一週一言インデックス

2019年9月24日火曜日

人間は善くなり切る事はできません。 絶対に他の生命を損じない事はできません。

今週の一週一言
23日~9月29
人間は善くなり切る事はできません。
絶対に他の生命を損じない事はできません。
倉田 百三(18911943)…劇作家,評論家。故郷は現在の広島県庄原市。
この一言は代表作「出家とその弟子」に記載されている。

【如是我聞】
朝晩は少し過ごしやすくなってきて,蒸し暑い夏もようやく終わるかと思っていたら,今度は家の中で蚊を見つけることが多くなってきた。そして今,職員室の私の前にも…。両手でつぶしてしまおうと思うが,この時期はなかなかに俊敏で,そうこうしているうちにどこかへいってしまう…。
そういえば以前いただいた本に,人間の脳がスーパーコンピューターだとすると昆虫の脳はノートパソコンと書いてあった。人間の脳は昆虫のそれに比べると神経細胞の数は圧倒的に多いので複雑な処理ができる。一方で,昆虫の脳は神経細胞が少ないため,高速な処理できるのだそうだ。しかも昆虫の脳には,もちろん記憶をつかさどる部分があり,学習能力もあるのだという。そうであれば,私が手を必死に動かして昆虫を捕まえようとしても,昆虫から見ればスローモーションで動く障害物ぐらいにしか見えないのかもしれない。人間は巨大だけれど動きの遅い動物,あまりしつこく血を吸おうとするとたまに毒ガスをばらまいてくるから注意しとかなきゃ。そんな程度なのかもしれない。
さらに昆虫は種類や数が多いことも強みです。平凡なものであっても数多くが繋がることができれば,1台のスパコンを凌ぐ力を発揮できる。パソコンやスマホがインターネットで繋がることの凄さを私たちは知っています。もし全世界の昆虫たちの脳がインターネットで繋がってしまったら我々には太刀打ちできそうもありません。妄想するだけ恐ろしいですね…。
さて,今日も朝からたくさんの生命をいただいています。お金を出せば買える時代になって,他の生命を食べ「物」としてしか見られなくなってしまいがちな私です。蚊に血を吸われて逃げられ,虫たちもなかなかやるじゃないかと感じる。たまには「殺生や!」といいながらパチンとたたきつぶす。こんな生命との向き合い方が,自分が「悪人」であることを自覚するのにはちょうどいいのかもしれません。
               (理科: 川西 大祐)






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2019年9月17日火曜日

行きさきばかり見て足許を見ねば踏みかぶるべきなり。 人の上ばかり見て我身の上の事を嗜まずは、一大事たるべき。

今週の一週一言                     9月9日~9月15日
行きさきばかり見て足許を見ねば踏みかぶるべきなり。
人の上ばかり見て我身の上の事を嗜まずは、一大事たるべき。
蓮如上人…1415年京都生まれ、1499年没。真宗の僧侶。本願寺第8世、中興の祖。衰退の極みにあった本願寺を再興し、現代の本願寺教団(東・西本願寺)の礎を築いた。
【如是我聞】 
今年の8月。私はお盆参りの手伝いをするため北海道の片田舎にある自坊に帰省した。私の故郷は人より牛の数の方が多いという信じがたい事実を抱えた町である。そんな田舎町でお盆参りを回る時は、雑に書かれた古びた地図を1枚だけ持って出かける。私はご門徒さんの家の場所にマークを入れ、張り切ってお参りに向かった。
しかし、車で向かっていたのだがなかなか到着しない。どうやら迷ってしまったのだと気付いた。とっさに私はスマホを取り出してマップを開いたものの、ここは北海道の山の中。当然、電波はなかった。紙の地図を広げてみたものの、周りには家一つなく背の高い木が生い茂っているばかりであるから、どこにいるのかもわからない。結局自分の現在位置を見失ってしまった私は、ぐるぐると山中を彷徨ったあげく、来た道を引き返すしかなかった。こんな歳にもなって山の中で完全に迷子になってしまうというなんとも恥ずかしい思いをしたのであった。
なぜこんな話をしたのかというと、解剖学者の養老孟司さんが「自分とは地図の中の現在位置の矢印」と自身の著作で表現されていたのを思い出したからである。もしも人生が一つの地図だとしたら、いま私はどこに立っているのだろうか。現在位置をしっかりと示すことができているのであろうか。お盆参りの時と同じように迷子になっていないだろうか。
その人生の地図には、世の中を形成している様々な常識や流行というものが記載されている。私はそれらばかりに目がいってしまう。小さなことで言うと、先日は「まだ飲んでなかった!」と謎の焦りを感じ、足早にタピオカジュースを買いに行った。みんながしていることにはとにかく敏感で、置いていかれないようにと無意識にも必死になっている私がいるのである。目まぐるしく移ろいゆくこの世の中で、周りをキョロキョロと見渡し、結局自分よりも他の人やことばかりを気にしてしまう。そんな状態だと、私はここに立っているんだという現在位置というのはなかなかわからないのではないだろうか。
どうしても目先のこと、周りの常識、流行などにばかりに目がいってしまう。その中で自分が今どこに立っているのか。それを明らかにすることはそう簡単なことじゃない。だけれども、そんな私の人生の地図に私の現在位置はどこのあるのか自問自答を続けていこうと感じさせてくれた、そんな今週の言葉であった。足元を見ずに踏み外すことなく、地に足つけて「どうぞこれが私です」と示せるようになりたいものです。

