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教えることは二度学ぶことである。

今週の一週一言                                    5 月22日~5月28日    教えることは二度学ぶことである。                      ジューベール ジューベール・・・ 1754~1824、フランス生まれ。フランスの哲学者であり、随筆家。主な著作は『パンセ』。ジュ―ベールは、生前には一切出版活動を行わず、『パンセ』は死後に発表されたものである。(パンセとは考察を意味する) 【如是我聞】 私は、よく大学の講義で「なるほどなぁ」と感動することが多々ある。大学での学びの嬉しいことは、「こんな視点があるのか」という新しい発見とそれに対する感動を得られることである。この感動を一人で、にやにやしながら味わうことも一つの方法ではあるが、私には無理である。なぜなら、感動を共有したいタイプの人間だからである。学びのうえでの感動はもちろんのこと、私生活で感じる感動はなおさらである。 例えば、私の大学は地下鉄や市バスのターミナルなど交通の便が良いこともあり、多くの小・中・高などの学生が行き交っている。もちろん、年老いた方も多く歩かれている。そんな老若男女が混在する、大学の近くで、80代のおばあちゃんが買い物袋を持って信号を渡っていた。そのおばあちゃんが横断歩道の三分の一を渡ったくらいで、信号が点滅し始めた。私は何とも思わずに近くのベンチに座っていたのだが、走っていく小学生が見えた。その小学生は走って、おばあちゃんの所に向かい、ひと声かけて荷物を持ってあげたのであった。これには、驚きと共に感動が心の中から湧きあがってきた。そして、追いかけてくるように少しの罪悪感が迫ってきた。罪悪感はさておき、このような感動は、友人に伝えられずにはいられなかった。  感動を共有するということが大好きな私だが、自分の感動をそのまま相手に同じように伝えるということは至難の業である。相手に何かを伝えるためには、まず話を整理して、伝えていく順序立てをしていくことが大切である。そして、自分が感動した内容に対して理解していなければならない。自分が理解していないものは、大体相手にも伝わらない。  しかし、自分が理解していないということに気付くことはなかなか難しい。「なるほどなぁ」と私の中では、理解した

心得たと思うは、心得ぬなり。 心得ぬと思うは、こころえたるなり。

今週の一週一言                                    5 月15日~5月21日    心得たと思うは、心得ぬなり。 心得ぬと思うは、こころえたるなり。                      蓮如 蓮如・・・ 1415年京都生まれ、1499年没 真宗の僧侶。本願寺第8世、中興の祖。衰退の極みにあった本願寺を再興し、現代の本願寺教団(東・西本願寺)の礎を築いた。 【如是我聞】  なぜ勉強するのか。この問いには多くの人が多様な答えを残している。私の尊敬する先生は「勉強すると、違う景色が見えてくるんです」と教えてくださった。同じものを目にしても、今まで見えなかった、または、気づかなかったところが目に入ってくるのだろう。大きく頷いたのを覚えている。  今年の新入生本山参拝で、本山を代表して八島参務がお話された。自身の高校時代を振り返り、できると思っていた数学が全く分からなくなり苦労したとの話であった。  途中、関数やら数研出版の問題集やらと、話がどこへ向かうのかと思っていたら、「わかるということは実はあまりたいしたことではないのです。今の自分のままでいいのですから。わからないということが全ての始まりとなるのです。どうぞわからないということを大事にしてください」というしめであった。わからないことをダメとし、わかることをヨシとしているわたしたち教員に向けた言葉のように思えた。  私たちは「わからないことがわかる」ということに重きを置きすぎているのかもしれない。学びにおいて大事なことは、実はそうではなくて、「わからないということがわかる」ことや「わかっていないということに気づく」ことなのだろう。  最近、してはいけないことをしてしまった息子と少し話をした。「彼は悪いことをしたことはわかっている、反省している」と答えた。しかし、そこに何かもの足りなさを感じた。いったい何なのか。それがわからずに、「わかっているならよし」としてしまった自分がいた。そして、先週気づいた。彼の言葉に足りないと感じたものに。  それは、してはいけないことをした自分に対する「痛み・悲しみ・恥ずかしさ」という感覚である。反省するということはそういうことなのだろう。自分に対する「痛み・悲しみ・恥ずか

