スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

もうひとりのあなたがあなたをみているのよ  見放されないようにね 嫌われないようにね

今週の一週一言                                   3 月 21 日~ 3 月 26 日   もうひとりのあなたがあなたをみているのよ             見放されないようにね 嫌われないようにね                      ミイ  ミイ・・・ムーミンファミリーと一緒に屋敷に住む、勇敢で怖いもの知らず、好奇心旺盛な女の子。 【如是我聞】  私の出身高校のトイレには貼り紙があった。「神様はいつも見ている。そっと見ている。じっと見ている。」これがすべてのトイレの個室中に貼ってあるのだ。この恐ろしい光景に慣れることは三年間なかった。意図は分かるものの、違和感しか持てないこの貼り紙を見る度に、当時高校生だった私は、神様は変な趣味があるのだなと、友人と面白半分に神をからかっていたものだ。あれから数年、あの神様は自分自身の良心だったのだと、ミイに改めて思い知らされた。 「もうひとり」の自分が自分をみている。ここでの「もうひとり」というのは、未来の自分かもしれないし、過去の自分かもしれない。もしかすると、今の自分を客観的に見ている自分なのかもしれない。私は、自分の中に二人の自分が同居していると思っている(多重人格という意味ではない)。一人は周囲の目を気にしながら他人に合わせて行動する自分。もう一人はわがままで自由奔放な自分。これは本音と建前の関係と似てはいるが、少し違う。周囲の目を気にする自分も「嫌なやつ、駄目なやつだと思われたくない」という本音から生まれたものだ。つまり、どちらも自分の本当の姿なのだ。  この二人が心の中で喧嘩を始めると、自分のコントロールがきかなくなる。私の場合は、周囲を気にする自分が出しゃばりすぎて、自由奔放な自分を圧迫する。そして、窮屈になった後者の自分が泣き叫び、わめき散らす。それからふてくされて口をきいてくれなくなる。こうなったら他人の手を借りずして事態はなかなか収束しない。このような体験が今まで何度かあった…。 センター試験前、休日は家で勉強していた。日曜、自分の部屋に籠もって必死の形相で机に向かう私。母は私の部屋に幾度となく押しかけて来た。そのたびに集中力はとぎれ、私は怒っていた。なぜかというと、母はいかにもお気楽そうに「買

祝 卒 業

今週の一週一言                                   2 月27日~3月20日 祝 卒 業                 【如是我聞】 小学校の卒業式は「呼びかけ」で始まった。自分の担当パート ( 呼びかけにしては長いセリフだったし、終わりの方だった ) まで緊張していた記憶がある。小さな町なので今でも小中一貫校の先駆けというわけでもないが、そのまま場所の異なる中学へという形だったので、卒業という感慨はほとんどなかった。「男子丸刈り」が強制されていたことへの抵抗を除いては。 中学校の卒業式は公立高校の入試の発表の前日であった。入学試験はそこそこできたつもりではいたが、併願校を受験していなかったので、あかんかったらどうするんやろという不安を抱えたままの卒業式であった。9年間ともに過ごした同級生たちと別れるんやなあという寂しさとともにちょっとした解放感を感じていた。 高校の卒業式は本校と同じく3月1日であった。当時はまだ共通一次もセンターテストもなく国立大学の入試の始まりは3月3日からの3日間であった。一人暮らしに憧れ、遠方の大学に出願していた私はその日の午後には旅立たなければならなかった。そのため、この日も卒業したんだなあという感慨に浸ることもなく、式やクラスのセレモニーが終わるとすぐに旅支度にとりかかったのを覚えている。 大学の卒業式の記憶はほとんどない。本来なら開通しているはずの新幹線は未完成であったが、観光見物を兼ねてというより、ほぼそれが目的ではるばる母と兄が来てくれたことだけを覚えている。その時点では4月から本校で働くことになるとは夢にも思っていなかった。 それから2週間足らずのうちに大谷に勤めさせていただくことになった。今年でもう37回目の卒業式である。中学部に9年在籍し、担任を持たなくなって ( 教務部長やら副校長で ) 16年ということもあり、高校生を担任として送り出したのはわずか4回しかない。それでも、やはり卒業式という感慨は特別である。大谷で学んでくれた生徒諸君を送り出すのは、寂しくもあり、誇らしくもある。ほとんど振り返ることもなく、未来に向かって飛び出していく姿を見送りながら彼らの明るい未来を願うばかりである。 そして、60歳となった私はこの春で定