(宗教科 伊藤)




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負いかた一つで重荷も軽い

今週の一週一言            9月16日~9月22日
負いかた一つで重荷も軽い
フィールディング
ヘンリー・フィールディング(1707-1754)…イギリスの劇作家、小説家、治安判事。小説『トム・ジョーンズ』が代表作で、イギリス小説の父と呼ばれている。                                

【如是我聞】
1つのことにとらわれると周りが見えなくなり、視野が狭くなる。また、それが悪循環する。それが私の欠点だ。この言葉は、1つのことにこだわりすぎて見えにくいものでも視点を変えれば見えてくるということに気づかせてくれた。
私は小2から野球を始め、小6から大学までピッチャーをしていた。同じピッチャーとしてメジャーリーグで活躍する大谷翔平選手の球速160km/hを超えるスピードのある球に憧れ、いつかそんな球を投げようと練習に励んだ。だが、私は130km/hしか投げることができず、結果も残せなかった。そんな中、沖縄県で甲子園出場経験のある方からアドバイスをいただいた。「打者は3割打てば良いと言われる。大半は、2割台、残りの78割の確率は抑えられるということ。」考え1つで、力やスピードで勝負せず、自分の持つ力で勝負できるということ学んだ。今でもこれは野球部の指導をさせていただいている中で、選手たちに伝えたいことである。また、今年3月、惜しまれつつ現役を引退したイチローは、4000本安打を達成した際に「4000本安打には、8000回以上悔しい思いをしている。その悔しさと常に、向き合ってきた事実は誇れる」と話した。トップアスリートの物の考え方に驚かされた。
最後に、私が名言好きという訳ではないが、ある先生はこのようなことを仰っていた。「忙しい時やしんどい時に『大変だ。』と口にするが大変という字は大きく変わる、と書く。だからそのような時こそ自分が大きく変われるチャンスだ。」自分もいつか人にこのようなことが言える教師になりたい。

(保健体育科 園田)