遇いがたくして 今遇うことを得たり

今週の一週一言                                   4月24日~4月30日   遇いがたくして 今遇うことを得たり 親鸞聖人・・・「遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」。主著である『教行信証』「総序」の中で述べられた言葉。                       【如是我聞】   「もし親鸞聖人に自叙伝というものがあるとするならば、“親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。”という『歎異抄』の一節であろう。」 20 年以上も前のことだろうか。私はある先生からこう教わった。先生もまた先生から教わった言葉だという。そしてこう続けられた。「よきひとを忘れる時、よきひとの仰せを忘れる時、知らないうちに私たちは師の位置に立っている。よきひととは、私たちの先を歩んでくださって、しかも私たちよりもはるかに姿勢の低いひとである。私たちが親鸞聖人を語る姿勢の、なんと傲慢なことか。」 この言葉を私は、当時愛用していた無印用品のノートにメモ書きしていた。「大事なことだ。絶対に忘れるなよ、俺。」というような意味を込めてか、すっかり色あせてしまっているが、蛍光ペンでアンダーラインを引いた跡が残っている。その先生はいつも少し恥じらいながら、ゆっくりと丁寧にそして背筋をしゃんと伸ばして語られる人だった。「私たちが親鸞聖人を語る姿勢の、なんと傲慢なことか。」とおっしゃるが、優しい眼差しで接してくださる先生のどこが傲慢なのか不思議でならなかった。  真宗寺院に生まれたことの意味を見いだせず、ただ現実から逃げることにあくせくしていたあの頃、たまたま友人の父であったその先生に出遇った。鬱憤をまき散らす私に、「いい経験をしてますね。その悩みを大切にして下さい。」と言われた。どこがいい経験なのか、さっぱり分からなかったが、今ではよく分かる。悩みを漏らす生徒に、以前は偉そうにアドバイスのようなこともしていたが、最近は先の言葉を伝えるようにしている。「ええ経験してるなぁ。大事にせえよ。」と。大抵はきょとんとされるが、それしか言いようがないということを、先生を思い出すたびに痛感する。傲慢な姿勢はなかなか直らな

智に働けば角が立つ 情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ 兎角に人の世は住みにくい

今週の一週一言                                   3月27日~4月3日   智に働けば角が立つ 情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ 兎角に人の世は住みにくい 夏目漱石・・・ 1905 ~ 1916  明治時代を代表する小説家・評論家・英文学者。                     【如是我聞】 大切なお皿を自分で割った時、「あーあ、やっちゃった!もったいないけど、しかたないなあ。」と、割れたお皿を惜しみながらも諦める。ところが、自分以外の人がやってしまうと、瞬時にぶちキレて、「なんで割ったん。大事にしてたのに!!」と叫んでしまう。同じ行動のはずなのに、他人にはキレてしまった自分が後でいやになる。そんなことが何度か繰り返される内に、「形のあるものは壊れるんだ」と自分の中で消化できるようになり、他人の行動の失敗も許せるようになる。他人よりも、〈怒り〉を爆発させてしまうという自分がいちばん厄介な存在である。  また最近、「おめでとうございます。あなた様は当方で実施した抽選において5000万円を当選されました。」という文面が、メールに届いた。ドキッとして、「えっ、もらえるの?5000万円あったら、家のローン払って、車も買って、海外旅行もできるなあ。」なんて、甘い夢を抱いてしまう自分がいる。しかし、現実はそんなに甘くもなく、そのメールには「あなたの銀行の通帳番号と誕生日を教えてください。」と書かれている。間違いなく詐欺だ。普段、暮らしていけるだけのお金があり、みんなが健康であったらいいやと、シンプルな生活が自分の中では居心地いいと思っていたのに、そんな欲深い自分が表れて恐ろしくなる。「お金」という人間が作りだしたものに振り回されている。  人間というものは本当にややこしい。自分で正しいと思っていることも、他人の価値観と違えば、それは正義ではない。例えば、自分では相手のことを思い遣って行動しているつもりでも、相手が不快に思ってしまえば、迷惑な行動以外のなにものでもない。放っておけば、「誠意がない」と言われる。やりとりが上手くいかず、信用を失うと、がんじがらめになって、全く動けなくなる。  夏目漱石は、上の文の続きに、「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。ど

