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すぐ「わかりました」という人間に、わかったためしはない

【10月29日】  すぐ「わかりました」という人間に、わかったためしはない 小早川隆景     1533 ~ 1597          毛利元就の第3子。安芸の小早川家を継ぎ、毛利氏の中国覇権確立を助けた。秀吉の五大老にも列し、朝鮮出兵にも従軍した。  すぐにわかりましたと言う人は、その指示さえ守ればいいと思っているの で、自分の頭で考えようとしません。臨機応変の対応に弱く、応用がききません。そんな人は命がかかった戦場では使えないのです。隆景にとって、そのような部下は扱いに困る存在であったに違いありません。「わかったためしがない」とわざわざ言っているのは、周囲にそんな人物が多くいたからかもしれません。  使い勝手の悪い部下を持って苦労しているのは何も隆景だけではありません。私たちも同様かもしれないのです。例えば知識として仏教を学んでいても、そこにこの私自身を通した実感がともなわないと、仏教は生きた教えになりません。これを確かめ続けることを聞法といいます。聞法に終わりはありません。一生続けなければならない大切なことです。「聞く」ことは「信じる」ことと別々のものではなく、一つのものだからです。 また聞法は、けっして私にとって役に立つ言葉をさがすことではありません。そうではなく、逆に自分の生活を常に照らし出してくださる言葉に出会うこと、つまり、言葉につかまれる体験だと思います。そしてそのように私の血肉となった言葉だけが、私の本当の学びとなっていくのだと思います。 ともすればその場だけのこととして、あるいは今度の授業で使ってやろうなど、仏教の言葉を自分の都合でしか聞いていない私です。蓮如上人はこのようなありかたを、「 意 ( い ) 巧 ( ぎょう ) にきき」、「ただ、 得手 ( えて ) に法をきく」と厳しく戒めてくださいます。 (や)

しずかに急げ

今週の一週一言                                  10月21日~10月27日 しずかに急げ                     カエサル カエサル・・・ 前 100 年頃~前 44 年   古代ローマ平民派出身の政治家。第1回三頭政治、ガリア遠征などで独裁権を得る。『ガリア戦記』などの著作でも知られる。ラテン語でガイウス=ユリウス=カエサル。英語ではジュリアス=シーザー。 【如是我聞】   カエサルは何を急いでいたのでしょう。「しずかに急げ」の出典は明らかではありませんが、ルビコン川を渡る時に、部下に命じたことばかもしれません。  私たちは毎日、様々なことに急かされて生活しています。しかし、忙しさを言い訳に、たくさんのことを先送りにしてしまっています。ひょっとしたら、どうでもいいようなことにまで急かされているのかもしれません。では、私たちが本当に急がなくてはならないこととは何でしょうか。 蓮如上人は「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。仏法の事は、いそげ、いそげ」とおっしゃったといいます。私には上人が「何をぐずぐずしているんだ!本当に大切なことに目覚める時は、今をおいてほかには無いんだぞ!」と厳しい顔つきで叱りとばしたあと、一転優しい笑顔で「いそげ。いそげ。」と私たちを励ましてくださっているように思えるのです。本当に大切なこと、そして私たちが本当に急がなくてはならないこと。その答えの一つが本山(東本願寺)の壁面に大書してあります。「生まれた意義と生きる喜びをみつけよう」と。私は本山の前を通るたび、「そうやったなぁ」と思うのですが、通り過ぎるころにはもう別のことに急かされています。いそげ、いそげ。                         (文責:や)

失敗の最たるものは、何一つそれを自覚しないことである

今週の一週一言                                   10月15日~10月21日 失敗の最たるものは、何一つそれを自覚しないことである                トーマス・カーライル Thomas Carlyle (1795-1881)・・・19世紀イギリスの歴史家・評論家。スコットランド出身。『英雄崇拝論』『フランス革命史』など。 【如是我聞】  「先生教科書がありません」と生徒。よくよく話を聞くと家に忘れたということが言いたかったそうです。「それは教科書のせいにしたらアカンなー」と諭しながら、こんな譬え話を思い出していました。 人が茶碗を割ったら「あの人が割った」 自分が割ったら「茶碗が割れた」  わたしも実際、ガッシャーンという音に驚き駆け付けた家族に「お皿割れちゃった」と何回言ったことか。偉そうに言いながらもとっさに「ごめんなさい」が言えないわたしです。知らずのうちに都合のいいものさしで物事をはかっている。ここでは測っているというよりも、くわだてるという意味では謀っているのかもしれません。  あらゆる面で自分を中心に思う身勝手な心を「我執(がしゅう)」といいます。「自分が」という気持ちが強くなると、ますます「自分を良く見せたい」と思ってしまう。またこれは熱心に学ぶ人ほど深く執着し、傲慢になるというところが恐いところでもあるようです。いつでも初心に立ち返り、心の濁りを明らかにしていきたいものです。 (文責:さ)

