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自信教人信 (自ら信じ人をして信ぜしむ)

今週の一週一言                               11月26日~12月2日 自信教人 ( じしんきょうにん ) 信 ( しん ) (自ら信じ人をして信ぜしむ)                         善導大師 善導・・・ 613年生まれ、681年没。親鸞聖人が師と仰がれた中国の高僧。  【如是我聞】   本校の初代校長清澤満之先生は、大谷大学の前身である真宗大学の初代学長も勤められた。先生は「真宗大学開校の辞」において、この善導大師の語をひいて「我々に於て最大事件なる自己の信念の確立の上に其信仰を他に伝える即ち自信教人信の誠を尽すべき人物を養成するのが本学の特質であります」と述べられた。  本校もまったくこの教えをもとに、開設されたのである。 本校の建学の精神である「樹心」とは、「自らの心を広大な仏の願いの中に置く」ということであり、東本願寺の標語である「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」も同じ趣旨である。  人を教化しようとするとき、まず自分がその生き方を実践し、それが良いものであること実感しておくことが第一だというのである。  この頃のグルメ番組を見ても、材料や彩りの良さは伝えることは出来ても、本当にその食べ物が美味しく安全で、何よりも生きる力になることは、なかなか伝わりにくい。 まず無心に食べて「うまい!」という実感が得られること、それが生きる力になる。          (文責:如)

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし

今週の一週一言                               11月19日~11月25日 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし                       宗祖親鸞聖人 親鸞・・・ 1173年京都生まれ、1262年没  【如是我聞】   我々にとって最もなじみある法語であり讃歌である。法要の最後を飾り、本山報恩講でも、最終日に高らかに詠いあげられる。しかし、問題はその後である。よかった、よかった、終わった、終わったという訳にはいかない。なぜなら、歌のような気持ちが、悲しいぐらいに湧いてこないからである。湧かないとすれば、身を粉に、骨を砕きなど、絵に描いた餅ならぬ、歌に詠われた単なる美辞であろう。私は、ここ数年いつもそのことが気になり、そして気になりつつそのまま放置していた。  では、宗祖はどうであったのか?報恩感謝の念に満ちあふれて生きられたのか? 恩徳讃に続き、次のような和讃がしたためられている。   仏智の不思議をうたがいて  自力の称念このむゆえ    辺地懈慢にとどまりて   仏恩報ずるこころなし  宗祖も私と同じであった。仏恩を報ずる心はないのだ。 しかし、どこまでもそういう自分自身を厳しく見つめ続けるところが、うやむやに誤魔化し続ける私との決定的な違いである。恩徳讃に続くこの和讃を読み、つくづくそう感じる。                      (文責:そ)

いかに文釈をおぼえたりとも信がなくはいたずらごとよ

今週の一週一言                               11月12日~11月18日 いかに文釈をおぼえたりとも    信がなくはいたずらごとよ                     蓮如上人 蓮如・・・ 1415年京都生まれ、1499年没 真宗の僧侶。本願寺第8世、中興の祖。衰退の極みにあった本願寺を再興し、現代の本願寺教団(東・西本願寺)の礎を築いた。 【如是我聞】   この一言を読み、なるほどごもっとも、と頷く。そして我々は、そうだ「信念」が大切だ、何事も「信念」をもって行動すべきだ、と納得する。しかし、この「信念」というやつが甚だやっかいである。  そもそも信念を伴わない行動などというものがはたして存在するのだろうか?強いか弱いかを別にして、何らかの判断、思いが我々の行動の先にはあるはずだ。しかし、それがあまりにも、そして恥ずかしいばかりに利己的で、かつ場当たり的であることが問題なのだ。  確たる信念は美しい。しかし、人間はそれによって他者を傷つけたり自分が傷ついていったりもする。しかも、強ければ強いほど取り返しのつかない傷つき方をしてしまう。 えーい、ままよ!信念などくそ食らえ、俺は流され流され生きてやる!!  それもまた、身勝手な信念であった。ころころ変わるのも私の信念の特徴かもしれない。                      (文責:そ)

苦しみの報酬は経験なり

【11月 5日】  苦しみの報酬は経験なり アイスキュロス  前 525 ~前 456          アテネの三大悲劇詩人の一人。『アガメムノン』・『縛られたプロメテウス』などが残る。  私たちは自分の苦労話をするのが大好きです。しかし、さまざまな苦しい 出来事に遭い、その結果として得られた経験が、単なる苦労話にとどまって いては、自分の糧となる生きた経験とはなりません。その苦しい経験が他者 へも向けられ、他者への共感となってこそ、本当の経験となるのでしょう。 なぜなら「私」一人の苦しみは、実は人類全てに共通する苦しみであるはず だからです。私たちは孤立しているわけではなく、不可思議としか言いよう のない他者との様々な縁によって、ただ今このいのちをたまわっている存在 です。他者とのかかわりなしに、この私は存在しません。私たちは単独で生 きているのではなく、相互依存の関係の中を生きているのです。相互依存の 関係を生きている以上、他者の苦しみに「知らん顔」するわけにはいきませ ん。 病を得てはじめて健康のありがたさを知り、大切な人をうしなってはじめ ていのちのはかなさを実感する。そのような人は同じ境遇の人に優しくなれ るはずです。これこそがアイスキュロスのいう報酬かもしれません。 (や)

