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学ぶに暇あらずと謂う者ものは、 暇ありと雖も亦学ぶ能わざるなり。

今週の一週一言 11 月 11日~11月17 日 学 ( まな ) ぶに 暇 ( いとま ) あらずと 謂 ( い ) う 者 ( もの ) は、 暇 ( いとま ) ありと 雖 ( いえど ) も 亦 ( また ) 学ぶ 能 ( あたわ ) わざるなり。 「淮南子」巻十六説山訓・第九の一節。「淮南子」は淮南王・劉安( BC179 ~ BC122 )と彼によって集められた学者たち(蘇非、李尚、伍被ら)によって編纂された。 【如是我聞】 『 淮南子 ( えなんじ ) 』 は道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて、治乱興亡や古代中国人 の宇宙観、逸事が体系的に記述され、一般的には雑家の書になっている。荘子の道家思想をベースとしながら、それまで別と考えられていた老子思想との共通性を見出して老荘思想としてまとめ上げ、儒家や法家 、陰陽家 の考えも取り込んで 書かれている。「人間万事、塞翁が馬」「蟷螂の斧」「一致団結」などの故事成語の出典元 で あり 、『日本書紀』の冒頭「古に天地未だ剖れず、陰陽別れざりしとき……」の典拠になっている。紀元前2世紀の書であり、『日本書紀』は8世紀に成立したことから、古代中国の雑家の宇宙哲学がその 1000 年後に日本の神話を形作ることになったのである。中国の先進性おそるべしである。 劉安( BC179 ~ BC122 )は、前漢時代の皇族(淮南王)、学者である。漢の高祖(劉邦)の七男・淮南厲王・劉長の長子である。よって、劉邦の孫にあたる。父親が劉安5歳の時に、謀反に加わったとして流罪から絶食死したが、伯父・文帝によって列侯に封ぜられ、 15 歳で淮南王に転じた。その後、紆余曲折をたどり、反乱を企図して密告により露顕し、劉安は自害し、一族はことごとく処刑された。 さて、頭記の言葉の意味は、ほぼそのままで、「『勉強する時間がない』という奴は、勉強する時間ができても勉強しない。」という辛辣な言葉である。本当に勉強をする者は、忙しい中でもなんとか時間を捻出してでも、勉強をするものだ、と。「部活動で勉強できない」という生徒に対して、もっとも教育的な精神論であろうか。しかし、時間の使い方の何と難しい事か。私など大人になっても、時間を有効に使っているとはとても思えないのである。若

子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」 易経

今週の一週一言 9 月 23日~9月29 日 子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」 易経…古代中国の書物。儒教の基本書籍の筆頭に挙げられる経典である。 【如是我聞】 悔いの多い生涯を送ってきました。なんてことを言えば周りから「おおげさな」「まだ若いのに」といった声が聞こえてきそうだ。しかし今振り返ってみても自分の生涯にはなかなかの数の後悔があるように思う。 私は物事をじっくり考えて慎重に事を進めるタイプの人間だと思っている。それは日常生活の中でもいえることで、ふらっと寄ったニトリでの買い物でもこれが当てはまるのである。日々の生活を少し快適にする魅力ある商品がずらっと並んでいる、一階の日用雑貨が陳列されているコーナー。そこにいくとなかなかそこから抜け出せなくなって困ってしまった。歯ブラシたて、これは本当に必要なのか。なくても生活できている。一人用土鍋、どのサイズが自分にぴったりなのか。大きすぎないか小さすぎないか。取っ手のとれるフライパン、何が便利なのかずっと考える。わからない。いろんな棚を眺めて結局歯ブラシたてに戻ってきては同じようなことを考える。正直しんどい。これではすぐに時間がたりなくなるしいつになったら前に進むのかもわからない。貴重なお盆休みに立ち寄ったニトリでその日が終わってしまう。 こんなエピソードは山ほどあるがしかしこれらのことが後悔につながることはほぼない。むしろ買おうが買わまいが自分で考えてだした答えに悔いはない。ただ自分の時間を無駄に消費しているだけで誰の迷惑にもなっていない。だが人との会話においてこの性格がゆえに後悔することがよくあるのである。会話の中では一瞬の間や言葉を発するタイミングや空気が重要で、そこに面白さや楽しさがあるコミュニケーションには誰かを待っている時間はない。何人かの相手がいて会話が行われている中、刻一刻と進むその空間の中で発する打算のない生の言葉こそが面白くもあり、悲しくもあり、うれしくもあるゆえに言葉というものが生きていると自分では思う。心で感じる細かな感情を表現しようと言葉を慎重に選んで考えている時間はないのである。あとになって、こんなことを言っておけばもっと気持ちが伝わったのに、もっとおもしろかったのに、と考えてももう遅い。気持ちを相手に伝えようと今の自分

