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絶対の帰依こそ宗教である

一週一言 9 月 25 日~ 10 月 1 日                                   絶対の帰依こそ宗教である               柳 宗悦      柳 宗悦 (1889 ~ 1961)   「民 藝 運動の父」と呼ばれる。武者小路実篤や志賀直哉らとともに雑誌「白樺」の発刊に携わる。心霊現象やキリスト教神学などの研究や、西欧近代美術の紹介につとめる。 【如是我聞】   2000 年頃、雑貨屋で手に取った銀色のカトラリーは、主張が派手すぎず、食事をするのによさそうな形だった。当時の私には誰のデザインかもわからなかったが、その洗練されたフォルムに惹かれ、購入した。このカトラリーは今も我が家の食器棚に入っている。お気に入りの食器のひとつだ。 この食器を作ったのは柳宗理。家具やキッチンツール、食器など生活にかかわる工業デザイナーである。彼は戦後に出回った商業主義に偏ったものや流行に左右される製品に対し、素材や機能を踏まえたうえでの、質の高いデザインを旨とした。没後もその精神は「柳工業デザイン」として、新たな意匠を生み出しつづけている。私が思わず手に取ったカトラリーにも、その想いが詰まっていると言っていいだろう。  柳宗理に大きく影響を与えたのは、実父の柳光悦だ。李朝時代の無名の職人の手になる食器などの美をいち早く評価した人物であり、「民芸運動の父」とも呼ばれている。とりわけ「仏教美学」は光悦が生涯をかけて構築した、仏教思想に基づく新しい美学の集大成であり、柳自身の美的体験に深く根ざすものだったといわれている。  光悦は民衆の食器が持つ魅力は「信と美」の深い結びつきの結果だと考え、「凡夫も救いからもらさぬ仏の力」、すなわち阿弥陀仏の本願力の恩恵に他ならないと結論づけた。なるほど生活用品ほど庶民の暮らしとともにあり、使い勝手の良さという“知”をもって、人々をサポートするものはない。民芸品も、人々にそっと寄り添い助ける、阿弥陀の無限の知恵のひとつのあらわれなのだ。そこに崇高な美が宿るのは、柳の思想として当然の帰結だったろう。  あれから 20 年以上の月日がたち、私もいろいろなことを経験してきた。年をとるにつれて社会の変化は気にならなくなり、泰然自

非暴力とは戦術ではなく生き方だ

一週一言 9 月 18 日~ 9 月 24 日                                   非暴力とは戦術ではなく生き方だ               ロナルド・デルムス      ロナルド・デルムス( 1935-2018 )・・・アメリカの政治家。 デルムスは、カリフォルニア州下院議員やオークランド市長を歴任するなど、 1900 年代後半に活躍したアメリカの政治家である。彼は最初、黒人至上主義を掲げる過激派のブラックパンサー党に所属していたが、キング牧師の演説を耳にして以降「非暴力」を掲げ、あらゆる戦争や差別に反対した。 【如是我聞】  私はデルムスについて、この原稿を書くにあたって初めて知った。ネットなどで彼の思想や活動を調べていくと、ベトナム戦争などの全ての戦争に反対したようである。ただ私が驚いたのは、ベトナム戦争反対運動で若者と警察が衝突した際、デルムスは両者の間に入り「非暴力」を訴えたという点だ。若者の「戦争反対」という信念がいかに正しかったとしても、それを実現するための暴力に反対の意を示したデルムスの姿は、まさしく「生き方としての非暴力」を体現していた。私は思わず心のなかで「めっちゃかっこいい!」と叫んでしまった。おそらくパソコンをみている私の顔はニヤニヤしていただろう。画面が真っ暗でなくてよかった……。それはさておき、このデルムスの思考に触れるなかで、ある思想家の言葉を思い出した。それが『ペスト』でお馴染みのアルベール・カミュ (1913-1960) である。 わたしは、暴力が避けることのできないものだと考えています。 ( 中略 ) ただ、あらゆる暴力の正当化を拒否しなければならないというのです。その正当化が、絶対的な国家理由から由来するにせよ、全体主義的な哲学から由来するにせよ、拒否しなければなりません。暴力は、避けることのできないものであると同時に、正当化することのできないものなのです。 アルベール・カミュ「エマニュエル・ダスティエ・ド・ラ・ヴィジュリーへの二通の返事」『カミュ全集 5 』(新潮社、 1973 年)、 180 頁 カミュは、この文章で暴力がなくならないという「不条理 absurdité 」に触れつつ、いかなる暴力

