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人間は怒りと寂しさの処理で人生を間違える

今週の一週一言 6 月 19 日 〜 6 月 25 日 人間は怒りと寂しさの処理で人生を間違える 加藤諦三 加藤諦三( 1938 〜 )  日本の社会学者。 1972 年からニッポン放送のラジオ番組『テレフォン人生相談』のパーソナリティを務めている。 【如是我聞】 大学時代に短期間であったが、学習支援員として小学校にボランティアで行っていた。そのときに、「先生はなんでいつも笑ってんの?」と担当していた小学 3 年生の女の子に言われたことがある。先日も「先生はいつも笑顔やなぁ。」と高校 1 年生に言われた。「そりゃあ、笑っているほうが楽しいからでしょ。」なんて、返したかどうかは覚えていないが、そう思っている。それでも、疲れてくるといけませんね。すぐにイライラしてしまいます。普段だったらそうでもないんだろうけど、自分に余裕がないと、ちょっとしたことにイラっっっっッとしてしまうのです。 そんなときは高校生のときからのクセで、その負の感情の原因をぐるぐると考えてしまうのです。 Q :「なんでこんなイライラしてるんやろ?」 A :「あいつがあれをせんかったからや。」 A :「またオレがせなあかんのか。」 A :「なんでオレがせなあかんねん。」 A :「もうオレがやればいいんでしょ。」 ぐるぐる考えたわりには単純で、そしていつもだいたい同じような結論に至り、さらにイライラが増してしまうことが大概だ。余計にしんどくなるなら、考えなきゃいいのにね。そこまでの達観はなかなかできない。この堂々巡りを少し紐解いてみると、このイライラのなかには「誰か助けてくれよ」という気持ちがある気がする。そして、その気持ちの中には、「自分のことを助けて然り」と考えている存在がいるのではないか。それじゃあ、このイライラの端を発しているのは「ぼく寂しいよ」という思いなのかもしれない。 もし、人が生まれてからずっと一人きりで生きていったとして(英文法で言うところの仮定法の世界なのでうまく想像できないが)、「怒り」という感情はあるだろうか? ありそうな気がする。例えば、足の小指を何かでぶつけたら、「コノヤロウ!!」と何でもないその痛みの原因に対して怒る気がする。「寂しさ」はどうだろう? 寂しいと感じるのは、自分の心

時間の自由には二つのものがあるのではなかろうか。 自在に時間を配分する自由、もう一つは失われることのない、 今という時間を自在につくりだす自由である。

今週の一週一言                                   6 月 12 日~6月 18 日 時間の自由には二つのものがあるのではなかろうか。 自在に時間を配分する自由、もう一つは失われることのない、 今という時間を自在につくりだす自由である。 内山 節『自由論―自然と人間のゆらぎの中で』  内山 節  哲学者。立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科客員教授。特定非営利活動法人森づくりフォーラム代表理事。 【如是我聞】 2 023年本屋大賞・高校生直木賞を受賞した、『汝、星のごとく』 ( 凪良ゆう著 ) を読んだ。主人公は二人の男女の高校生。彼らの恋愛を軸に、その後二十年に渡って彼らの生き方を描く。舞台は愛媛県のとある小さな町。閉鎖的かつムラ意識の強い地域だ。彼らは嫌悪し高校卒業後、ともに上京を志向する。やがて彼の方は上京を果たし、一定の成功を収める。一方の彼女にはさまざまなアクシデントが生じ、田舎に残される。運命は無残にも彼らを結び付けず、二人は互いへの思いを持ちつつも、それぞれ新たな彼、彼女と出会い別々の人生を歩む形でストーリーが展開する。 それから二十年、紆余曲折を経てお互いが探し求めていた半身同士だったことに改めて気づくが、彼が病魔に倒れ夭逝することで結末を迎える。その刹那、帰省した二人は満天の星の下でおだやかな瀬戸内の海を見ながら、あれほど嫌っていた故郷を振り返る場面がある。こんなすばらしい所で生まれ育ち、二人が出会ったのだと。彼の死で、重く悲劇的な幕切れのように見えるが、むしろ軽やかな思いさえ持てたことが印象に残る。今でも彼らの弾んだ会話が聞こえてきそうでインパクトのある感動作だった。  さて、表題にある二つの時間の自由である。内山節氏のこの『自由論』の中には、後者についてこんな話が出てくる。ある老人が若者に語りかけるシーンだ。「私は八十年近く生きたから、もう十分に生きたし、それほど生に執着することもないだろうと思うでしょう。ところが、生きるということは年齢で変わるものではないことがわかってくるのですよ。私も、あなたも、生まれたばかりの子どもも同じように生きているのです」。老人は、「もう一つの時間」を「自分がこう生きたいと思った時間を、実現