いいえ昨日はありません 今日を打つのは今日の時計 昨日の時計はありません 今日を打つのは今日の時計  三好達治 

今週の一週一言                                      10 月 21 日~ 10 月 27 日 いいえ昨日はありません 今日を打つのは今日の時計 昨日の時計はありません 今日を打つのは今日の時計                   三好達治    三好達治 (1900-1964) …大阪市出身の詩人、翻訳家、文芸評論家。詩集『花筐』をはじめ多くの作品を手がけ、昭和を代表する詩人と称された。 【如是我聞】   最近発売された iPhone11 が欲しくてたまらない。私が iPhone を初めて手にしたのは、高校入学時だった。 iPhone 歴は 9 年目に突入したが、 iPhone という存在を知り、初めて手にした日を私は今でも忘れない。昨日まで自分の世界に無かった新しいモノとの出会いは、自分の人生の選択肢を広げてくれた。箱から取り出した iPhone を操作した指は緊張していたが、心は躍っていた。自分の生活に存在しないモノが、今日の生活では当たり前になり、 9 年経った今では必要不可欠になった。スティーブ・ジョブズの魔法にかかった私は、もう以前の自分には戻れなかった。当然のように情報分野に心を奪われた私は、受験する大学もこだわりが強く、担任の先生と予備校の先生を困らせた。志望校は「情報を専門とする学部で、企業出身の教授が多い大学に行きたい!それ以外は受験しない」と、とても頑固であった。当時は理工学部に情報科がある大学は多くあったが、学部となると数も限られ、受験指導を行う先生に大変苦労をかけたと思う。そこまでこだわりを強くさせたのもまた、ジョブズの魔法だった。「一番大切なのは、心の声や直感に従う勇気を持つこと」という名言に心を奪われてしまった。ここまでくるとすぐに影響されるところが、自分の弱点だと考えられる。しかし、影響されたことで一つのことを成し遂げる大切さと大変さを学び、第 1 志望の大学で念願の情報技術を学ぶことができた。私にとって iPhone との出会いが昨日と違う今日を魅せてくれた。 私にとってきっかけはなんでも良くて、自分の心が動いた時、自分で今日の時計を進め、今日という日が未来を創るのではないかと思う。  最近でいうと影響されやすい私は、旦那さんが買

大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。

今週の一週一言                                      10月14日~10月20日 大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。                ショーペンハ ウエル    ショーペンハウエル… [1788-1860] ドイツの哲学者。世界は自我の表象であり、その根底にはたらく盲目的な生存意志は絶えず満たされない欲望を追求するために人生は苦になると説き、この苦を免れるには意志否定によるほかはないと主張した。主著「意志と表象としての世界」。 【如是我聞】   普通のことを普通の語で言う(または理解する)のも難しいのに、普通の語で非凡なことなんて言えるのだろうかと、この言葉を見たときに感じてしまった。いや、普通の語でこそ非凡なことを表すべきなのかもしれない。例えば「世界平和」や「あなたが好き」という言葉は、一見「普通の語」だが、内容自体は「非凡なこと」に分類されるのではないか。  話がとっ散らかってしまう前に整理しよう。結論から言うと、普通の語で非凡なことを「実際に誰かに言うこと」は難しいのだ。好きな人に「あなたが好きです。」なんて簡単に言えないように。だから、難しい言葉(=非凡な語)でそれとなく好意(=非凡なこと)を伝えるのではないだろうか。英語なら助動詞を使ったり、時制を過去形にしたりして、「直接的でない表現」で「自分の気持ち」を伝えたりする。だから、 “I like you.” のかわりに、 “I would like to ~.” 「できれば~したい」 と言ったり、 “I wish I had a chance to ~.” 「~する機会があればいいのに」 なんて回りくどい言い方をするのだ ( と個人的には思う ) 。  そんなふうに、自分の気持ちは、聞こえよい言葉で相手になんとなく伝えられたらいいと思っていた。その方が相手を驚かさなくて済むし、むしろ自分自身が傷つかなくて済む。そうやって 進展も後退もないが、相手と互いに程よい距離感を保って生きていくのが少なくとも自分にはあっていると思っていた。  しかし、それでは味気ないなと最近気が付いた。学園祭でとある生徒に「俺らの発表見に来てな!」のあとに、「先生の勇気は俺の勇気や!」と言われた時のことだ