もうひとりのあなたがあなたをみているのよ  見放されないようにね 嫌われないようにね

今週の一週一言                                   3 月 21 日~ 3 月 26 日   もうひとりのあなたがあなたをみているのよ             見放されないようにね 嫌われないようにね                      ミイ  ミイ・・・ムーミンファミリーと一緒に屋敷に住む、勇敢で怖いもの知らず、好奇心旺盛な女の子。 【如是我聞】  私の出身高校のトイレには貼り紙があった。「神様はいつも見ている。そっと見ている。じっと見ている。」これがすべてのトイレの個室中に貼ってあるのだ。この恐ろしい光景に慣れることは三年間なかった。意図は分かるものの、違和感しか持てないこの貼り紙を見る度に、当時高校生だった私は、神様は変な趣味があるのだなと、友人と面白半分に神をからかっていたものだ。あれから数年、あの神様は自分自身の良心だったのだと、ミイに改めて思い知らされた。 「もうひとり」の自分が自分をみている。ここでの「もうひとり」というのは、未来の自分かもしれないし、過去の自分かもしれない。もしかすると、今の自分を客観的に見ている自分なのかもしれない。私は、自分の中に二人の自分が同居していると思っている(多重人格という意味ではない)。一人は周囲の目を気にしながら他人に合わせて行動する自分。もう一人はわがままで自由奔放な自分。これは本音と建前の関係と似てはいるが、少し違う。周囲の目を気にする自分も「嫌なやつ、駄目なやつだと思われたくない」という本音から生まれたものだ。つまり、どちらも自分の本当の姿なのだ。  この二人が心の中で喧嘩を始めると、自分のコントロールがきかなくなる。私の場合は、周囲を気にする自分が出しゃばりすぎて、自由奔放な自分を圧迫する。そして、窮屈になった後者の自分が泣き叫び、わめき散らす。それからふてくされて口をきいてくれなくなる。こうなったら他人の手を借りずして事態はなかなか収束しない。このような体験が今まで何度かあった…。 センター試験前、休日は家で勉強していた。日曜、自分の部屋に籠もって必死の形相で机に向かう私。母は私の部屋に幾度となく押しかけて来た。そのたびに集中力はとぎれ、私は怒っていた。なぜかというと、母はいかにもお気楽そうに「買

祝 卒 業

今週の一週一言                                   2 月27日~3月20日 祝 卒 業                 【如是我聞】 小学校の卒業式は「呼びかけ」で始まった。自分の担当パート ( 呼びかけにしては長いセリフだったし、終わりの方だった ) まで緊張していた記憶がある。小さな町なので今でも小中一貫校の先駆けというわけでもないが、そのまま場所の異なる中学へという形だったので、卒業という感慨はほとんどなかった。「男子丸刈り」が強制されていたことへの抵抗を除いては。 中学校の卒業式は公立高校の入試の発表の前日であった。入学試験はそこそこできたつもりではいたが、併願校を受験していなかったので、あかんかったらどうするんやろという不安を抱えたままの卒業式であった。9年間ともに過ごした同級生たちと別れるんやなあという寂しさとともにちょっとした解放感を感じていた。 高校の卒業式は本校と同じく3月1日であった。当時はまだ共通一次もセンターテストもなく国立大学の入試の始まりは3月3日からの3日間であった。一人暮らしに憧れ、遠方の大学に出願していた私はその日の午後には旅立たなければならなかった。そのため、この日も卒業したんだなあという感慨に浸ることもなく、式やクラスのセレモニーが終わるとすぐに旅支度にとりかかったのを覚えている。 大学の卒業式の記憶はほとんどない。本来なら開通しているはずの新幹線は未完成であったが、観光見物を兼ねてというより、ほぼそれが目的ではるばる母と兄が来てくれたことだけを覚えている。その時点では4月から本校で働くことになるとは夢にも思っていなかった。 それから2週間足らずのうちに大谷に勤めさせていただくことになった。今年でもう37回目の卒業式である。中学部に9年在籍し、担任を持たなくなって ( 教務部長やら副校長で ) 16年ということもあり、高校生を担任として送り出したのはわずか4回しかない。それでも、やはり卒業式という感慨は特別である。大谷で学んでくれた生徒諸君を送り出すのは、寂しくもあり、誇らしくもある。ほとんど振り返ることもなく、未来に向かって飛び出していく姿を見送りながら彼らの明るい未来を願うばかりである。 そして、60歳となった私はこの春で定