遠いものは大きく、近いものは小さくみえるだけのこと

今週の一週一言 5 月21日~5月27日 遠いものは大きく、近いものは小さくみえるだけのこと 耳をすませば バロン    耳をすませば…スタジオジブリのアニメでも知られる、柊あおいのベストセラーコミック。 1989 年に少女まんが雑誌『りぼん』で連載。                                     【如是我聞】   「残念―。今日の12位はうお座のあなた。ラッキーカラーは赤、ラッキーアイテムはアロハ柄のものです!」赤のアロハ柄…。あったら良いが、なかったら最悪の一日。そんな時は必殺、別のチャンネルの占い!今度は10位くらいだったりして、ホッとする。    今日一日くらいならまだしも、月刊誌では今月のわたしが決まってしまうし、手相なんて一生!?もう油性ペンでシワを書き足したい。幸運のメイクに幸運のブレスレット…全部やったらキリがないが、一個より二個のほうが効果がありそう。   未来への不安は尽きない。しかし救われたい一心でわたしの主体性がなくなり、わたしの生き方が見失われることがある。そういう生き方を親鸞聖人は「悲しきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」とおっしゃった。   わたしたちは生まれながらに自分さえ良ければという煩悩を身にまとっている。それはまるで甲冑を着ているようであり、その姿を煩悩具足という。その甲冑の重さで身動きが取れなくなってしまっては意味がないのではないか。わたしがわたしらしく生きるために、わたしの弱さを知ることも大切なのかもしれない。                                  (宗教・英語科 髙橋愛) >>> トップページへ https://www.otani.ed.jp

ケシゴムの本当の役割は 間違いを消すことじゃなくて、間違えたっていいんだよって、 えんぴつを安心させることだ

今週の一週一言                                   5 月 15 日~ 5 月 22 日 ケシゴムの本当の役割は  間違いを消すことじゃなくて、    間違えたっていいんだよって、 えんぴつを安心させることだ                        「ケシゴムライフ」より                                    「ケシゴムライフ」・・・ 2014 年出版されたコミック。 日本初の漫画家育成ファンドの対象作品。 本当に人はずっと孤独なのか・・・。どこにでもあるような普通の高校を舞台に、青春の時を過ごす高校生たちのつながりを爽やかに描く、オムニバス形式の短編集。著者は羽賀翔一( 1986 ~)。茨城県出身。学習院大学卒。 2010 年『インチキ君』で第 27 回 MANGA OPEN 奨励賞受賞。 現在Twitterで「お題マンガ」として日々1ページ漫画をアップしている。   【如是我聞】   五月病の季節になった。予防には、腸内環境を整えるのがいい、と朝の情報番組で耳にした。それには発酵食品! 納豆や味噌汁、そしてヨーグルトらしい。どれほど前になるのか、カスピ海ヨーグルトなるものがはやった。たしか、我が家でも母が製造していたように記憶している。しかし、自家発酵させると毒化する可能性があり危険、という専門家の意見で一気に消え去った。発酵にもいろいろあるようで、それで体内環境を薄幸にさせるわけにもいかぬ(ダジャレです)。 人間が生きていれば、間違いも犯すし、傷も負う。問うまでもなくネガティブなことだが、実は意外と「傷」には「毒」ばかりではなく、効用も存在している。 消える間違いと消えない間違い。最近はICT化の暴走で、ずいぶんと消えなくなった。でも、もともと消えないものじゃなかったのかな。気分転換も忘却も処方箋としては大はずれ。あまたの細菌が繁殖しだす。じっくりと自分で塩を塗っていくのが、荒療治でも正解か? 間違ったり、傷付いたり、でもそこが足場になれば自分自身は変わっていけるかもしれない。 “あのこと”によって今の僕がある、と言えれば発酵完了ということになるのだろうか。               