人間は善くなり切る事はできません。 絶対に他の生命を損じない事はできません。

今週の一週一言 9 月 23日~9月29 日 人間は善くなり切る事はできません。 絶対に他の生命を損じない事はできません。 倉田 百三( 1891 ~ 1943 )…劇作家,評論家。故郷は現在の広島県庄原市。 この一言は代表作「出家とその弟子」に記載されている。 【如是我聞】 朝晩は少し過ごしやすくなってきて,蒸し暑い夏もようやく終わるかと思っていたら,今度は家の中で蚊を見つけることが多くなってきた。そして今,職員室の私の前にも…。両手でつぶしてしまおうと思うが,この時期はなかなかに俊敏で,そうこうしているうちにどこかへいってしまう…。 そういえば以前いただいた本に,人間の脳がスーパーコンピューターだとすると昆虫の脳はノートパソコンと書いてあった。人間の脳は昆虫のそれに比べると神経細胞の数は圧倒的に多いので複雑な処理ができる。一方で,昆虫の脳は神経細胞が少ないため,高速な処理できるのだそうだ。しかも昆虫の脳には,もちろん記憶をつかさどる部分があり,学習能力もあるのだという。そうであれば,私が手を必死に動かして昆虫を捕まえようとしても,昆虫から見ればスローモーションで動く障害物ぐらいにしか見えないのかもしれない。人間は巨大だけれど動きの遅い動物,あまりしつこく血を吸おうとするとたまに毒ガスをばらまいてくるから注意しとかなきゃ。そんな程度なのかもしれない。 さらに昆虫は種類や数が多いことも強みです。平凡なものであっても数多くが繋がることができれば, 1 台のスパコンを凌ぐ力を発揮できる。パソコンやスマホがインターネットで繋がることの凄さを私たちは知っています。もし全世界の昆虫たちの脳がインターネットで繋がってしまったら我々には太刀打ちできそうもありません。妄想するだけ恐ろしいですね…。 さて,今日も朝からたくさんの生命をいただいています。お金を出せば買える時代になって,他の生命を食べ「物」としてしか見られなくなってしまいがちな私です。蚊に血を吸われて逃げられ,虫たちもなかなかやるじゃないかと感じる。たまには「殺生や!」といいながらパチンとたたきつぶす。こんな生命との向き合い方が,自分が「悪人」であることを自覚するのにはちょうどいいのかもしれません。                (理科: 川西 

行きさきばかり見て足許を見ねば踏みかぶるべきなり。 人の上ばかり見て我身の上の事を嗜まずは、一大事たるべき。

今週の一週一言                       9月9日~9月15日 行きさきばかり見て足許を見ねば踏みかぶるべきなり。 人の上ばかり見て我身の上の事を嗜まずは、一大事たるべき。 蓮如上人… 1415年京都生まれ、1499年没。真宗の僧侶。本願寺第8世、中興の祖。衰退の極みにあった本願寺を再興し、現代の本願寺教団(東・西本願寺)の礎を築いた。 【如是我聞】   今年の8月。私はお盆参りの手伝いをするため北海道の片田舎にある自坊に帰省した。私の故郷は人より牛の数の方が多いという信じがたい事実を抱えた町である。そんな田舎町でお盆参りを回る時は、雑に書かれた古びた地図を1枚だけ持って出かける。私はご門徒さんの家の場所にマークを入れ、張り切ってお参りに向かった。 しかし、車で向かっていたのだがなかなか到着しない。どうやら迷ってしまったのだと気付いた。とっさに私はスマホを取り出してマップを開いたものの、ここは北海道の山の中。当然、電波はなかった。紙の地図を広げてみたものの、周りには家一つなく背の高い木が生い茂っているばかりであるから、どこにいるのかもわからない。結局自分の現在位置を見失ってしまった私は、ぐるぐると山中を彷徨ったあげく、来た道を引き返すしかなかった。こんな歳にもなって山の中で完全に迷子になってしまうというなんとも恥ずかしい思いをしたのであった。 なぜこんな話をしたのかというと、解剖学者の養老孟司さんが「自分とは地図の中の現在位置の矢印」と自身の著作で表現されていたのを思い出したからである。もしも人生が一つの地図だとしたら、いま私はどこに立っているのだろうか。現在位置をしっかりと示すことができているのであろうか。お盆参りの時と同じように迷子になっていないだろうか。 その人生の地図には、世の中を形成している様々な常識や流行というものが記載されている。私はそれらばかりに目がいってしまう。小さなことで言うと、先日は「まだ飲んでなかった … !」と謎の焦りを感じ、足早にタピオカジュースを買いに行った。みんながしていることにはとにかく敏感で、置いていかれないようにと無意識にも必死になっている私がいるのである。目まぐるしく移ろいゆくこの世の中で、周りをキョロキョロと見渡し、結局自分よりも他の人やことばか