聞思して遅慮することなかれ

今週の一週一言                                   2 月20日~2月27日 聞 ( もん ) 思 ( し ) して 遅 ( ち ) 慮 ( りょ ) することなかれ                             親鸞[ 1173-1262 ] ・・・浄土真宗の宗祖。9歳から29歳まで比叡山で修行するも、下山の道を選んだ。その後、師法然と出逢い「 廻 ( え ) 心 ( しん ) 」したという。しかし、35歳の 時 に師 ら とともに弾圧をこうむり、罪人として越後に流された。流罪後は北陸・関東地方で伝道し、62、3歳の時に京都に帰った。90年の生涯をみると、生没の地、師との出逢いの地である京都よりも、他の地域で過ごした時期の方が長いことに気づかされる。 【如是我聞】 「仏教って変わった教えだなあ」。僕は大学の講義中にふと思った。それは、次のような話を聞いたからであった。ブッダが生きていた当時の仏教教団は、ブッダと同じ出家した者を中心に成り立っていた。ただし、生産活動を不要とみなした彼らは、生存に必要な最低限の食べ物などを、出家していない人々(いわゆる在家)の施しから得るしかなかった。もちろん等価交換ではないが(交換ですらないだろう)、出家者が、食べ物などを施してくれた人に直接できる行為は〝はなし〟であった。つまり、仏教は誕生したときから、出家しない・出家できない人々の支えになりつつも、それらの人々に支えられて存在する宗教だったのである。 こんな素敵な仏教にまつわる話を聞きながら、僕は思ってしまった。「じゃあもしも、世界中の人がブッダに憧れて出家したら・・・」。そうなれば、支えてくれる在家信者がいなくなるので、出家者たちは自給自足するのかな。でもみんな出家しているから子孫を残さない。となると、出家者全員の寿命がきたら人類は滅んでしまうんじゃないか??「ブッダを理想としているのに、みんながブッダのようになったら破滅しちゃうなんて、なんか変テコな教えだなあ」。講義後、このことを友人に話したら即座に一言。「そんなこと考えてどーすんの?まずブッダなれへんでジブン」。あっ!そっか! 悲しきかなや自分の妄想。勝手にもしもの話をふくらませて、肝心の自分と現実に考えが届いていなか

愛ゆえに人は悲しまねばならん 愛ゆえに人は苦しまねばならん

今週の一週一言                                   2月13日~2月19日 愛ゆえに人は悲しまねばならん 愛ゆえに人は苦しまねばならん       サウザー 漫画『北斗の拳』のキャラクター。孤児であったサウザーは,南斗鳳凰拳の伝承者オウガイに拾われ,本当の父親のように愛情を受けて育つ。最後の試練において目隠し状態で、襲ってくる男を倒すように指示される。実はその敵とはオウガイ。自ら愛するオウガイを殺してしまったその悲しみから,彼は愛情を捨てることを決意するのだが,愛情を捨てきれない。自分を祭るピラミッドを子どもたちを使役して建設するが,子どもを殺すことはない(大人は平気で殺す)。またピラミッドの本来の目的はオウガイを祭るものだということが最後にわかるのである。サウザーは,作中で最も愛と情を求めた人物なのであった。サウザーの名言には,「退かぬ,媚びぬ,顧みぬ」というものもある。負け戦でも最後まで認めなかった時の言葉。                     【如是我聞】 母方の祖父のことを好きではなかった。なんでも仕切りたがる人で自分中心でなければ嫌な人だった。小学生だった頃,夏休みには旅行に連れて行ってくれたが,修学旅行状態で,引率の先生=祖父,と言った感じだった。家族で楽しむ旅行ではなかった。正直そういったルールとかに付き合うのが面倒くさかった。また,自分の武勇伝や,自分の不幸話を,何度も孫に語る。そして長い。これも嫌だった。他にも別の孫に対する贔屓がひどいとか,そういう理由もあって,だんだん会うのが嫌になり,仕方なく行く新年の挨拶くらいしか会うことはなくなった。 そんな気持ちが変化したのは,大学に入ったくらいだったと思う。新年の食事会で,例によって祖父が大演説を始めると思ったら,突然泣き崩れたのである。自分の老いに対しての不安に押しつぶされた様子で,自分の死がそろそろ迫ってきていることに対して,耐えきれず,死にたくないと泣く。弱さ丸出しで,今までは包み隠そうと必死で生きてきたのだな,と気づいた。そして今まで聞かされた語りは,自分を隠す虚勢だったんだろう。非常に上からの感情だが,祖父の弱さを受け入れようと。そう思った。 祖父は小さいときに,貧しさもあって両親からの愛情をあまり受け