聞思して遅慮することなかれ

今週の一週一言                                   2 月20日~2月27日 聞 ( もん ) 思 ( し ) して 遅 ( ち ) 慮 ( りょ ) することなかれ                             親鸞[ 1173-1262 ] ・・・浄土真宗の宗祖。9歳から29歳まで比叡山で修行するも、下山の道を選んだ。その後、師法然と出逢い「 廻 ( え ) 心 ( しん ) 」したという。しかし、35歳の 時 に師 ら とともに弾圧をこうむり、罪人として越後に流された。流罪後は北陸・関東地方で伝道し、62、3歳の時に京都に帰った。90年の生涯をみると、生没の地、師との出逢いの地である京都よりも、他の地域で過ごした時期の方が長いことに気づかされる。 【如是我聞】 「仏教って変わった教えだなあ」。僕は大学の講義中にふと思った。それは、次のような話を聞いたからであった。ブッダが生きていた当時の仏教教団は、ブッダと同じ出家した者を中心に成り立っていた。ただし、生産活動を不要とみなした彼らは、生存に必要な最低限の食べ物などを、出家していない人々(いわゆる在家)の施しから得るしかなかった。もちろん等価交換ではないが(交換ですらないだろう)、出家者が、食べ物などを施してくれた人に直接できる行為は〝はなし〟であった。つまり、仏教は誕生したときから、出家しない・出家できない人々の支えになりつつも、それらの人々に支えられて存在する宗教だったのである。 こんな素敵な仏教にまつわる話を聞きながら、僕は思ってしまった。「じゃあもしも、世界中の人がブッダに憧れて出家したら・・・」。そうなれば、支えてくれる在家信者がいなくなるので、出家者たちは自給自足するのかな。でもみんな出家しているから子孫を残さない。となると、出家者全員の寿命がきたら人類は滅んでしまうんじゃないか??「ブッダを理想としているのに、みんながブッダのようになったら破滅しちゃうなんて、なんか変テコな教えだなあ」。講義後、このことを友人に話したら即座に一言。「そんなこと考えてどーすんの?まずブッダなれへんでジブン」。あっ!そっか! 悲しきかなや自分の妄想。勝手にもしもの話をふくらませて、肝心の自分と現実に考えが届いていなか

愛ゆえに人は悲しまねばならん 愛ゆえに人は苦しまねばならん

今週の一週一言                                   2月13日~2月19日 愛ゆえに人は悲しまねばならん 愛ゆえに人は苦しまねばならん       サウザー 漫画『北斗の拳』のキャラクター。孤児であったサウザーは,南斗鳳凰拳の伝承者オウガイに拾われ,本当の父親のように愛情を受けて育つ。最後の試練において目隠し状態で、襲ってくる男を倒すように指示される。実はその敵とはオウガイ。自ら愛するオウガイを殺してしまったその悲しみから,彼は愛情を捨てることを決意するのだが,愛情を捨てきれない。自分を祭るピラミッドを子どもたちを使役して建設するが,子どもを殺すことはない(大人は平気で殺す)。またピラミッドの本来の目的はオウガイを祭るものだということが最後にわかるのである。サウザーは,作中で最も愛と情を求めた人物なのであった。サウザーの名言には,「退かぬ,媚びぬ,顧みぬ」というものもある。負け戦でも最後まで認めなかった時の言葉。                     【如是我聞】 母方の祖父のことを好きではなかった。なんでも仕切りたがる人で自分中心でなければ嫌な人だった。小学生だった頃,夏休みには旅行に連れて行ってくれたが,修学旅行状態で,引率の先生=祖父,と言った感じだった。家族で楽しむ旅行ではなかった。正直そういったルールとかに付き合うのが面倒くさかった。また,自分の武勇伝や,自分の不幸話を,何度も孫に語る。そして長い。これも嫌だった。他にも別の孫に対する贔屓がひどいとか,そういう理由もあって,だんだん会うのが嫌になり,仕方なく行く新年の挨拶くらいしか会うことはなくなった。 そんな気持ちが変化したのは,大学に入ったくらいだったと思う。新年の食事会で,例によって祖父が大演説を始めると思ったら,突然泣き崩れたのである。自分の老いに対しての不安に押しつぶされた様子で,自分の死がそろそろ迫ってきていることに対して,耐えきれず,死にたくないと泣く。弱さ丸出しで,今までは包み隠そうと必死で生きてきたのだな,と気づいた。そして今まで聞かされた語りは,自分を隠す虚勢だったんだろう。非常に上からの感情だが,祖父の弱さを受け入れようと。そう思った。 祖父は小さいときに,貧しさもあって両親からの愛情をあまり受け