すぐ「わかりました」という人間に、わかったためしはない

【10月29日】  すぐ「わかりました」という人間に、わかったためしはない 小早川隆景     1533 ~ 1597          毛利元就の第3子。安芸の小早川家を継ぎ、毛利氏の中国覇権確立を助けた。秀吉の五大老にも列し、朝鮮出兵にも従軍した。  すぐにわかりましたと言う人は、その指示さえ守ればいいと思っているの で、自分の頭で考えようとしません。臨機応変の対応に弱く、応用がききません。そんな人は命がかかった戦場では使えないのです。隆景にとって、そのような部下は扱いに困る存在であったに違いありません。「わかったためしがない」とわざわざ言っているのは、周囲にそんな人物が多くいたからかもしれません。  使い勝手の悪い部下を持って苦労しているのは何も隆景だけではありません。私たちも同様かもしれないのです。例えば知識として仏教を学んでいても、そこにこの私自身を通した実感がともなわないと、仏教は生きた教えになりません。これを確かめ続けることを聞法といいます。聞法に終わりはありません。一生続けなければならない大切なことです。「聞く」ことは「信じる」ことと別々のものではなく、一つのものだからです。 また聞法は、けっして私にとって役に立つ言葉をさがすことではありません。そうではなく、逆に自分の生活を常に照らし出してくださる言葉に出会うこと、つまり、言葉につかまれる体験だと思います。そしてそのように私の血肉となった言葉だけが、私の本当の学びとなっていくのだと思います。 ともすればその場だけのこととして、あるいは今度の授業で使ってやろうなど、仏教の言葉を自分の都合でしか聞いていない私です。蓮如上人はこのようなありかたを、「 意 ( い ) 巧 ( ぎょう ) にきき」、「ただ、 得手 ( えて ) に法をきく」と厳しく戒めてくださいます。 (や)

しずかに急げ

今週の一週一言                                  10月21日~10月27日 しずかに急げ                     カエサル カエサル・・・ 前 100 年頃~前 44 年   古代ローマ平民派出身の政治家。第1回三頭政治、ガリア遠征などで独裁権を得る。『ガリア戦記』などの著作でも知られる。ラテン語でガイウス=ユリウス=カエサル。英語ではジュリアス=シーザー。 【如是我聞】   カエサルは何を急いでいたのでしょう。「しずかに急げ」の出典は明らかではありませんが、ルビコン川を渡る時に、部下に命じたことばかもしれません。  私たちは毎日、様々なことに急かされて生活しています。しかし、忙しさを言い訳に、たくさんのことを先送りにしてしまっています。ひょっとしたら、どうでもいいようなことにまで急かされているのかもしれません。では、私たちが本当に急がなくてはならないこととは何でしょうか。 蓮如上人は「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。仏法の事は、いそげ、いそげ」とおっしゃったといいます。私には上人が「何をぐずぐずしているんだ!本当に大切なことに目覚める時は、今をおいてほかには無いんだぞ!」と厳しい顔つきで叱りとばしたあと、一転優しい笑顔で「いそげ。いそげ。」と私たちを励ましてくださっているように思えるのです。本当に大切なこと、そして私たちが本当に急がなくてはならないこと。その答えの一つが本山(東本願寺)の壁面に大書してあります。「生まれた意義と生きる喜びをみつけよう」と。私は本山の前を通るたび、「そうやったなぁ」と思うのですが、通り過ぎるころにはもう別のことに急かされています。いそげ、いそげ。                         (文責:や)

失敗の最たるものは、何一つそれを自覚しないことである

今週の一週一言                                   10月15日~10月21日 失敗の最たるものは、何一つそれを自覚しないことである                トーマス・カーライル Thomas Carlyle (1795-1881)・・・19世紀イギリスの歴史家・評論家。スコットランド出身。『英雄崇拝論』『フランス革命史』など。 【如是我聞】  「先生教科書がありません」と生徒。よくよく話を聞くと家に忘れたということが言いたかったそうです。「それは教科書のせいにしたらアカンなー」と諭しながら、こんな譬え話を思い出していました。 人が茶碗を割ったら「あの人が割った」 自分が割ったら「茶碗が割れた」  わたしも実際、ガッシャーンという音に驚き駆け付けた家族に「お皿割れちゃった」と何回言ったことか。偉そうに言いながらもとっさに「ごめんなさい」が言えないわたしです。知らずのうちに都合のいいものさしで物事をはかっている。ここでは測っているというよりも、くわだてるという意味では謀っているのかもしれません。  あらゆる面で自分を中心に思う身勝手な心を「我執(がしゅう)」といいます。「自分が」という気持ちが強くなると、ますます「自分を良く見せたい」と思ってしまう。またこれは熱心に学ぶ人ほど深く執着し、傲慢になるというところが恐いところでもあるようです。いつでも初心に立ち返り、心の濁りを明らかにしていきたいものです。 (文責:さ)