しんのすけ とうちゃんが人生で一番幸せだと思ったのは お前とひまわりが生まれたときだ

今週の一週一言 5 月 8 日 〜 5 月 14 日 「しんのすけ とうちゃんが人生で一番幸せだと思ったのは お前とひまわりが生まれたときだ」 野原 ひろし(「クレヨンしんちゃんより) 野原 ひろし  漫画「クレヨンしんちゃん」の主人公、野原しんのすけの父親。一家の大黒柱として家族を支える。家族を傷つけるものや、悪に対しては立ち向かっていく正義感の強さの持ち主であり、情に厚く、涙もろい性格である。 【如是我聞】  かくばかり 偽り多き世の中に 子の可愛さは誠なりけり この4月、我が家に大きな変化が訪れた。私が定年を迎えたなどというのは小さなことで、一人娘が家を出たことが一大事であった。「家を出た」と言っても、むろん家出した訳ではなく、就職で一人暮らしを始めたわけである。  娘はもう二十六歳なので、順調にいっていればもう3~4年前には社会に出ていたはずなのだが、それが ( 詳細は省くが ) いろいろあって今年まできてしまっていた。本校でも何年も前から、娘と同年の先生が何人も勤めておられ、皆さん立派に働いておられるのを見るにつけ、それに引きかえ…といつも思っていたが、ついに遅ればせながら娘も社会人の仲間入りを果たしたのである。  会社を選ぶ際、京都という選択肢もあったようで、迷っている様子だったが、娘は結局、勤務地が遠いほうの会社を選択した。実のところ私としては、家から通えるところを選んだ方がよいのではと思っていた。というのは、娘はいい年をして炊事洗濯や掃除といった家事全般のことはみんな親がかりで、自分はほとんど何もしていなかったので、大丈夫かなという不安があったのだが、本音を言えば家にいてほしいというのが第一であった。しかしながら、親のエゴを押しつけて、せっかく自立しようとしているのを妨げてはいけないと思い、やせ我慢をして口をつぐんでいた。  3月末にバタバタと引っ越しを済ませ、その後いったん帰ってきて、この4月の初めにいよいよ本格的に家を離れるということになり、駅の改札で見送って姿が見えなくなった後、寂しさがこみ上げてきて不覚にも涙がこぼれた。妻と二人だけになってみると、娘のいた部屋はガランとして、そこだけポッカリと穴があいたようである。  冒頭にあげたのは、「藪入り *

悪魔は誘惑しない。誘惑するのは自分自身である。

今週の一週一言 2 月 13 日 〜 2 月 19 日 悪魔は誘惑しない。誘惑するのは自分自身である。   ジョージ・エリオット( 1819 〜 1880 )  イギリスの作家。本名はメアリー・アン・エヴァンズ。 女性作家は陽気なロマンスしか書かないという固定化されたイメージから逃れるため男性名のペンネームを使用した。 彼女の作品である『ミドルマーチ』は英語で書かれた最高の小説のひとつに数えられている。 【如是我聞】  イギリスの作家であるジョージ・エリオットの言葉であれば、原文は英語であろうと思い、まずはインターネットで調べてみた。 No evil dooms us hopelessly except the evil we love, and desire to continue in, and make no effort to escape from. 『 急進主義者フィーリクス・ホルト( Felix Holt, the Radical )』 1866  見つかった英文を今流行りの DeepL にかけてみると、「私たちが愛し、続けたいと願い、そこから逃れようと努力しない悪を除いて、私たちを絶望的に破滅させる悪はありません。」機械翻訳の精度がここまで向上したことに感動しながら、今回のテーマとなった日本語とは少し異なるなぁなんて思った。 ここで使われている “evil” ってのは “devil” とスペルも意味も似ているなぁなんてことを思いついてしまった。そこで、最近ハマっている単語の歴史(語源)の深掘りをしてみることにした。まず、ジーニアス英和大辞典を見てみると、 evil は「 12 世紀以前に初出し、古英語の yfel [限度を超えている]が原義」とあった(ちなみに昔の f は /v/ とも発音されていたので、今の綴りとも合致する)。 devil もほぼ同じ綴りなので、同語源ではあるまいかと思い、同辞書を当たると、「 12 世紀以前に初出し、ギリシア語の diabolos [悪口を言う人(悪いやつ→悪魔)]が由来」とあった。おお、元となる言語すら違っていた。 続けて Oxford Advanced Learner’s Dictionary の語源コーナーも見てみた。 ev