雲の向こうはいつも青空

今週の一週一言                                   1月23日~29日 雲の向こうはいつも青空  ( There is always light behind clouds. ) ルイーザ・メイ・オルコット( Louisa May Alcott )( 1832-1888 ) アメリカの小説家。   「若草物語」 ( Little Women ) で知られる。                     【如是我聞】 小学生の頃 ( もう半世紀ほど前のことになってしまうのか ) 、当時小学校の先生をしていた私の伯母 ( 母の姉 ) が『少年少女世界名作文学全集』(そんな名前だったように記憶している)を読むように薦めてくれたのをきっかけに読書に目覚めた私は、片っ端からそれらの作品を読むようになった。三銃士、岩窟王、ああ無情、黒猫、黄金虫、宝島、シャーロックホームズ、ロビンフッド、トムソーヤ、ドンキホーテなどを読んでわくわくしていた。とにかく全部読むつもりでいたのだが、周囲の本好きの女子や伯母などは絶賛していたにもかかわらず、小学生の私には読んでも何かいま一つピンとこず、途中で投げ出したものが 2 作品あった。「赤毛のアン」と「若草物語」であった ... 。 さてその若草物語の作者のことばである。これに類することばとしては「明けない夜はない」「夜空の向こうにはもう明日が待っている」 ( 解散という明日だったんだなあ ) とか「やまない雨はない」と様々な表現がある。今、自分の状況がたとえよくなくても、いつかはそれが好転していくものだということのたとえとしてよく用いられる。 しかしながら、この夜明けや雨に例えた表現とオルコットの表現には大きな違いがあるように思う。前者は時間がたてば何とかなるといっているだけなのに対して、オルコットは、原文の英語を読むとより明らかになるのだが、雲の向こうには青空 ( 正しくは光 ) がいつもそこにあると言っている。これは『正信偈』 ( 幼い頃に母に教えられた時は音だけで意味はさっぱり分からなかったが)の中の 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇  (たとえば日光が雲霧に覆われても , 雲霧の下明らかにして闇無きがごとし)“ It is like the su

人間はみんなちがった眼で星を見ている だけど星のほうはなんにも言わずだまっている

今週の一週一言                                   1月16日~1月22日 人間はみんなちがった眼で星を見ている              だけど星のほうはなんにも言わずだまっている サン=テグジュペリ・・・ 1900 ~ 1944  フランスの作家。飛行家生活を題材として人間性の高揚を描く。代表作に童話『星の王子様』がある。                     【如是我聞】 第一話「私と星との出会い」  私と星との付き合いは、私が生まれてまもなく星朗と命名されたときからである。私が生まれた 6 月は梅雨で毎日雨が続き星を拝むことができない。しかし、私が生まれた瞬間に雨が止み、星空が見えたらしい。梅雨の長雨に洗われた空はとてもきれいで、瞬く星は本当に美しかったと名付け親の祖父は言っていた。そこで星朗と付けようと思ったらしい。私の両親はそんな変な ( ? ) 名前はあかんと反対したようだが、頑固な祖父が押し切り私の名前はめでたく星朗となった。そして、年度始めに星つながりでこれを書くことになった。 第二話「お星様になる」  私は妻のお父さんに会ったことはない。彼女と結婚するときにはもうすでに他界していた。命日は 8 月 15 日終戦記念日である。その日を迎えるたびに、世界平和を心から願う私は、その思いを強くするのと同時に、会ったことのない義父のことを思う。もし彼が生きていたら、私のことをどう思うのだろう?娘の婿として認めてくれるのだろうかと。私の長男が幼いころよく妻に、自分たちが会ったことのないおじいちゃんのことをよくたずねた。まだ、「死」ということがどのようなことなのかわからないときだったので、よく妻が、「おじいちゃんはお星様になって、みんなのことを見守っているんやで」と彼に言っていた。その長男は幼稚園の時にサンタさんに天体望遠鏡をお願いしプレゼントしてもらうくらい星が大好きだった。まだ自分で設定できなかったので、私が設定し最も照準を合わせやすい月をしばらくは毎晩見ていた。その都度長男は私に、「おじいちゃんはどの星なんだろうね。元気にしているかなあ。」と言った。そんな優しい長男は大きくなり小学生となった。先日、兄弟げんかしている彼が妹に発した言葉はこうで

