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しんのすけ とうちゃんが人生で一番幸せだと思ったのは お前とひまわりが生まれたときだ

今週の一週一言

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「しんのすけ とうちゃんが人生で一番幸せだと思ったのは

お前とひまわりが生まれたときだ」

野原 ひろし(「クレヨンしんちゃんより)

野原 ひろし

 漫画「クレヨンしんちゃん」の主人公、野原しんのすけの父親。一家の大黒柱として家族を支える。家族を傷つけるものや、悪に対しては立ち向かっていく正義感の強さの持ち主であり、情に厚く、涙もろい性格である。

【如是我聞】

 かくばかり 偽り多き世の中に 子の可愛さは誠なりけり

この4月、我が家に大きな変化が訪れた。私が定年を迎えたなどというのは小さなことで、一人娘が家を出たことが一大事であった。「家を出た」と言っても、むろん家出した訳ではなく、就職で一人暮らしを始めたわけである。

 娘はもう二十六歳なので、順調にいっていればもう3~4年前には社会に出ていたはずなのだが、それが(詳細は省くが)いろいろあって今年まできてしまっていた。本校でも何年も前から、娘と同年の先生が何人も勤めておられ、皆さん立派に働いておられるのを見るにつけ、それに引きかえ…といつも思っていたが、ついに遅ればせながら娘も社会人の仲間入りを果たしたのである。

 会社を選ぶ際、京都という選択肢もあったようで、迷っている様子だったが、娘は結局、勤務地が遠いほうの会社を選択した。実のところ私としては、家から通えるところを選んだ方がよいのではと思っていた。というのは、娘はいい年をして炊事洗濯や掃除といった家事全般のことはみんな親がかりで、自分はほとんど何もしていなかったので、大丈夫かなという不安があったのだが、本音を言えば家にいてほしいというのが第一であった。しかしながら、親のエゴを押しつけて、せっかく自立しようとしているのを妨げてはいけないと思い、やせ我慢をして口をつぐんでいた。

 3月末にバタバタと引っ越しを済ませ、その後いったん帰ってきて、この4月の初めにいよいよ本格的に家を離れるということになり、駅の改札で見送って姿が見えなくなった後、寂しさがこみ上げてきて不覚にも涙がこぼれた。妻と二人だけになってみると、娘のいた部屋はガランとして、そこだけポッカリと穴があいたようである。

 冒頭にあげたのは、「藪入り*」という落語のマクラで必ずと言っていいほど用いられる狂歌だが、子どもがいくつになっても、どんなに成長しても、親の思いはこのとおり不変であろう。

ウチの娘もこの連休に初めての藪入りを迎える。いまは夫婦ともそれを心待ちにする毎日である。

*藪入り…昔の奉公人が年に二回、盆と正月にだけ休みをもらって実家に帰ること。

(左溝)





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