何をするかよりも、もしかしたら大切なこと。“誰とするか”。

今週の一週一言                                   1 月 30 日~ 2 月 5 日 何をするかよりも、もしかしたら大切なこと。“誰とするか”。 Real Clothes より Real Clothes  槇村さとるによる漫画。百貨店の婦人服売り場で働く女性販売員に焦点を当てた「働く女性」を描いた作品。 【如是我聞】  昨年の 6 月 24 日(金)のことである。本山で研修があり、 7 時過ぎに京都駅に着いた。集合は 8 時。時間があるのでコーヒーでも飲もうと、近くにあったカフェに入った。屋外のテラス席があったので、空いているテーブルについて、携帯に「大谷翔平」と打って動画を見ることにした。この 2 日間の彼の活躍はすさまじい。ホームランを 2 本打って 8 打点を挙げた翌日は、先発投手として 8 回無失点 13 奪三振。先発した試合では、 3 回続けてチームの連敗を止めていた。  回が進むにつれて、彼の奪三振ショーに味方ベンチもスタジアムも異様な盛り上がりを見せる。「オオタニサン!」「スゴイッ!」「イッテラッシャイ!」。実況も解説者も興奮を隠せなくなり、日本語が飛び交う。 7 回の表であったか、 3 アウト目を三振で奪うと、投げ終えた反動のままにくるりと後ろを向いて、右手に力を込めて吠えた。やばい。かっこよすぎる。 メジャーではピッチャーが三振を取ったときなどに、バッターに向かってガッツポーズを決めたり、大声を出したりするのは侮辱にあたるという。後ろを向いて、吠えたのには理由があったのだ。 「すごいなあ~。かっちょええなあ~」。携帯をしまいながら、心の中でつぶやいた。 その時、バックする際の「ピポン、ピポン」という音を立てながら、観光バスが隣の旅館の前に移動してきた。宿から制服を着た中学生が出てきて、次から次へとバスに乗り込んでいく。ここ数年、コロナによる自粛期間が繰り返され、京都で修学旅行生を見るのは本当に久しぶりだった。 (一月もしない内に第 7 波が来ることは、この時まだ誰も知らない) バスのドアが閉まる。玄関先で一人の仲居さんがえんじ色の前掛けをして、笑顔で大きく手を振っている。バスの中から手を振り返す生徒たち。バスが出発し、その

人間の値うちは、テストの点数だけで決まるものじゃないのよ

今週の一週一言                                   1 月 10 日~ 1 月 15 日 人間の値うちは、テストの点数だけで決まるものじゃないのよ しずかちゃん『ドラえもん』) 源 静香 ( みなもと しずか ) 藤子・ F ・不二雄の漫画作品『ドラえもん』に登場する架空の人物で、同作品のヒロインである。野比のび太が憧れるクラスメイト。主要人物内での紅一点的存在である。愛称は「しずかちゃん」 【如是我聞】  幼いころから毎年、大晦日年越しそばを食べながら「今年はどんな一年やった?」と父に訊ねられた。幼いころはそこまで深く考えることもなく、「こんなことをやったよ、できたよ」と伝えることができたが、高校生になると、今年一年を振り返って「何かコレを頑張ったと誇れるものがない」と感じることも多くなり、私はなかなか答えられなかった。一年の節目で聞かれることなので、自分をカッコよく見せたい、この一年での「結果」を示したいことばかり考えていた。サボっていたわけではないけれど、特に秀でるものがない。何かスポーツで頑張って勝ったとか、何かで表彰されたこともない。勉強は、やることはやるがそこまで光るものもない。自分の力はこのくらいだしと思う一方で、頑張っていないこともないと意地を張る自分がいる。カッコつけたい私は「まぁまぁちゃう」と父に伝えた。案の定、父には「まぁまぁって、何や。文章で言え」と言われ、自分で自分を窮地に追い込んでしまった。父は「一年最後だから、できたことばかりを聞きたいのではなく、できなかったことを振り返り、次はできるようにするということを言ってほしかった」と言われた。そんな思いがあるのなら、最初から言ってくれていたら答えやすかったのにと思いつつ、それを口に出すとまた追い込まれるので、心の中にぐっと抑えた。それでも気がかかりなのは「次はできるようにする」ということで、今はできていないけれど、今後はできるようにならなければならない。大きいことも言えないし、ちょっと頑張ればできることにしておかないといけないなと思い、「朝、お母さんに起こされなくても自分で起きるようにする」と答えた。高校生の頃の私は決して無理すぎることは言わなかった。ましてや、勉強での目標なんて言わなかった。高校