今年は計画的になまけていたんだ。

今週の一週一言                                   12月12日~   今年は計画的になまけていたんだ。   ※  日本広しといえども、このような言葉が伝道掲示板で紹介されるのは大谷くらいでしょう。素敵です。(編集担当) 野比のび太・・・小学4~5年生の少年。 『ドラえもん』の 原作で唯一全話に登場する。                     【如是我聞】 『ドラえもん』がこよなく愛される理由の一つに、登場人物が決して赤の他人に思えないというのがある。もちろんドラえもんは夢と非日常の象徴であるが、私の周りにはのび太もスネ夫もジャイアンもいる。源の靜香ちゃんものび太のママもパパも出木杉君も。そしてこの私はどうかというと、それぞれのキャラの際立っている部分を時に少しずつ、時に大いに兼ね備えているように思えて仕方がない。  たまにうまくいくとすぐに自慢したくなる。我儘が過ぎて恥ずかしげもなく横着になる。みんなとうまくやっていきたいと思うあまり、日和見主義の八方美人になる。嫌なことは徹底的に先送りする。なんともはや、我が身はドラえもん登場人物の縮図である。  ちょうど30年前、大学を出てすぐの頃、京大で開かれていた5夜連続の公開講座に出かけた。作家で「ベ平連」の小田実氏の話に熱くなったのを覚えている。翌日は名前すら知らなかったのだが、上智大学の神学教授、ルーベン・アビト氏であった。講演の中で「現代人の抱える病」という話が出てきた。それは「常にアリバイを用意していないと不安になる」というものであった。当時は「大人というのはそんなものなのか」ぐらいにしか思わなかったが、50歳を過ぎ、まさにその症状を自覚することが増えてきた。「こう聞かれたらこう答えよう」、「ここを責められたらこう返そう」、「こういう状況に陥ったらこういうことにしてその場をやり過ごそう」、、。つまりはそういうことである。  のび太の発言には用意周到なアリバイの匂いは感じない。その場で思いついて口にしたのであろう。その点において、かなわないのだが、やはり言い訳が口に出るときは恥ずかしい自分が全開なのである。しかも悪いことに、「それなら仕方ないな」と言ってもらえると信じている。うそが通用すると。  アリバイを用意する

我々の目的は成功ではなく、失敗にたゆまずして 進むことである

今週の一週一言                                   11月28日~12月4日 我々の目的は成功ではなく、失敗にたゆまずして 進むことである ジョージ・スティーブンソン (1781~1848 )     イギリスの技師・発明家。 1814 年に実用蒸気機関車を開発し、さらに 25 年、ロコモーション号で客・貨物の蒸気機関車輸送に成功した。鉄道の父と称される。                     【如是我聞】 「進む」ってどこに進むんだ?失敗しないように、他人様に迷惑かけないように慎重に、丁寧に取り組むことが求められる場所に長時間いる私は、知らぬ間にそれほど動かなくてもいい小さな世界に居場所を求めるようになった。その小さな世界で、抱えている荷物を落ち度なく特定の場所に運ぶために、小股で歩みを速めている。遠くの景色を見ることはなく足元を見つめるだけだ。悲しいかな、近視的に過ごしている。  こんな私が、歩むべき大きな世界を取り戻すには、どうすればいいのだろう?井の中の蛙が大海を知るには、まずはその頭上で多様に変化する空を発見しないといけない。そこに大きな憧れを持つのだ。自分も変わることを強く望まないといけない。あとは物理的に動く。井戸の壁をよじ登り居場所となってしまった場所から出て行くのである。それは人に出会い続けることであると思う。知らぬ間に築き上げた狭いテリトリーから引きずり出してくれる自分とは異なる世界観を持つ人に出会うしかない。自分が通用しない世界に対峙することなのだろう。スティーブンソンが言う「進む」ってそう言うことなのかもと今は受け取っている。              (英語科 増田) トップページへ  http://www.otani.ed.jp