生まれるのはやさしいが 人になるのは難しい

                              10月8日~10月14日 生まれるのはやさしいが 人になるのは難しい                  フィリピンの諺 【如是我聞】  わたしは人間のはずなのに、人の間でうまく生きられない。わがままなくせに脆くてどうしようもない。  普段は嘘と綺麗事で誤魔化して、悪口と二枚舌で強く見せているだけ。本当はものすごく人の目を気にする臆病者だ。そして人と比べて幸せをはかっては、何となくいつもイライラしている。事と次第では何をしでかすかわからない、まったく情けないわたしである。  しかし、このままではいけないことも十分わかっている。きっとみんなそうだ。得意なこと、苦手なこと、好きな人、苦手な人・・・全てから逃げちゃいけない。わかっているが、それが凄く難しい。悩んだり笑ったり疲れてしまうこともあるけれど、それでも諦めずに長い時間をかけて。私たちは人の間で人になるのだろう。  生まれた意味は?生きる意味は?いつまで問い続けるのかわからない。けれども今ここに一生懸命になっているわたしがいる。答えは近いはずだ。もしかすると、既に出ているのかもしれない。 (文責:さ)

あなたが他の人々に求める変化を自分で行いなさい

今週の一週一言                                   10月1日~10月7日 Be the change you wish to see in other people. あなたが他の人々に求める変化を自分で行いなさい                マハトマ・ガンジー Mahatma Gandhi (マハトマ・ガンジー) ・・・ 1869年―1948年。インド独立の父。「非暴力、不服従」による平和を訴え続けた。政治思想家、人権活動家として、世界中に大きな影響を与えている。 【如是我聞】  「自分と違う考えを持っている人がいたらどうしますか?」という質問に、「一応自分の考えを話して、それでも駄目なら諦めます。」と答えてくれた生徒がいました。わたしが「それは平和ですか?」と問いかけると、周囲もうんうんと頷きました。続けて「そこに愛はありますか?」と聞くと、みんなシーンと静かになってしまいました。  個性を尊重することがどこかで間違った個人主義へと向かうこともあります。暴力や支配だけでなく、放っておくことも、そこに「わたしが正しい!」という考えがある限り、立派な自己中心的行為ではないでしょうか。 「愛は創造的肯定である」という考え方があります。愛は力とは異なり、その対象の中に入り込んで、それとまた新しいものを創り出します。そこにどちらが年上であるとか、そういったこと(力)は及びません。仏教を学ぶ私たちは常に同朋であるのです。 ガンジーは今も語り継がれる多くの名言を残しています。それらの言葉にはわたしたちが日頃つい忘れてしまう、けれども一番大切にしなければならない他を想う優しい気持ちが込められています。まずはわたしたちから開いていきましょう。「握り拳では握手できない」のですから。                           (文責:さ)

0から1への距離は 1から1000への距離より大きい

今週の一週一言                                   9月24~30日 0から1への距離は 1から1000への距離より大きい ユダヤの格言 【如是我聞】  私は昔から、何事につけても熱しにくく冷めにくい性格である。よく言うと慎重であり、大切だと思うことには粘り強い方だとも自負している。いや、それでは格好をつけ過ぎている。ただ、かかりが遅いだけであり、嫌なことは後回しにしているだけである。 しかし、興味がないことには全く心が騒がない。どれだけ世間がちやほやし、「えっ、知らないの?」等と真顔で言われても我関せずを貫くところがある。要は時代遅れに心地よさを感じる人間なのだ。   i で始まる様々な機器にも未だ無縁である。 AKB の前田さんと大島さんは何度見ても同じ人だ。そのくせ、今年に入って北方謙三にはまるや、『三国志』から『水滸伝』シリーズ約50巻を読み、続編を心待ちにしている。  趣味の世界ならばそれでいい。特に誰にも大きな迷惑はかけないだろう。しかし、仕事となると。勉強となると、、。締切があるとなると、、、、。  0が1になった時、流れるように、また、重なるようにそこに続く世界がある。それはすでに体感している。同時に、0を1にまで持っていくことがどれほど大変かも痛いほど経験している。1になるのを前に逃げたこともある。「あの時やっていれば」。でも、それは言うまい。   ある卒業生に教えられた。「しなければならないには二通りある。他人に言われるだけのことと、自分でそう思えたこと。前者は苦痛でしかない。後者も必ず苦痛は伴う。でも十分楽しめる。苦が単なる苦ではなく、自分を育てる大切な出会いになる。」と。 前者を 碍 ( げ ) といい、後者を 無碍 ( むげ ) というのだろう。 「念仏者は無碍の一道なり」。親鸞聖人の言葉である。もうすぐ報恩講。                             (文責:い)

