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真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。 新たな目で見ることなのだ。

今週の一週一言

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真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。

新たな目で見ることなのだ。

マルセル・プルースト

マルセル・プルースト(1871-1922)

 パリ郊外のオートゥイユ(現・パリ市)生まれ。代表作の『失われた時を求めて』は後世の作家に強い影響を与え、20世紀の西欧文学を代表する世界的な作家として位置づけられている。

【如是我聞】

 歳のせいだろうか、最近通勤途中で困っている人を見かけるとどうしても見過ごせない。目の不自由な人、足の不自由な人、こないだは駅の乗り越し精算機の前の列が縮まらないのでよく見るとお婆さんがコインを入れようとしているところだった。そもそも精算機の使い方もままならないのだが、震える手では硬貨が入れられない。「私、やりましょか?」というと頼みますー、とのこと。重いカバンを持っているお年寄りがいたらつい「私、運びましょか?」だし、目の不自由な人に出会うと「白杖ガール」を思い出す。私の周りの日常はそんなに変わっていないはずなのに、次々と困っている人が出現するからさながらパラレルワールドのようだ。

 こういうことって、マルセル・プルーストならどう答えるだろうか。ChatGPTになり切って答えてもらった。紅茶にマドレーヌを浸したときの気持ちを聞いたら、それなりの答えが返ってきたので、このように尋ねてみた。「最近出会ったおばあさんは震える手でコインがうまく掴めず、困っていました。今までなら気づかなかったのですが、私はどうしても立ち止まって彼女を助けたくなり、声をかけました。それはまさに新しい景色ですか。」

 

ChatGPTの答えはこうだった。

 

 あなたがおばあさんに声をかけて助けるという行為は、単に新しい景色を探すことではありません。それは、新たな目で見ることなのです。これは、あなたが以前とは異なる視点や意識を持ち、社会的弱者の存在に気付いたことを意味します。おばあさんの困りごとに気付き、声をかけて助けることで、あなたは社会的弱者に対する新たな目で物事を見ることができました。これによって、彼女の立場や経験に共感し、彼女の困難を理解することができました。

 このエピソードは、私たちが予測可能な枠組みを超え、他者の経験や感情に共感することの重要性を示しています。真の発見の旅は、新しい景色を探し求めるだけでなく、自分自身の目を新たにし、他者との共感と理解を育むことです。このエピソードはまた、私たちが社会的弱者に対して優しさと思いやりを示すことができるという希望を伝えています。真の発見の旅は、社会の不平等や差別に対して目を向け、自己の立場や特権に気付き、行動を起こすことを奨励します。

 「真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新たな目で見ることなのだ。」という格言は、私たちが自己の視点を拡大し、他者とのつながりを深めるための重要な指針です。あなたの行動は、この格言の真の意味を体現し、社会的弱者との共感と配慮の新たな視点を示しています。

 

なんか、正された。

 

 世界は同じように回っているし、お年寄りや困っている人があふれている。そうした人々が、教習所のシミュレーターのごとく私の目の前に現れることがありがたい。

 ChatGPTをはじめ、生成系AILINEに常駐し、WeblioLudwigと言った英語学習アプリにも搭載され、今や私にとってはなくてはならない壁打ち相手になっている。Google翻訳が出てきた時にも「あんな役に立たないもの」と排除する動きがあったが、今やプロの翻訳家も活用しているという。超高齢社会も生成系AIのある教室も、現実だ。今年は私にとって半世紀の節目の年でもある。いつまでも日々新たな世界に出会うことを楽しみとしたい。

(英語科 江藤)





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