生まれるのはやさしいが 人になるのは難しい

                              10月8日~10月14日 生まれるのはやさしいが 人になるのは難しい                  フィリピンの諺 【如是我聞】  わたしは人間のはずなのに、人の間でうまく生きられない。わがままなくせに脆くてどうしようもない。  普段は嘘と綺麗事で誤魔化して、悪口と二枚舌で強く見せているだけ。本当はものすごく人の目を気にする臆病者だ。そして人と比べて幸せをはかっては、何となくいつもイライラしている。事と次第では何をしでかすかわからない、まったく情けないわたしである。  しかし、このままではいけないことも十分わかっている。きっとみんなそうだ。得意なこと、苦手なこと、好きな人、苦手な人・・・全てから逃げちゃいけない。わかっているが、それが凄く難しい。悩んだり笑ったり疲れてしまうこともあるけれど、それでも諦めずに長い時間をかけて。私たちは人の間で人になるのだろう。  生まれた意味は?生きる意味は?いつまで問い続けるのかわからない。けれども今ここに一生懸命になっているわたしがいる。答えは近いはずだ。もしかすると、既に出ているのかもしれない。 (文責:さ)

あなたが他の人々に求める変化を自分で行いなさい

今週の一週一言                                   10月1日~10月7日 Be the change you wish to see in other people. あなたが他の人々に求める変化を自分で行いなさい                マハトマ・ガンジー Mahatma Gandhi (マハトマ・ガンジー) ・・・ 1869年―1948年。インド独立の父。「非暴力、不服従」による平和を訴え続けた。政治思想家、人権活動家として、世界中に大きな影響を与えている。 【如是我聞】  「自分と違う考えを持っている人がいたらどうしますか?」という質問に、「一応自分の考えを話して、それでも駄目なら諦めます。」と答えてくれた生徒がいました。わたしが「それは平和ですか?」と問いかけると、周囲もうんうんと頷きました。続けて「そこに愛はありますか?」と聞くと、みんなシーンと静かになってしまいました。  個性を尊重することがどこかで間違った個人主義へと向かうこともあります。暴力や支配だけでなく、放っておくことも、そこに「わたしが正しい!」という考えがある限り、立派な自己中心的行為ではないでしょうか。 「愛は創造的肯定である」という考え方があります。愛は力とは異なり、その対象の中に入り込んで、それとまた新しいものを創り出します。そこにどちらが年上であるとか、そういったこと(力)は及びません。仏教を学ぶ私たちは常に同朋であるのです。 ガンジーは今も語り継がれる多くの名言を残しています。それらの言葉にはわたしたちが日頃つい忘れてしまう、けれども一番大切にしなければならない他を想う優しい気持ちが込められています。まずはわたしたちから開いていきましょう。「握り拳では握手できない」のですから。                           (文責:さ)

0から1への距離は 1から1000への距離より大きい

今週の一週一言                                   9月24~30日 0から1への距離は 1から1000への距離より大きい ユダヤの格言 【如是我聞】  私は昔から、何事につけても熱しにくく冷めにくい性格である。よく言うと慎重であり、大切だと思うことには粘り強い方だとも自負している。いや、それでは格好をつけ過ぎている。ただ、かかりが遅いだけであり、嫌なことは後回しにしているだけである。 しかし、興味がないことには全く心が騒がない。どれだけ世間がちやほやし、「えっ、知らないの?」等と真顔で言われても我関せずを貫くところがある。要は時代遅れに心地よさを感じる人間なのだ。   i で始まる様々な機器にも未だ無縁である。 AKB の前田さんと大島さんは何度見ても同じ人だ。そのくせ、今年に入って北方謙三にはまるや、『三国志』から『水滸伝』シリーズ約50巻を読み、続編を心待ちにしている。  趣味の世界ならばそれでいい。特に誰にも大きな迷惑はかけないだろう。しかし、仕事となると。勉強となると、、。締切があるとなると、、、、。  0が1になった時、流れるように、また、重なるようにそこに続く世界がある。それはすでに体感している。同時に、0を1にまで持っていくことがどれほど大変かも痛いほど経験している。1になるのを前に逃げたこともある。「あの時やっていれば」。でも、それは言うまい。   ある卒業生に教えられた。「しなければならないには二通りある。他人に言われるだけのことと、自分でそう思えたこと。前者は苦痛でしかない。後者も必ず苦痛は伴う。でも十分楽しめる。苦が単なる苦ではなく、自分を育てる大切な出会いになる。」と。 前者を 碍 ( げ ) といい、後者を 無碍 ( むげ ) というのだろう。 「念仏者は無碍の一道なり」。親鸞聖人の言葉である。もうすぐ報恩講。                             (文責:い)