遠く宿縁を慶べ

今週の一週一言                                   11 月 21日~11月27 日 遠く宿縁を慶べ 愚禿釈親鸞・・・1173~1262 9歳から 20 年間自身の煩悩と闘い続けた末、法然上人に出遇い、本願の念仏によらなけ れば救われることのない身を自覚し、生涯自身の煩悩と向き合い続けたお方。           【如是我聞】   もしも、親鸞聖人が出遇った教えを学んでいなければ、私はどれほどの人を傷つけ、どれほど私自身を傷つけていただろう。  いつの間にか自分のことを棚にあげて他人を批評し、自分の価値観を疑いもせず、相手の気持ちや背景を知ろうともせず、時に私の勝手な気分で大切な人にばかり八つ当たりをし、都合のいい時だけいい顔をして、都合が悪くなると自分を守ることに必死になって、当然のごとくに責任転嫁をし、自分のことはひたすら正当化。とりあえず逃げて、ごまかして、甘ったれて。  傲慢で無責任で卑怯で軟弱な私の根性が、仏教を学ぶことで改善されたとは未だ思わない。しかし、仏教を学ぶまでは、この自分を悲しむことすらなかった。  うぬぼれているがゆえのイライラや、恩知らずであるがゆえの欲求不満など、あらゆる不快な感情のその原因が自分にあるなどとは到底思いいたることなく、都合のいい人たちとただただ愚癡をこぼし合っては、足の引っ張り合いをしていた。それによって誰かを傷つけているとも自分を傷つけているとも気づかないままに。  大学に入り、親鸞聖人の学ばれ方を学びはじめて、ようやくそんな自分の生き方の悲惨さに気づいた。ことあるごとに自分の煩悩の闇の深さを知らされ、その悲しさと、「だから私は仏教を学ばなければいけないんだ」という深い感動を覚える。  人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。  仏教に出遇えた感動は常に「今」発る。その時、遠い過去からの縁をありがたく思わずにいられない。これが、「遠く宿縁を慶べ」ということなのだろうと、私は受けとめている。 (宗教科   稲岡智子) トップページへ http://www.otani.ed.jp

あなたを愛している人たちは あなたが少々かっこ悪くても全く気にしない

今週の一週一言                                   11 月 14 日~ 11 月 20 日   あなたを愛している人たちは  あなたが少々かっこ悪くても全く気にしない                      ちびのミイ ちびのミイ ・・・ トーベ・ヤンソンが描く 『ムーミン』 シリーズの登場人物。怒りっぽくいたずら好きで、皮肉屋。だが悪意はない。 『ムーミン』 シリーズには、小説のほか、絵本、弟のラルスとともにロンドンの夕刊紙に連載したコミックスなどがある。 【如是我聞】  小さいころ、ムーミン一家が私の憧れだった。あれぞ家族の理想像、とさえ思っていた。厳密に言えば、ムーミンママの家族に対する包容力に憧れたのかもしれない。 ところでみなさん、『ムーミン』について、どのようなイメージをお持ちだろうか? 「花畑のなか、暖かい仲間に囲まれる日々、ふんわりとした優しい世界」、そんなところだろうか。 ...いえいえ、とんでもない。日本ではアニメ版の影響でそういうイメージを持たれがちだが、小説を読んでみると、真逆もいいところである。春の陽気よりも、郷愁ただよう秋の情景、不安をそそる海や天変地異なんかが背景になることの方が多い。相手の気持ちを読み、どこまでも正直な、言いかえればわりと辛らつな言葉だって飛び交う。コミックスにいたっては、あれはもうシニカル・コメディだろう。そういえば、幼い私に“皮肉”もしくは“皮肉屋”という言葉を初めて教えてくれたのは、ちびのミイだったような。 登場するキャラクターも、これまたあくが強い。孤独を愛する者、臆病で泣き虫、気まぐれ、社交好き。自分や周りの人、どこかしら、誰かしらが持っているはずの一面。普段はそっと隠されがちな人間の“一”側面が、キャラクターひとりひとりに、個性的な性格として与えられている。 一家のなかでも厄介なのが、ママの愛する夫、ムーミンパパだろう。彼が求めるのは自由と冒険。「さらば、たいくつな中年の日々!青春をとりもどすために旅立とう!」とかつての親友とともに旅立つこともあれば、だれにもなあんにも告げず、ニョロニョロに憧れひとり海に出てゆくことも。これが実際の家族にいたらわりと困る。子どもながらに思ったものだ。「パパ、家