真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。 新たな目で見ることなのだ。

今週の一週一言 7 月 3 日 〜 7 月 9 日 真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。 新たな目で見ることなのだ。 マルセル・プルースト マルセル・プルースト (1871-1922)  パリ郊外のオートゥイユ(現・パリ市)生まれ。代表作の『失われた時を求めて』は後世の作家に強い影響を与え、 20 世紀の西欧文学を代表する世界的な作家として位置づけられている。 【如是我聞】  歳のせいだろうか、最近通勤途中で困っている人を見かけるとどうしても見過ごせない。目の不自由な人、足の不自由な人、こないだは駅の乗り越し精算機の前の列が縮まらないのでよく見るとお婆さんがコインを入れようとしているところだった。そもそも精算機の使い方もままならないのだが、震える手では硬貨が入れられない。「私、やりましょか?」というと頼みますー、とのこと。重いカバンを持っているお年寄りがいたらつい「私、運びましょか?」だし、目の不自由な人に出会うと「白杖ガール」を思い出す。私の周りの日常はそんなに変わっていないはずなのに、次々と困っている人が出現するからさながらパラレルワールドのようだ。  こういうことって、マルセル・プルーストならどう答えるだろうか。 ChatGPT になり切って答えてもらった。紅茶にマドレーヌを浸したときの気持ちを聞いたら、それなりの答えが返ってきたので、このように尋ねてみた。「 最近出会ったおばあさんは震える手でコインがうまく掴めず、困っていました。今までなら気づかなかったのですが、私はどうしても立ち止まって彼女を助けたくなり、声をかけました。それはまさに新しい景色ですか。」   ChatGPT の答えはこうだった。    あなたがおばあさんに声をかけて助けるという行為は、単に新しい景色を探すことではありません。それは、新たな目で見ることなのです。これは、あなたが以前とは異なる視点や意識を持ち、社会的弱者の存在に気付いたことを意味します。おばあさんの困りごとに気付き、声をかけて助けることで、あなたは社会的弱者に対する新たな目で物事を見ることができました。これによって、彼女の立場や経験に共感し、彼女の困難を理解することができました。  このエピソードは、私たちが予測可能な枠

人間は怒りと寂しさの処理で人生を間違える

今週の一週一言 6 月 19 日 〜 6 月 25 日 人間は怒りと寂しさの処理で人生を間違える 加藤諦三 加藤諦三( 1938 〜 )  日本の社会学者。 1972 年からニッポン放送のラジオ番組『テレフォン人生相談』のパーソナリティを務めている。 【如是我聞】 大学時代に短期間であったが、学習支援員として小学校にボランティアで行っていた。そのときに、「先生はなんでいつも笑ってんの?」と担当していた小学 3 年生の女の子に言われたことがある。先日も「先生はいつも笑顔やなぁ。」と高校 1 年生に言われた。「そりゃあ、笑っているほうが楽しいからでしょ。」なんて、返したかどうかは覚えていないが、そう思っている。それでも、疲れてくるといけませんね。すぐにイライラしてしまいます。普段だったらそうでもないんだろうけど、自分に余裕がないと、ちょっとしたことにイラっっっっッとしてしまうのです。 そんなときは高校生のときからのクセで、その負の感情の原因をぐるぐると考えてしまうのです。 Q :「なんでこんなイライラしてるんやろ?」 A :「あいつがあれをせんかったからや。」 A :「またオレがせなあかんのか。」 A :「なんでオレがせなあかんねん。」 A :「もうオレがやればいいんでしょ。」 ぐるぐる考えたわりには単純で、そしていつもだいたい同じような結論に至り、さらにイライラが増してしまうことが大概だ。余計にしんどくなるなら、考えなきゃいいのにね。そこまでの達観はなかなかできない。この堂々巡りを少し紐解いてみると、このイライラのなかには「誰か助けてくれよ」という気持ちがある気がする。そして、その気持ちの中には、「自分のことを助けて然り」と考えている存在がいるのではないか。それじゃあ、このイライラの端を発しているのは「ぼく寂しいよ」という思いなのかもしれない。 もし、人が生まれてからずっと一人きりで生きていったとして(英文法で言うところの仮定法の世界なのでうまく想像できないが)、「怒り」という感情はあるだろうか? ありそうな気がする。例えば、足の小指を何かでぶつけたら、「コノヤロウ!!」と何でもないその痛みの原因に対して怒る気がする。「寂しさ」はどうだろう? 寂しいと感じるのは、自分の心