負いかた一つで重荷も軽い

今週の一週一言              9月16日~9月22日 負いかた一つで重荷も軽い フィールディング ヘンリー・フィールディング(1707-1754)…イギリスの劇作家、小説家、治安判事。小説『トム・ジョーンズ』が代表作で、イギリス小説の父と呼ばれている。                                  【如是我聞】 1つのことにとらわれると周りが見えなくなり、視野が狭くなる。また、それが悪循環する。それが私の欠点だ。この言葉は、1つのことにこだわりすぎて見えにくいものでも視点を変えれば見えてくるということに気づかせてくれた。 私は小2から野球を始め、小6から大学までピッチャーをしていた。同じピッチャーとしてメジャーリーグで活躍する大谷翔平選手の球速 160km/h を超えるスピードのある球に憧れ、いつかそんな球を投げようと練習に励んだ。だが、私は 130km/h しか投げることができず、結果も残せなかった。そんな中、沖縄県で甲子園出場経験のある方からアドバイスをいただいた。「打者は 3 割打てば良いと言われる。大半は、 2 割台、残りの 7 、 8 割の確率は抑えられるということ。」考え1つで、力やスピードで勝負せず、自分の持つ力で勝負できるということ学んだ。今でもこれは野球部の指導をさせていただいている中で、選手たちに伝えたいことである。また、今年 3 月、惜しまれつつ現役を引退したイチローは、 4000 本安打を達成した際に「 4000 本安打には、 8000 回以上悔しい思いをしている。その悔しさと常に、向き合ってきた事実は誇れる」と話した。トップアスリートの物の考え方に驚かされた。 最後に、私が名言好きという訳ではないが、ある先生はこのようなことを仰っていた。「忙しい時やしんどい時に『大変だ。』と口にするが大変という字は大きく変わる、と書く。だからそのような時こそ自分が大きく変われるチャンスだ。」自分もいつか人にこのようなことが言える教師になりたい。 (保健体育科 園田) >>> トップページへ http://www.otani.ed.jp

どうしやうもないわたしが歩いてゐる

今週の一週一言                     9月2日~9月8日 どうしやうもないわたしが歩いてゐる   種田山頭火 (1882-1940) …山口県生まれのの俳人。1925年に曹洞宗の寺で出家得度した。 【如是我聞】   昔、ラジオでこんな話を聞いた。ポップスでもロックでも、たいてい 1 曲の長さは 3 分から 4 分、長くて 5 分である。なぜか?ラジオで曲をかけられる時間がたいてい 1 分数十秒である。販売者側、ミュージシャン側にとってみれば、その時間で曲の「一番美味しい」ところ(サビ)まで流れないと、リスナーに対する宣伝効果が無くなってしまうからだ。それを聞いたとき、なるほど世間の曲はみんなそうだなぁと思った。同じ頃に出会った曲がある。 Led Zeppelin の Stairway to Heaven (天国への階段)である。多くの曲が 5 分以内で A メロ → B メロ → サビの繰り返しであるのに対して、この曲は 8 分超の大作に加え、 A メロ → B メロ → C メロ →… と、まさに天国へ階段をのぼっていくかのごとく展開を続けるのである。ラジオの宣伝効果などまだそれほど考えられていない時代だったからかも知れない。が、この曲に「自由」を感じた。「何かに束縛されて作り上げる芸術はロックではない」と。 高校生のとき、国語の時間に同じような経験をした。俳句を扱った単元で、教科書にこんな句があった。「歩きつづける彼岸花咲きつづける」種田山頭火の句である。「えっ?どこが俳句なん?」五七五しかないと思っていたので、自由律というものを初めて知った。五七五と思っている私にとって全然俳句という感じはしないのだが、いつこの句を見ても、脳裏には赤い花の群生する様子がとても鮮やかにうかんでくる。とても好きな句である。 山頭火の句でこの文章を書くにあたって少し調べてみた。山頭火の人生は小さい頃から良いことが無く、うまくいかないことばかり。あるとき未遂に終わるものの自殺を図り、その後出家して禅寺へ入る。これが人生の転機となり、旅をしながら俳句を作り続けるようになる。どうやらこの旅も一筋縄ではなかったようだ。結局、生涯、人生に迷い続けていた人なのかも知れない。 山頭火に限らず、誰しも人生に迷うという瞬間が