凡庸な人間が自然を模写しても決して芸術品にはなりません。 それは彼が「見」ないで眺めるからです。

今週の一週一言 10月31日~11月6日 凡庸な人間が自然を模写しても決して芸術品にはなりません。 それは彼が「見」ないで眺めるからです。 オーギュスト・ロダン オーギュスト・ロダン   1840 年~ 1917 年。フランスの彫刻家。 19 世紀を代表する彫刻家とされ、「近代彫刻の父」とも称される。ほとんど独学で彫刻を習得したことで知られている。 【 如是我聞 】  オーギュスト・ロダンと言われて,ハァ?と思う人もいるかもしれないが,「考える人」と言われて知らない人はいないだろう。でも , あれも単体でつくられたのではなく「地獄の門」という未完の作品の一部だ。「地獄の門」は未完で写真しか見たことがないが , 見る限りすごい迫力を感じる。その門の上の方にちょこんといるのが「考える人」なのだ。地獄を見て私も考えた,ということだろうか。  そのロダンだが,美術の専門教育を受ける機会もなく独学で彫刻を習得したらしい。そうなったのは,エコール・ボザールという美術学校に2浪(3回受験)しても受からず , まったく相手にされなかったからで , 結局職人として働きながら技術を磨いた彼は学校 ( アカデミズム ) というものを嫌悪するようになる。もちろん技術の自信も身についてのことだろう。 ( この話 , 個人的には大学と縁がなかった牧野富太郎を思い出す。牧野の弟子の講演を聴いたことがあるが,大学というものへの嫌悪感をあからさまにしていた。)その間,将来の伴侶となる女性とも出会って職人としてまじめに働くが生活が苦しくなる。彫刻もあきらめそうになった 35 歳に,奥さんと訪れたイタリアでミケランジェロの彫刻を見て目ウロコだったそうで,故郷に戻り青銅の彫像に再び取り組んだ。アカデミズムへの嫌悪感も払拭されたらしい。あれだけ有名な彫刻家にしてこれだけ曲折した苦悩の人生があった。  さて、今回の言葉にある,「眺める」と「見る」ってなんだろうな,と思う。私個人は自然科学出身なので , まずは眺めることから始める癖がついている。でもロダンはきっと違うだろう。中学校で習う see と look の違い?, hear と listen の違い? そんな甘いことなんだろうか。「考える人」を思い出してほしい。あんな風に考え

If one does not know to which port one is sailing, no wind is favorable.

今週の一週一言 9月26日~10月2日 If one does not know to which port one is sailing, no wind is favorable. (もしどの港に向かって進んでいるのか分からなければ、好ましい風などない) セネカ ルキウス・アンナエウス・セネカ  紀元前 1 年頃~ 65 年。ローマ帝政初期の政治家であり、ストア派の哲学者。第 5 代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られる。 【 如是我聞 】  祖母がホームでしゃがんでいたので、上着をかけてあげたら、青いかけらになってはじけ飛び、たくさんのかけらはすぐそばの茂みの下にもぐりこんでいった。そのたくさんのかけらは、祖母の粘り、エネルギーの大きさ、評価を求めない潔さ、苦労話を言わないことの偉大さ、そのもので、塊みたいにぐわっと迫ってきたのだった。  場所は、海の中。  という夢をみて目覚める。少し、だるい。海の中にいたからだろうか。  夢は毎日見るが、祖母が出てきたことは今までなかった。だからこそしばらくぼんやりする。  少しずつ目覚めてきて、自身のセンサーが発動し、すぐさま祖母に会いに行かなければと思い、実家に電話をする。  「昨日、会いに行ったけど、いつもと変わらなかったよ。平日に無理に帰って来る必要はないよ。」と母に言われ、行くのはやめた。  その日の晩に祖母は亡くなった。  死は恋愛の別れといっしょで、ああしていればこうしていればが必ずあるし、しばらくは頭がそのことだけでいっぱいで、いつも自分のトーンを薄暗く支配している。先週の今頃はまだいた、先月の今頃は会っていた、そんな気持ちでしかカレンダーを見ることができないのも似ている。あの時に戻れるならなんでもするのにな、と思うところも似ている。  普段、私はあまり揺れない。誰が作ったのかも分からない規定のルールに沿うのではなく、自分の信じる道を自分で決めて歩いていくタイプ ― だと自負しているにも関わらず、突然とんでもなくコンサバな自分が顔を出すことがある。つまり、「より多くの人が右を選んでいるのだから、やはり自分も右に行くほうが安全なのではないか」という考えに支配されそうになる。ただ、「そ