時間の自由には二つのものがあるのではなかろうか。 自在に時間を配分する自由、もう一つは失われることのない、 今という時間を自在につくりだす自由である。

今週の一週一言                                   6 月 12 日~6月 18 日 時間の自由には二つのものがあるのではなかろうか。 自在に時間を配分する自由、もう一つは失われることのない、 今という時間を自在につくりだす自由である。 内山 節『自由論―自然と人間のゆらぎの中で』  内山 節  哲学者。立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科客員教授。特定非営利活動法人森づくりフォーラム代表理事。 【如是我聞】 2 023年本屋大賞・高校生直木賞を受賞した、『汝、星のごとく』 ( 凪良ゆう著 ) を読んだ。主人公は二人の男女の高校生。彼らの恋愛を軸に、その後二十年に渡って彼らの生き方を描く。舞台は愛媛県のとある小さな町。閉鎖的かつムラ意識の強い地域だ。彼らは嫌悪し高校卒業後、ともに上京を志向する。やがて彼の方は上京を果たし、一定の成功を収める。一方の彼女にはさまざまなアクシデントが生じ、田舎に残される。運命は無残にも彼らを結び付けず、二人は互いへの思いを持ちつつも、それぞれ新たな彼、彼女と出会い別々の人生を歩む形でストーリーが展開する。 それから二十年、紆余曲折を経てお互いが探し求めていた半身同士だったことに改めて気づくが、彼が病魔に倒れ夭逝することで結末を迎える。その刹那、帰省した二人は満天の星の下でおだやかな瀬戸内の海を見ながら、あれほど嫌っていた故郷を振り返る場面がある。こんなすばらしい所で生まれ育ち、二人が出会ったのだと。彼の死で、重く悲劇的な幕切れのように見えるが、むしろ軽やかな思いさえ持てたことが印象に残る。今でも彼らの弾んだ会話が聞こえてきそうでインパクトのある感動作だった。  さて、表題にある二つの時間の自由である。内山節氏のこの『自由論』の中には、後者についてこんな話が出てくる。ある老人が若者に語りかけるシーンだ。「私は八十年近く生きたから、もう十分に生きたし、それほど生に執着することもないだろうと思うでしょう。ところが、生きるということは年齢で変わるものではないことがわかってくるのですよ。私も、あなたも、生まれたばかりの子どもも同じように生きているのです」。老人は、「もう一つの時間」を「自分がこう生きたいと思った時間を、実現

遠いものは大きく、近いものは小さくみえるだけのこと

今週の一週一言 5 月21日~5月27日 遠いものは大きく、近いものは小さくみえるだけのこと 耳をすませば バロン    耳をすませば…スタジオジブリのアニメでも知られる、柊あおいのベストセラーコミック。 1989 年に少女まんが雑誌『りぼん』で連載。                                     【如是我聞】   「残念―。今日の12位はうお座のあなた。ラッキーカラーは赤、ラッキーアイテムはアロハ柄のものです!」赤のアロハ柄…。あったら良いが、なかったら最悪の一日。そんな時は必殺、別のチャンネルの占い!今度は10位くらいだったりして、ホッとする。    今日一日くらいならまだしも、月刊誌では今月のわたしが決まってしまうし、手相なんて一生!?もう油性ペンでシワを書き足したい。幸運のメイクに幸運のブレスレット…全部やったらキリがないが、一個より二個のほうが効果がありそう。   未来への不安は尽きない。しかし救われたい一心でわたしの主体性がなくなり、わたしの生き方が見失われることがある。そういう生き方を親鸞聖人は「悲しきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」とおっしゃった。   わたしたちは生まれながらに自分さえ良ければという煩悩を身にまとっている。それはまるで甲冑を着ているようであり、その姿を煩悩具足という。その甲冑の重さで身動きが取れなくなってしまっては意味がないのではないか。わたしがわたしらしく生きるために、わたしの弱さを知ることも大切なのかもしれない。                                  (宗教・英語科 髙橋愛) >>> トップページへ https://www.otani.ed.jp