逆境は、我能力の達し得る範囲外にあるものにして、 反って我力を増長するものなり。

今週の一週一言                     6 月17日~23日  逆境は、我能力の達し得る範囲外にあるものにして、  反って我力を増長するものなり。   清澤満之     1863 ~ 1903 ,名古屋市生まれ。本校初代校長 。宗教家、思想家、哲学者。 【如是我聞】   『ハイキュー !! 』(古館春一作・集英社)という漫画がある。高校バレーを題材にした「劇的青春」というコピーが付く作品だ。中高と、こっそりかつひっそりとバレー部にいた私としては、『アタック No.1 』(約 50 年前)の鮎原こずえに胸躍らせて以来、久しぶりにのめりこんだバレー漫画である。その中のあるシーンで、主将の澤村大地がこういう。 「壁にブチ当たったときは、それを超えるチャンスだ。」   20 年ほど前、小野伸二というサッカー選手が、オランダのチームへの移籍を発表した。浦和で 3 年ほど活躍して、まだ、 20 歳そこそこだったと思う。記者会見では厳しい質問が飛び交った。「ヨーロッパで自分のサッカーが通用すると思っているのか?」。こう聞かれた彼は、次のように応えたと記憶する。「それはわからない。でも、そういう、今の自分が通用するかどうかわからないような所に身を置きたい」。  当時の私は、それを聞いてこう思った。「Jリーグで、ようけお給料もろてはんのに、無理せんでええやん。もったいないな~」。  小野選手は当時の日本よりはサッカーレベルが数段高い慣れない地で自らを鍛えなおし、レギュラーをつかんだそのシーズンで優勝する。自分の中で感じていた壁を超えたようだ。  我らが初代校長清澤先生は、生きていると何をやってもうまくいくような恵まれた時、順境があるという。逆に何をやってもうまくいかない、または、思ってもみなかった事態に遭遇し行き詰るときもあると。それが逆境だろう。そして、順境はたしかに居心地もよく楽しいのだが、自分が育てられるのはむしろ逆境の時であるとおっしゃる。その時に持てる能力や知識や経験では乗り越えられない、そんな境遇に身を置かれて、逃げ出したいのをぐっとこらえて耐えるとき、もがくとき、悩むとき、新たな人間力が育まれるのだと。 わかる。でも、簡単にはそうは思えない。心折れ、胃が痛くなるような体験はできれば避けたい。もし

ちる花の 枝にもどらぬ なげきとは  思ひきれども 思ひきれども 小林一茶

今週の一週一言                                  6 月3日~6月9日   ちる花の 枝にもどらぬ なげきとは  思ひきれども 思ひきれども 小林一茶… 1763 ~ 1827  江戸後期の俳人。信濃柏原生まれ。俗語や方言を使いこなし、自身の経歴からにじみ出た主観的・個性的な句を多く残す。 【如是我聞】 一茶は52歳で結婚し、4人の子どもを授かるがすべて夭折してしまう。孫と言ってもいいくらいの子どもたちである。憔悴する一茶を前にして、私ならどのような接し方ができるだろうか。おそらく沈黙に耐えられず、間が持たない。その間を埋めるために、いらぬ言葉を並べ、余計な正論を言いたくなるだろう。正論を説く人の言葉や目つきは時として冷たいものだ。最悪の対応である。 かつて大学の受験日を間違え、泣きながら学校にやってきた女子生徒がいた。担任の先生は、その生徒に対したった一言「よ~あることや。しょうがない」と言いながら頭をポンポンとたたき、ニコニコと微笑んでおられた。横で見ていた私は受験日の間違いなどそんなによくあることではないだろうと思いながらも、徐々に生徒が落ち着きを取り戻していくさまを目の当たりにして、すごい対応力だなあと感心したものだった。 経典では「身自当之 無有代者」〈身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし〉と説く。どのような苦悩に出遇ったとしても、誰も代わってはくれず、自らこの苦悩を引き受けていかねばならない、という。一茶の場合は代わってやりたくても代わってやることができない。そんななげきなのかもしれない。こちらの方が奥が深いと最近思う。  一茶は「露の世は 露の世ながら さりながら」という句も残している。世界最高水準の長寿を誇る現代の日本では、この世が「露の世」という感慨は一見、消失したように見える。しかしその状態に幸福を感じ、満足することが出来ないのは何故だろう。      (宗教・社会科 山田) トップページへ  http://www.otani.ed.jp