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2019年9月13日金曜日

どうしやうもないわたしが歩いてゐる

今週の一週一言                   9月2日~9月8日
どうしやうもないわたしが歩いてゐる
 種田山頭火(1882-1940)…山口県生まれのの俳人。1925年に曹洞宗の寺で出家得度した。
【如是我聞】 
昔、ラジオでこんな話を聞いた。ポップスでもロックでも、たいてい1曲の長さは3分から4分、長くて5分である。なぜか?ラジオで曲をかけられる時間がたいてい1分数十秒である。販売者側、ミュージシャン側にとってみれば、その時間で曲の「一番美味しい」ところ(サビ)まで流れないと、リスナーに対する宣伝効果が無くなってしまうからだ。それを聞いたとき、なるほど世間の曲はみんなそうだなぁと思った。同じ頃に出会った曲がある。Led ZeppelinStairway to Heaven(天国への階段)である。多くの曲が5分以内でAメロBメロサビの繰り返しであるのに対して、この曲は8分超の大作に加え、AメロBメロCメロ→…と、まさに天国へ階段をのぼっていくかのごとく展開を続けるのである。ラジオの宣伝効果などまだそれほど考えられていない時代だったからかも知れない。が、この曲に「自由」を感じた。「何かに束縛されて作り上げる芸術はロックではない」と。
高校生のとき、国語の時間に同じような経験をした。俳句を扱った単元で、教科書にこんな句があった。「歩きつづける彼岸花咲きつづける」種田山頭火の句である。「えっ?どこが俳句なん?」五七五しかないと思っていたので、自由律というものを初めて知った。五七五と思っている私にとって全然俳句という感じはしないのだが、いつこの句を見ても、脳裏には赤い花の群生する様子がとても鮮やかにうかんでくる。とても好きな句である。
山頭火の句でこの文章を書くにあたって少し調べてみた。山頭火の人生は小さい頃から良いことが無く、うまくいかないことばかり。あるとき未遂に終わるものの自殺を図り、その後出家して禅寺へ入る。これが人生の転機となり、旅をしながら俳句を作り続けるようになる。どうやらこの旅も一筋縄ではなかったようだ。結局、生涯、人生に迷い続けていた人なのかも知れない。
山頭火に限らず、誰しも人生に迷うという瞬間があるのだろうと思う。今年、私は山頭火が自殺未遂をしたのと同じ年になった。偶然この年にこの文章を書くことになったので、山頭火や昔好きだった音楽のことをいろいろと思い出したり、調べてみたりした。これらが、改めて「自由」の偉大さを思い出させてくれたような気がする。

(理科 小倉)




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2019年6月18日火曜日

逆境は、我能力の達し得る範囲外にあるものにして、 反って我力を増長するものなり。

今週の一週一言                  
月17日~23日
 逆境は、我能力の達し得る範囲外にあるものにして、
 反って我力を増長するものなり。


  清澤満之
   18631903,名古屋市生まれ。本校初代校長。宗教家、思想家、哲学者。

【如是我聞】 
『ハイキュー!!』(古館春一作・集英社)という漫画がある。高校バレーを題材にした「劇的青春」というコピーが付く作品だ。中高と、こっそりかつひっそりとバレー部にいた私としては、『アタックNo.1』(約50年前)の鮎原こずえに胸躍らせて以来、久しぶりにのめりこんだバレー漫画である。その中のあるシーンで、主将の澤村大地がこういう。
「壁にブチ当たったときは、それを超えるチャンスだ。」
 20年ほど前、小野伸二というサッカー選手が、オランダのチームへの移籍を発表した。浦和で3年ほど活躍して、まだ、20歳そこそこだったと思う。記者会見では厳しい質問が飛び交った。「ヨーロッパで自分のサッカーが通用すると思っているのか?」。こう聞かれた彼は、次のように応えたと記憶する。「それはわからない。でも、そういう、今の自分が通用するかどうかわからないような所に身を置きたい」。
 当時の私は、それを聞いてこう思った。「Jリーグで、ようけお給料もろてはんのに、無理せんでええやん。もったいないな~」。
 小野選手は当時の日本よりはサッカーレベルが数段高い慣れない地で自らを鍛えなおし、レギュラーをつかんだそのシーズンで優勝する。自分の中で感じていた壁を超えたようだ。
 我らが初代校長清澤先生は、生きていると何をやってもうまくいくような恵まれた時、順境があるという。逆に何をやってもうまくいかない、または、思ってもみなかった事態に遭遇し行き詰るときもあると。それが逆境だろう。そして、順境はたしかに居心地もよく楽しいのだが、自分が育てられるのはむしろ逆境の時であるとおっしゃる。その時に持てる能力や知識や経験では乗り越えられない、そんな境遇に身を置かれて、逃げ出したいのをぐっとこらえて耐えるとき、もがくとき、悩むとき、新たな人間力が育まれるのだと。


わかる。でも、簡単にはそうは思えない。心折れ、胃が痛くなるような体験はできれば避けたい。もし、そこに落ち込んでも、素通りをするか、すぐに抜け出したいと思う。しかし、清澤先生はおっしゃるのだ。「その時その場でしか学べないことがあるのに、ピンチをチャンスにしないなんて、もったいないよ」と。行き詰まりをチャンスにできるか。しんどい時に思い出しては支えにしたい。そんな今週の言葉であった。        乾 文雄(宗教・英語)