ケシゴムの本当の役割は 間違いを消すことじゃなくて、間違えたっていいんだよって、 えんぴつを安心させることだ

今週の一週一言                                   5 月 15 日~ 5 月 22 日 ケシゴムの本当の役割は  間違いを消すことじゃなくて、    間違えたっていいんだよって、 えんぴつを安心させることだ                        「ケシゴムライフ」より                                    「ケシゴムライフ」・・・ 2014 年出版されたコミック。 日本初の漫画家育成ファンドの対象作品。 本当に人はずっと孤独なのか・・・。どこにでもあるような普通の高校を舞台に、青春の時を過ごす高校生たちのつながりを爽やかに描く、オムニバス形式の短編集。著者は羽賀翔一( 1986 ~)。茨城県出身。学習院大学卒。 2010 年『インチキ君』で第 27 回 MANGA OPEN 奨励賞受賞。 現在Twitterで「お題マンガ」として日々1ページ漫画をアップしている。   【如是我聞】   五月病の季節になった。予防には、腸内環境を整えるのがいい、と朝の情報番組で耳にした。それには発酵食品! 納豆や味噌汁、そしてヨーグルトらしい。どれほど前になるのか、カスピ海ヨーグルトなるものがはやった。たしか、我が家でも母が製造していたように記憶している。しかし、自家発酵させると毒化する可能性があり危険、という専門家の意見で一気に消え去った。発酵にもいろいろあるようで、それで体内環境を薄幸にさせるわけにもいかぬ(ダジャレです)。 人間が生きていれば、間違いも犯すし、傷も負う。問うまでもなくネガティブなことだが、実は意外と「傷」には「毒」ばかりではなく、効用も存在している。 消える間違いと消えない間違い。最近はICT化の暴走で、ずいぶんと消えなくなった。でも、もともと消えないものじゃなかったのかな。気分転換も忘却も処方箋としては大はずれ。あまたの細菌が繁殖しだす。じっくりと自分で塩を塗っていくのが、荒療治でも正解か? 間違ったり、傷付いたり、でもそこが足場になれば自分自身は変わっていけるかもしれない。 “あのこと”によって今の僕がある、と言えれば発酵完了ということになるのだろうか。               

しんのすけ とうちゃんが人生で一番幸せだと思ったのは お前とひまわりが生まれたときだ

今週の一週一言 5 月 8 日 〜 5 月 14 日 「しんのすけ とうちゃんが人生で一番幸せだと思ったのは お前とひまわりが生まれたときだ」 野原 ひろし(「クレヨンしんちゃんより) 野原 ひろし  漫画「クレヨンしんちゃん」の主人公、野原しんのすけの父親。一家の大黒柱として家族を支える。家族を傷つけるものや、悪に対しては立ち向かっていく正義感の強さの持ち主であり、情に厚く、涙もろい性格である。 【如是我聞】  かくばかり 偽り多き世の中に 子の可愛さは誠なりけり この4月、我が家に大きな変化が訪れた。私が定年を迎えたなどというのは小さなことで、一人娘が家を出たことが一大事であった。「家を出た」と言っても、むろん家出した訳ではなく、就職で一人暮らしを始めたわけである。  娘はもう二十六歳なので、順調にいっていればもう3~4年前には社会に出ていたはずなのだが、それが ( 詳細は省くが ) いろいろあって今年まできてしまっていた。本校でも何年も前から、娘と同年の先生が何人も勤めておられ、皆さん立派に働いておられるのを見るにつけ、それに引きかえ…といつも思っていたが、ついに遅ればせながら娘も社会人の仲間入りを果たしたのである。  会社を選ぶ際、京都という選択肢もあったようで、迷っている様子だったが、娘は結局、勤務地が遠いほうの会社を選択した。実のところ私としては、家から通えるところを選んだ方がよいのではと思っていた。というのは、娘はいい年をして炊事洗濯や掃除といった家事全般のことはみんな親がかりで、自分はほとんど何もしていなかったので、大丈夫かなという不安があったのだが、本音を言えば家にいてほしいというのが第一であった。しかしながら、親のエゴを押しつけて、せっかく自立しようとしているのを妨げてはいけないと思い、やせ我慢をして口をつぐんでいた。  3月末にバタバタと引っ越しを済ませ、その後いったん帰ってきて、この4月の初めにいよいよ本格的に家を離れるということになり、駅の改札で見送って姿が見えなくなった後、寂しさがこみ上げてきて不覚にも涙がこぼれた。妻と二人だけになってみると、娘のいた部屋はガランとして、そこだけポッカリと穴があいたようである。  冒頭にあげたのは、「藪入り *

