた時、自分で今日の時計を進め、今日という日が未来を創るのではないかと思う。
 最近でいうと影響されやすい私は、旦那さんが買って来た卵に入っているおまけシールに心が奪われた。ぐでたまのシールで、「ふり返る過去はない しりしかない」と可愛いイラスト入りだった。結婚式にむけての準備の多さから逃げ、準備が何一つ進まない不安と、若干のマリッジブルーに悩んでいたのだが、なんとも言えない癒し系のイラストと言葉に、笑ってしまった。張りつめた心に余裕を与えてくれた。きっと今日や明日への時計が進むための活力は、意外と身近なところにヒントがあるのかもしれない。今日はどんなモノに出会えるかと思うと、毎日が楽しみでしかたない。

                           (情報・数学科 松井有)




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大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。

今週の一週一言
                                    10月14日~10月20日
大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。
              ショーペンハウエル  
ショーペンハウエル…[1788-1860]ドイツの哲学者。世界は自我の表象であり、その根底にはたらく盲目的な生存意志は絶えず満たされない欲望を追求するために人生は苦になると説き、この苦を免れるには意志否定によるほかはないと主張した。主著「意志と表象としての世界」。
【如是我聞】
 普通のことを普通の語で言う(または理解する)のも難しいのに、普通の語で非凡なことなんて言えるのだろうかと、この言葉を見たときに感じてしまった。いや、普通の語でこそ非凡なことを表すべきなのかもしれない。例えば「世界平和」や「あなたが好き」という言葉は、一見「普通の語」だが、内容自体は「非凡なこと」に分類されるのではないか。
 話がとっ散らかってしまう前に整理しよう。結論から言うと、普通の語で非凡なことを「実際に誰かに言うこと」は難しいのだ。好きな人に「あなたが好きです。」なんて簡単に言えないように。だから、難しい言葉(=非凡な語)でそれとなく好意(=非凡なこと)を伝えるのではないだろうか。英語なら助動詞を使ったり、時制を過去形にしたりして、「直接的でない表現」で「自分の気持ち」を伝えたりする。だから、“I like you.”のかわりに、“I would like to ~.”「できれば~したい」と言ったり、“I wish I had a chance to ~.”「~する機会があればいいのに」なんて回りくどい言い方をするのだ(と個人的には思う)
 そんなふうに、自分の気持ちは、聞こえよい言葉で相手になんとなく伝えられたらいいと思っていた。その方が相手を驚かさなくて済むし、むしろ自分自身が傷つかなくて済む。そうやって進展も後退もないが、相手と互いに程よい距離感を保って生きていくのが少なくとも自分にはあっていると思っていた。
 しかし、それでは味気ないなと最近気が付いた。学園祭でとある生徒に「俺らの発表見に来てな!」のあとに、「先生の勇気は俺の勇気や!」と言われた時のことだ。言われた瞬間は何のことかよくわからなかったのだが、その言葉を発してくれた時の彼の笑顔と、言葉の持つ明るさが、私の心を文字通り「勇気づけて」くれたのだ。「あなたが勇気をもって行動することで、救われる人がいるんだよ。」と彼は私に教えてくれた。いきなり愛の告白は難しいかもしれないが、次のような一言は思い切って誰かに言ってみてはどうだろうか。
「あなたの笑顔が私を笑顔にする。」
もちろん、言う相手は、友達でも家族でもだれでもいい。
普通の語で表される「非凡なこと」はそのシンプルさゆえに、世界をひっくり返すほどの力がある。間違っても相手を傷つけるようなことはあってはならないし、言うタイミングを計るのも難しいが、皆さん(私も含む)が勇気を出して言える日が来ることを楽しみにしている。
(英語科 藤井)



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2019年9月24日火曜日

人間は善くなり切る事はできません。 絶対に他の生命を損じない事はできません。

今週の一週一言
23日~9月29
人間は善くなり切る事はできません。
絶対に他の生命を損じない事はできません。
倉田 百三(18911943)…劇作家,評論家。故郷は現在の広島県庄原市。
この一言は代表作「出家とその弟子」に記載されている。

【如是我聞】
朝晩は少し過ごしやすくなってきて,蒸し暑い夏もようやく終わるかと思っていたら,今度は家の中で蚊を見つけることが多くなってきた。そして今,職員室の私の前にも…。両手でつぶしてしまおうと思うが,この時期はなかなかに俊敏で,そうこうしているうちにどこかへいってしまう…。
そういえば以前いただいた本に,人間の脳がスーパーコンピューターだとすると昆虫の脳はノートパソコンと書いてあった。人間の脳は昆虫のそれに比べると神経細胞の数は圧倒的に多いので複雑な処理ができる。一方で,昆虫の脳は神経細胞が少ないため,高速な処理できるのだそうだ。しかも昆虫の脳には,もちろん記憶をつかさどる部分があり,学習能力もあるのだという。そうであれば,私が手を必死に動かして昆虫を捕まえようとしても,昆虫から見ればスローモーションで動く障害物ぐらいにしか見えないのかもしれない。人間は巨大だけれど動きの遅い動物,あまりしつこく血を吸おうとするとたまに毒ガスをばらまいてくるから注意しとかなきゃ。そんな程度なのかもしれない。
さらに昆虫は種類や数が多いことも強みです。平凡なものであっても数多くが繋がることができれば,1台のスパコンを凌ぐ力を発揮できる。パソコンやスマホがインターネットで繋がることの凄さを私たちは知っています。もし全世界の昆虫たちの脳がインターネットで繋がってしまったら我々には太刀打ちできそうもありません。妄想するだけ恐ろしいですね…。
さて,今日も朝からたくさんの生命をいただいています。お金を出せば買える時代になって,他の生命を食べ「物」としてしか見られなくなってしまいがちな私です。蚊に血を吸われて逃げられ,虫たちもなかなかやるじゃないかと感じる。たまには「殺生や!」といいながらパチンとたたきつぶす。こんな生命との向き合い方が,自分が「悪人」であることを自覚するのにはちょうどいいのかもしれません。
               (理科: 川西 大祐)






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内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1...