雲の向こうはいつも青空

今週の一週一言                                   1月23日~29日 雲の向こうはいつも青空  ( There is always light behind clouds. ) ルイーザ・メイ・オルコット( Louisa May Alcott )( 1832-1888 ) アメリカの小説家。   「若草物語」 ( Little Women ) で知られる。                     【如是我聞】 小学生の頃 ( もう半世紀ほど前のことになってしまうのか ) 、当時小学校の先生をしていた私の伯母 ( 母の姉 ) が『少年少女世界名作文学全集』(そんな名前だったように記憶している)を読むように薦めてくれたのをきっかけに読書に目覚めた私は、片っ端からそれらの作品を読むようになった。三銃士、岩窟王、ああ無情、黒猫、黄金虫、宝島、シャーロックホームズ、ロビンフッド、トムソーヤ、ドンキホーテなどを読んでわくわくしていた。とにかく全部読むつもりでいたのだが、周囲の本好きの女子や伯母などは絶賛していたにもかかわらず、小学生の私には読んでも何かいま一つピンとこず、途中で投げ出したものが 2 作品あった。「赤毛のアン」と「若草物語」であった ... 。 さてその若草物語の作者のことばである。これに類することばとしては「明けない夜はない」「夜空の向こうにはもう明日が待っている」 ( 解散という明日だったんだなあ ) とか「やまない雨はない」と様々な表現がある。今、自分の状況がたとえよくなくても、いつかはそれが好転していくものだということのたとえとしてよく用いられる。 しかしながら、この夜明けや雨に例えた表現とオルコットの表現には大きな違いがあるように思う。前者は時間がたてば何とかなるといっているだけなのに対して、オルコットは、原文の英語を読むとより明らかになるのだが、雲の向こうには青空 ( 正しくは光 ) がいつもそこにあると言っている。これは『正信偈』 ( 幼い頃に母に教えられた時は音だけで意味はさっぱり分からなかったが)の中の 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇  (たとえば日光が雲霧に覆われても , 雲霧の下明らかにして闇無きがごとし)“ It is like the su

人間はみんなちがった眼で星を見ている だけど星のほうはなんにも言わずだまっている

今週の一週一言                                   1月16日~1月22日 人間はみんなちがった眼で星を見ている              だけど星のほうはなんにも言わずだまっている サン=テグジュペリ・・・ 1900 ~ 1944  フランスの作家。飛行家生活を題材として人間性の高揚を描く。代表作に童話『星の王子様』がある。                     【如是我聞】 第一話「私と星との出会い」  私と星との付き合いは、私が生まれてまもなく星朗と命名されたときからである。私が生まれた 6 月は梅雨で毎日雨が続き星を拝むことができない。しかし、私が生まれた瞬間に雨が止み、星空が見えたらしい。梅雨の長雨に洗われた空はとてもきれいで、瞬く星は本当に美しかったと名付け親の祖父は言っていた。そこで星朗と付けようと思ったらしい。私の両親はそんな変な ( ? ) 名前はあかんと反対したようだが、頑固な祖父が押し切り私の名前はめでたく星朗となった。そして、年度始めに星つながりでこれを書くことになった。 第二話「お星様になる」  私は妻のお父さんに会ったことはない。彼女と結婚するときにはもうすでに他界していた。命日は 8 月 15 日終戦記念日である。その日を迎えるたびに、世界平和を心から願う私は、その思いを強くするのと同時に、会ったことのない義父のことを思う。もし彼が生きていたら、私のことをどう思うのだろう?娘の婿として認めてくれるのだろうかと。私の長男が幼いころよく妻に、自分たちが会ったことのないおじいちゃんのことをよくたずねた。まだ、「死」ということがどのようなことなのかわからないときだったので、よく妻が、「おじいちゃんはお星様になって、みんなのことを見守っているんやで」と彼に言っていた。その長男は幼稚園の時にサンタさんに天体望遠鏡をお願いしプレゼントしてもらうくらい星が大好きだった。まだ自分で設定できなかったので、私が設定し最も照準を合わせやすい月をしばらくは毎晩見ていた。その都度長男は私に、「おじいちゃんはどの星なんだろうね。元気にしているかなあ。」と言った。そんな優しい長男は大きくなり小学生となった。先日、兄弟げんかしている彼が妹に発した言葉はこうで