悪魔は誘惑しない。誘惑するのは自分自身である。

今週の一週一言 2 月 13 日 〜 2 月 19 日 悪魔は誘惑しない。誘惑するのは自分自身である。   ジョージ・エリオット( 1819 〜 1880 )  イギリスの作家。本名はメアリー・アン・エヴァンズ。 女性作家は陽気なロマンスしか書かないという固定化されたイメージから逃れるため男性名のペンネームを使用した。 彼女の作品である『ミドルマーチ』は英語で書かれた最高の小説のひとつに数えられている。 【如是我聞】  イギリスの作家であるジョージ・エリオットの言葉であれば、原文は英語であろうと思い、まずはインターネットで調べてみた。 No evil dooms us hopelessly except the evil we love, and desire to continue in, and make no effort to escape from. 『 急進主義者フィーリクス・ホルト( Felix Holt, the Radical )』 1866  見つかった英文を今流行りの DeepL にかけてみると、「私たちが愛し、続けたいと願い、そこから逃れようと努力しない悪を除いて、私たちを絶望的に破滅させる悪はありません。」機械翻訳の精度がここまで向上したことに感動しながら、今回のテーマとなった日本語とは少し異なるなぁなんて思った。 ここで使われている “evil” ってのは “devil” とスペルも意味も似ているなぁなんてことを思いついてしまった。そこで、最近ハマっている単語の歴史(語源)の深掘りをしてみることにした。まず、ジーニアス英和大辞典を見てみると、 evil は「 12 世紀以前に初出し、古英語の yfel [限度を超えている]が原義」とあった(ちなみに昔の f は /v/ とも発音されていたので、今の綴りとも合致する)。 devil もほぼ同じ綴りなので、同語源ではあるまいかと思い、同辞書を当たると、「 12 世紀以前に初出し、ギリシア語の diabolos [悪口を言う人(悪いやつ→悪魔)]が由来」とあった。おお、元となる言語すら違っていた。 続けて Oxford Advanced Learner’s Dictionary の語源コーナーも見てみた。 ev

何をするかよりも、もしかしたら大切なこと。“誰とするか”。

今週の一週一言                                   1 月 30 日~ 2 月 5 日 何をするかよりも、もしかしたら大切なこと。“誰とするか”。 Real Clothes より Real Clothes  槇村さとるによる漫画。百貨店の婦人服売り場で働く女性販売員に焦点を当てた「働く女性」を描いた作品。 【如是我聞】  昨年の 6 月 24 日(金)のことである。本山で研修があり、 7 時過ぎに京都駅に着いた。集合は 8 時。時間があるのでコーヒーでも飲もうと、近くにあったカフェに入った。屋外のテラス席があったので、空いているテーブルについて、携帯に「大谷翔平」と打って動画を見ることにした。この 2 日間の彼の活躍はすさまじい。ホームランを 2 本打って 8 打点を挙げた翌日は、先発投手として 8 回無失点 13 奪三振。先発した試合では、 3 回続けてチームの連敗を止めていた。  回が進むにつれて、彼の奪三振ショーに味方ベンチもスタジアムも異様な盛り上がりを見せる。「オオタニサン!」「スゴイッ!」「イッテラッシャイ!」。実況も解説者も興奮を隠せなくなり、日本語が飛び交う。 7 回の表であったか、 3 アウト目を三振で奪うと、投げ終えた反動のままにくるりと後ろを向いて、右手に力を込めて吠えた。やばい。かっこよすぎる。 メジャーではピッチャーが三振を取ったときなどに、バッターに向かってガッツポーズを決めたり、大声を出したりするのは侮辱にあたるという。後ろを向いて、吠えたのには理由があったのだ。 「すごいなあ~。かっちょええなあ~」。携帯をしまいながら、心の中でつぶやいた。 その時、バックする際の「ピポン、ピポン」という音を立てながら、観光バスが隣の旅館の前に移動してきた。宿から制服を着た中学生が出てきて、次から次へとバスに乗り込んでいく。ここ数年、コロナによる自粛期間が繰り返され、京都で修学旅行生を見るのは本当に久しぶりだった。 (一月もしない内に第 7 波が来ることは、この時まだ誰も知らない) バスのドアが閉まる。玄関先で一人の仲居さんがえんじ色の前掛けをして、笑顔で大きく手を振っている。バスの中から手を振り返す生徒たち。バスが出発し、その