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2019年6月3日月曜日

ちる花の 枝にもどらぬ なげきとは  思ひきれども 思ひきれども 小林一茶

今週の一週一言
                                 月3日~6月9日
 ちる花の 枝にもどらぬ なげきとは 
思ひきれども 思ひきれども
小林一茶…17631827 江戸後期の俳人。信濃柏原生まれ。俗語や方言を使いこなし、自身の経歴からにじみ出た主観的・個性的な句を多く残す。
【如是我聞】
一茶は52歳で結婚し、4人の子どもを授かるがすべて夭折してしまう。孫と言ってもいいくらいの子どもたちである。憔悴する一茶を前にして、私ならどのような接し方ができるだろうか。おそらく沈黙に耐えられず、間が持たない。その間を埋めるために、いらぬ言葉を並べ、余計な正論を言いたくなるだろう。正論を説く人の言葉や目つきは時として冷たいものだ。最悪の対応である。
かつて大学の受験日を間違え、泣きながら学校にやってきた女子生徒がいた。担任の先生は、その生徒に対したった一言「よ~あることや。しょうがない」と言いながら頭をポンポンとたたき、ニコニコと微笑んでおられた。横で見ていた私は受験日の間違いなどそんなによくあることではないだろうと思いながらも、徐々に生徒が落ち着きを取り戻していくさまを目の当たりにして、すごい対応力だなあと感心したものだった。
経典では「身自当之 無有代者」〈身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし〉と説く。どのような苦悩に出遇ったとしても、誰も代わってはくれず、自らこの苦悩を引き受けていかねばならない、という。一茶の場合は代わってやりたくても代わってやることができない。そんななげきなのかもしれない。こちらの方が奥が深いと最近思う。

 一茶は「露の世は 露の世ながら さりながら」という句も残している。世界最高水準の長寿を誇る現代の日本では、この世が「露の世」という感慨は一見、消失したように見える。しかしその状態に幸福を感じ、満足することが出来ないのは何故だろう。      (宗教・社会科 山田)




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経教はこれを喩うるに鏡のごとし  善導『観経疏』

今週の一週一言
                                  527日~62
経教はこれを喩うるに鏡のごとし
                 善導『観経疏』
善導大師(613-681)・・・中国、唐の時代の僧。長安で「称名の念仏」の教えを説き、広く民衆を教化する。後の法然上人、親鸞聖人にも大きな影響を与える。
【如是我聞】
 仏教は昔のもの。お寺は観光客と人生に疲れた人のためのもの。わたしはお寺に行くよりもショッピングが好きで、そういうものとは死ぬまで無縁だと思っていた。
 友人に誘われ仏教を学びだした頃。これが一体何になるのかと疑義を抱いたまま、とにかく単位を落とすのは恥ずかしいという思いだけで寺っ子達と講義を受けていた。この人達は将来お坊さんになるのに、ならないわたしはこんなところで何をしているのか…。しかしその2年後、あと数単位で取れる社会の教免を捨て、片道2時間半かけて他大学まで仏教学を受講しに行くわたしがいた。「仏教の授業は何かが違う!」今まで学んできた教科とは明らかに違うその感覚が忘れられず、仏教と名の付く講義を片っ端から履修していった。
 今思えば、そこで学んだのは自分自身のことだった。当時のわたしは中身なんて外から見えないから、見た目が良かったらいいと思うところが強く、むしろそのくらい適当に生きたほうが上手くいくのではないか、と人生を楽観さえしていた。ベテランの先生方が穏やかに語る釈尊とその教えのなかに自分を重ねていくなかで、とんでもない自分の本性が浮き彫りになる。「…わたしってもっと素敵な人間やと思ってた。」絶句しながらもせっせと心の垢を払ってみる。帰り道は、まるで温泉街で誰の目も気にせずスッピンで歩いているときのような清々しさがあった。
 仏教は正しさを教えてくれるものではなく、わたしのほんとうの相を教えてくれるものである。表面上の生き方に酔っていたわたしは、ただ動いているだけでまったく生きていなかった。そのことに気付かされて初めて、わたしはわたしとして具体的に生きていく力をいただいた気がする。そんなわけで宗教の授業では、生徒と共に自分を見つめ、ハッとするような瞬間を共有したいと思っている。

ところで最近、「おはよう、今日もかわいいね」と言ってくれる鏡が売っているらしい。もしもこの先、ロボの知能がわたしを超え、「かわいいね、中身は知らんけどな」と言い出したら…。うちのお掃除ロボが「きれいになったよ、心の中は知らんけど」と、わたしを見透かしだしたら…。そっと電源を長押しするしかない。自分の思いでしか他と関われない悪衆生は、自分の真実にどこまで背を向けるのか。謙虚であれ、邪見のわたし。                                          (宗教科・英語科 高橋愛)