師は、弟子にその準備が整った時にあらわれる

今週の一週一言                             9 月10日~9月16日 師は、弟子にその準備が整った時にあらわれる                                        チベットの格言 【如是我聞】  チベットは中国の西南に位置する自治区です。南にそびえるヒマラヤ山脈を始め、高大な山々に囲まれた山脈地帯です。  チベット仏教がその地に生きる人々の思想を支えていますが、その教えに基づく格言の多くが日本でも広く知られ、その一つが今週の言葉です。  ここでいう「師」というのは、「私の大事な先生」と考えればいいと思うのですが、職業としての先生とか、立場として先生と呼ばれる人たちとかではなく、「今の私があるのはこの人と出会えたからだ」とか、「この人に出会えたことで私の生きる方向が定まった」とかいう、そういう人のことです。その人との出会いは、私にその準備が整った時に現われるというのです。  準備が整うというのは、どういうことかというと、「今の私の課題・解決したい問題や置かれている状況がはっきりした」ということではないかと思うのです。答えやアドバイスや将来に関わる大事なヒントを与えてくれる人は、すでに私の周りにはいっぱいいるんですね。でも、私の問題・課題がはっきりしていないから、そのアドバイスとか教えというものが響いてこないのです。  だから、ひょっとしたらもうすでに「師」は私の目の前にいて、その人とはしょっちゅう言葉を交わしているのかもしれないのですが、その人が「私の師」であるとは気付いていない、またはそうは思えない私がいるだけなのかもしれないんですね。  そう考えると、「師」つまり「私の大事な人」に会えるかどうかは、私にかかっているんですね。私が、今の私にとって何が必要か、何を求めているのか、それがはっきりしたとき、きっと「あ~この人を求めていたんだ」という出会いが成り立つのかもしれません。  親鸞聖人の「師」は法然上人ですが、決定的な出会いは親鸞さんが29歳の時だと伝えられます。しかし、親鸞さんは、もっと以前から法然さんのことを知っていたし、直接話したこともあったと言われています。「師との出会い」が成立するのに時が必要だったのでしょう。  「この人に会えてよかった」と心から言える人生を歩みたいものです。でも、「その出会いは私
WEBページでは「一週一言」を夏期休暇中ということで、2学期から再開の予定です。 また、現在、毎週木曜日21:00から KBS京都で放送中の「大谷発未来行」でもお聞きになれます。 よろしくお願いします。(本校ホームページでもお聞きになれます。)

7月9日~7月15日

7月9日~7月15日 なんでもやってみなはれや やらなわからしまへんで                                     鳥井信治郎 1879 年生まれ サントリー創業者。「なんでもやってみなはれや」は口癖だったという。 【如是我聞】 釈尊は6年間の苦行をやめた。親鸞聖人も20年間の比叡山での修行をやめた。両者とも、放棄したのではなく、「あきらめた」のである。 仏教では「あきらめる」を「諦める」という。「諦」とは真理・道理ということで、「諦める」とは、「真理・道理を明らかにする」という意味になる。 ただ単に「あきらめた」のであれば、後からもっともらしい理由や説明をつけて、自分の立場を正当化しようとする。負け惜しみによる自己満足や、やせ我慢である。まるでイソップ童話に登場するブドウを取り損ねたキツネのように。私たちがあのキツネの気持ちをよく理解できるのは、大なり小なりそのような経験があるからであろう。 「諦めた」のなら納得した上でのこととなる。納得した上で断念したのなら、そこには負け惜しみはない。自己を正当化する必要もない。安心して次へ進むことができる。人間、「諦め」が肝心だ。                      (や)

7月2日~7月8日

7月 2日~7月 8日 人が旅をするのは到着するためではなく旅をするためである               ゲーテ ドイツの文豪。 疾風怒濤 ( しっぷうどとう ) 運動の先頭に立つとともに、ヴァイマル公国の宰相に就任して政治家としても活躍。シラーと親しく、のちにはドイツ古典主義文学を大成。 【如是我聞】 「わたくしはこの歳になるまで、ただ急いで終点につくことばかりを考えていたらしい。目的を追い、結論にいたることだけに、じたばたしながら毎日を過してきたようである。一日一日に、花の香りは漂い流れているし、毎日毎日に、 落花 ( らっか ) の風情が興趣を深めている。そこに眼の及ぶこともなく、終点到着だ けに心奪われていた、ということになる。さて、その終点でいったい 何が待っているのであろうか。愚かなことである」。・・・「それにしても、今の子 供たちはどうなるのであろう。幼稚園から大学まで、そして卒業してからも一生涯、山の 彼方 ( かなた ) に何かがあるように思うて、その日その日を手段化し、競馬のように鞭をあてられ、走っている。やがて終点が見えてきたとき走り疲れた人たちは、こんなことをつぶやいている。〈何もしないでジットしていたい、自分が忘れたい、できたら蒸発したい〉。こういう人間を作ることが、教育の名のもとに行われているような気がしてならない」。         『 燈 ( とう ) 花集 ( かしゅう ) 』 (昭和52年) 広小路 亨 ( とおる ) 名誉校長の至言である。これ以上何を付け加える必要があろうか。                                                                                     (や)