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2019年5月21日火曜日

知識があろうとも、教えを聞くことがなければ、 善悪のことがらを識別できない。

今週の一週一言
5月19日~5月24
知識があろうとも、教えを聞くことがなければ、
善悪のことがらを識別できない。
ウダーナ・ヴァルガ・・・ブッダが語った言葉を短い詩文で伝えるサンスクリット(梵語)の韻文経典。「ウダーナ」とは「こみ上げてくるもの」というほどの意味で、誰に問われるでもなく、ブッダがふと口にした言葉を集めたものであるとされる。伝統的には「自説経」などとも呼ばれ、中村元博士は「感興のことば」と訳した。


【如是我聞】
最近の話。データを整理していたら、不意に大学時代のものが出てきた。そのなかに、大学の先生方の講義の録音データがたくさんあった。当時の私はICレコーダーを用いて講義を録音することに無上の喜びを見出しており、先生方に許可を得ては、いそいそと録音し、データを保管していたのだった。
卒業以来、9年ぶりの再発見。久しぶりに先生方の「声」を聞きたくなった。そこで手作業をしながら録音を聞くことにした。なつかしい声がきこえる。ああ、○○先生、この頃はお元気だったな。△△先生の冗談、私たちのレベルに合わせてくれていたんだな。録音を聞きながら、次第に感傷的な気分に浸っていく私だったが、ある瞬間、驚きのあまり、手が止まってしまった。しばしの絶句ののち、何度も巻き戻して同じ箇所を聞いた。開いた口がふさがらない。
 何に驚いたかというと、最近、私が自分で考えていると思っていたこと、自分で気づいたと思っていた事柄が、当時の講義のなかで既に先生が言ってくれていたのである。すなわち9年前に受けた講義のなかで、先生が平然と語っておられるそのことを、私は、講義で聞いたことなどすっかり忘れて、「自分はここ2、3年で、こんなことを考えるようになった」と思い込んでいた。なんと愚かな。なんと恥ずかしい。まるでお釈迦さまの掌の上の孫悟空である。
 録音当時の学生時分の私は、その部分について、聞き流していたのか、さほど重要でないと思ったのか、あるいは寝ていたのか…。ともかく、覚えていない。ものすごく大事なことを教えてくれていたのに。なんともはや、自分で気づいたとばかり思い込んでいたテーマに、既に先生が出遇わせてくれていたのに。私は通りすぎてしまっていた。しかも、このたびの録音データという縁がなければ、通りすぎていたことにすら気づけなかっただろう。
私たちは、「この話はためになる」とか、「この話は重要ではなさそうだ」とか、自分のモノサシで○×をつけていく。話の内容どころか、人間相手にすら、そうである。そしてそれに疑いを持つことすら、滅多にないのではないか。その傲慢さ。出遇っていながら、出遇っていない。出遇ったことにすら、気づいていない。自分が無意識に×をつけたもののなかに、本当は宝物があったかもしれない。
なるほど、これでは「大疑団」や「両忘の境地」などは、遥か彼方である。
 無明というかなんというか。嗚呼、もはや文章でくどくど述べることすら、おこがましい。ただ黙って虚心合掌するのみである。                   (宗教・国語科 阿賀谷)






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2019年5月20日月曜日

善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり

今週の一週一言
                                  513日~519
善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり
正像末和讃・・・『浄土和讃』『高僧和讃』と合わせて『三帖和讃』と呼ばれ、親鸞聖人85,6
        頃の成立とされている。聖人最晩年の信仰の深まりが表出した和讃である。
【如是我聞】
よしあしの文字をもしらぬ人はみな まことのこころなりけるを
善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり

「先生〇〇もできるん!すごいなぁ」「これくらいは大人やったら誰でもできるで」「色んなこと知ってるやん!さすが!」「そんなことないって。知らんことの方が多いわ」「若いのにイロイロ知っててすごいねぇ」「いえいえ大したことないです。全部受け売りです」
そう受け答えしながら、内心ニヤニヤがとまらない私がいる。「そんなことも知ってはんの!やっぱり先生はすごいなぁ」なんて言われた日には、口角を戻すのに1日かかる。中Ⅰ担任を拝命し、1ヶ月ちょっとが経った今、そんな機会が多くなってきている。
知識を蓄えれば蓄えるほど、頭が良くなった気になり、周りよりも賢く、偉くなった気分になる。そうして、自分で発見したわけでもない受け売りの知識をさも自分の手柄のようにひけらかし、分かっていなさそうな生徒に「大丈夫か?分かるか?」と気を使っているふりをしながら、自己満足な授業を繰り返している私がいる。全く「まことのこころ」を見失っているのは誰のことなのか。
さらにタチの悪いのは、「私は何でも知っている。分かっている」という自分の価値基準を中心とした尺度を疑わない思い込みこそが、自分の都合を拠り所とする迷いの世界に生きている私であるという、身の自覚を妨げているのかもしれませんねなどと方々で話して回っているということだ。
学べば学ぶほどに、知識を蓄えれば蓄えるほどに「ひけらかしたい」という叫びを抑え込むのに必死で、それを抑えきれずにどんどん傲慢になっていく私がいる。その結果、これは善い、あれは悪いなどと自分の価値基準によって判断し、分かったようなつもりになっていることにも気付かず、自分の傲慢さには目も向けない毎日を送っている。時折こうして立ち止まって考える機会をいただいたときに、そんな自分の愚かさに気づかされる。はぁまたまたやってしまった。こんなとき、いつも決まって聞こえてくるのが昭和を代表するコメディアンのあの歌だ。
分かっちゃいるけど、やめられねぇ
(宗教・国語科 三村)


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2018年12月12日水曜日

善を積んで自分を見失うこともあれば悪に触れて目が覚めることもある善悪の二つ人のためならず

今週の一週一言                                12月3日~12月9日
「善を積んで自分を見失うこともあれば
     悪に触れて目が覚めることもある
 善悪の二つ人のためならず」
   仏光寺八行標語
仏光寺八行標語
仏光寺の壁面に八行にわたって書かれている標語。
【如是我聞】
 善いことはなるべくした方がいい、悪いことはなるべくしない方がいい。これならば、私は大変わかりやすく読めます。しかし、そうではないのです。
 善いことをしている自分、、、と考えてみると随分と偉そうな態度を取っている自分が目に浮かびます。例えば、私の授業を受けている生徒はよくわかると思いますが、宗教の授業の私は暗い男です。しかし、ごく稀に元気な時があります。この元気な時はどういう時かと言いますと、自分に自信がある時なのです。自分に自信があり、教壇に立って偉そうに良いことを言っていると思っている時なのです。こういう時ほど、人間は危険です。ある人が仰っていました。「自分が正しいことをしていると思っているときが一番危険だ」と。そして、「自分が悪いことをしているという意識が無いからね」と続くのでした。これを言われたとき、私は何も言えませんでした。(心の中ではうるせぇとは言っていましたが、、、)
 これ程までに自分に無自覚なのです。誰かに言われないと気付きませんし、一回や二回言われたぐらいで良くなるような私でもありません。頑張ることや自信を持つということ自体は当たり前に大切です。しかし、頑張れば頑張った分、自分を自慢したくなり、時には頑張った自分を元気に、そして偉そうに語ります。そして、時には頑張って疲れているアピールとして暗い顔もします。こんな私です。
しかし、こんな自分を「アホ、結局すべて自己満足じゃないか」と喝を入れてくれる人がいるのです。それが先生、先輩、友人です。自信満々な私、自信が無く暗い顔をした私、このどちらも「お前の自己満足だ」と打ち破られるその時に、「あぁそうだった」と不思議にも喜びが起こってくるのです。
無意識に心の内では、何に対しても善悪をつけている自分がいるのではないでしょうか。元気な私が善、暗い私が悪、というようなものです。逆も言えますが、自分の都合に合うものは善、合わないものは悪と無意識に分けて生きているのです。
結局、善悪はわからないのです。しかし、その分けて作った善悪が破れた時、善悪の知らない私そのままに喜びが湧きあがってくるのです。
こんなことをうじうじと考えながら、「顔元気ないよ?大丈夫?」という皆さんの言葉に励まされ、それを都合よく捉え、私の奥底で偉ぶりたい東山が成長をとげています。この偉ぶりたい東山を刈り取る努力もしなければいけないのに。

(宗教科 東山)




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内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1...