一週一言インデックス

2023年2月14日火曜日

悪魔は誘惑しない。誘惑するのは自分自身である。

今週の一週一言

213219

悪魔は誘惑しない。誘惑するのは自分自身である。

 

ジョージ・エリオット(18191880

 イギリスの作家。本名はメアリー・アン・エヴァンズ。女性作家は陽気なロマンスしか書かないという固定化されたイメージから逃れるため男性名のペンネームを使用した。彼女の作品である『ミドルマーチ』は英語で書かれた最高の小説のひとつに数えられている。

【如是我聞】

 イギリスの作家であるジョージ・エリオットの言葉であれば、原文は英語であろうと思い、まずはインターネットで調べてみた。

No evil dooms us hopelessly except the evil we love, and desire to continue in, and make no effort to escape from.

急進主義者フィーリクス・ホルト(Felix Holt, the Radical)』1866

 見つかった英文を今流行りのDeepLにかけてみると、「私たちが愛し、続けたいと願い、そこから逃れようと努力しない悪を除いて、私たちを絶望的に破滅させる悪はありません。」機械翻訳の精度がここまで向上したことに感動しながら、今回のテーマとなった日本語とは少し異なるなぁなんて思った。

ここで使われている“evil”ってのは“devil”とスペルも意味も似ているなぁなんてことを思いついてしまった。そこで、最近ハマっている単語の歴史(語源)の深掘りをしてみることにした。まず、ジーニアス英和大辞典を見てみると、evilは「12世紀以前に初出し、古英語のyfel[限度を超えている]が原義」とあった(ちなみに昔のf/v/とも発音されていたので、今の綴りとも合致する)。devilもほぼ同じ綴りなので、同語源ではあるまいかと思い、同辞書を当たると、「12世紀以前に初出し、ギリシア語のdiabolos[悪口を言う人(悪いやつ→悪魔)]が由来」とあった。おお、元となる言語すら違っていた。

続けてOxford Advanced Learner’s Dictionaryの語源コーナーも見てみた。evilに関しては特に新しいことは見つからなかった。devilはまた面白いことが見つかった。「古英語dēofol由来である。(後期ラテン語経由、ギリシャ語のdiabolos[非難者、中傷者](ヘブライ語のśāānから翻訳)(dia[渡る]+ballein[投げる]からなる diaballein[中傷する]由来)」と書かれていた。ほお、diabolosSatanって同じだったのか。

やめておけばいいのにもう一つ辞書を見てみたくなった。今度は語源用の辞書であるOnline Etymology Dictionaryを使った。evilにも少し新発見。「語源となったyfelの元は原ゲルマン語のubilazbad, ill, wickedくらいの意味で使われていた」ようだ。そして、devilを見ていると、「ギリシャ語とラテン語の聖書ではdiabolusdemonが使い分けられていたが、英語などゲルマン系の言語では統合された」とあった。えっ、今度はdemonも調べないといけない。。。

いや〜、調べれば調べるほど言語の沼にハマっていってしまう。それにしても、多くの人にはあまり興味がなさそうなことをくだくだしく書き続けてしまった。うう、しかもこんな授業に直接関係ないことを子どもたちへもベラベラ話したくなってきた。これもすべて悪魔の誘惑のせいに違いない。

(英語科 杉原一輝)





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2023年2月1日水曜日

何をするかよりも、もしかしたら大切なこと。“誰とするか”。

今週の一週一言

                                  130日~25

何をするかよりも、もしかしたら大切なこと。“誰とするか”。

Real Clothesより

Real Clothes

 槇村さとるによる漫画。百貨店の婦人服売り場で働く女性販売員に焦点を当てた「働く女性」を描いた作品。

【如是我聞】

 昨年の624日(金)のことである。本山で研修があり、7時過ぎに京都駅に着いた。集合は8時。時間があるのでコーヒーでも飲もうと、近くにあったカフェに入った。屋外のテラス席があったので、空いているテーブルについて、携帯に「大谷翔平」と打って動画を見ることにした。この2日間の彼の活躍はすさまじい。ホームランを2本打って8打点を挙げた翌日は、先発投手として8回無失点13奪三振。先発した試合では、3回続けてチームの連敗を止めていた。

 回が進むにつれて、彼の奪三振ショーに味方ベンチもスタジアムも異様な盛り上がりを見せる。「オオタニサン!」「スゴイッ!」「イッテラッシャイ!」。実況も解説者も興奮を隠せなくなり、日本語が飛び交う。

7回の表であったか、3アウト目を三振で奪うと、投げ終えた反動のままにくるりと後ろを向いて、右手に力を込めて吠えた。やばい。かっこよすぎる。

メジャーではピッチャーが三振を取ったときなどに、バッターに向かってガッツポーズを決めたり、大声を出したりするのは侮辱にあたるという。後ろを向いて、吠えたのには理由があったのだ。

「すごいなあ~。かっちょええなあ~」。携帯をしまいながら、心の中でつぶやいた。

その時、バックする際の「ピポン、ピポン」という音を立てながら、観光バスが隣の旅館の前に移動してきた。宿から制服を着た中学生が出てきて、次から次へとバスに乗り込んでいく。ここ数年、コロナによる自粛期間が繰り返され、京都で修学旅行生を見るのは本当に久しぶりだった。

(一月もしない内に第7波が来ることは、この時まだ誰も知らない)

バスのドアが閉まる。玄関先で一人の仲居さんがえんじ色の前掛けをして、笑顔で大きく手を振っている。バスの中から手を振り返す生徒たち。バスが出発し、その後ろ姿に向けて手を振り続けた彼女は、バスが2つ先の信号を右折して見えなくなると深々と頭を下げた。頭を挙げた彼女は、身を45度回転させて、宿の玄関の方を向き、両手でガッツポーズをとりながら叫んだ。

「よっしゃ! 次行くで~」。

そう言って彼女は宿に戻っていった。その姿は、いままで僕の小さな画面の中にいた大谷翔平を彷彿とさせた。「かっちょええ~」。(ちなみにこのお宿のオーナーはうちの卒業生であったような。)

驚いたのは、彼女のその声の後に、「はいっ!」という声が続いたことだ。柱の陰になって見えなかったのだが、もう一人仲居さんがいたのだ。後ろに続いて玄関から宿に入っていったその仲居さんは、かなり若かった。おそらくは、二十歳にもなっていないように見えた。おそらくは彼女にとって、初めての修学旅行生のおもてなし体験だったのではないか。おそらくはその日、また別の団体が入ってくるので、その準備に向かうために「次行くで」と先輩に言われたのだろう。二人とも、それは素敵な笑顔だった。そんな素敵な光景に出会えた、素敵な素敵な朝のひと時だった。

「はいっ」と応えた彼女の笑顔から察するに、仕事を楽しむことができているようだ。また、その先輩の仲居さんと仕事をするのも楽しめているようだ。「いいなあ~」。

隣に文句と愚痴ばかり言いながら仕事をする人がいたら、気分は滅入るだろうな~。逆に、全く文句も言わず、常に前向きにバリバリと仕事をする人がいたら、それはそれで疲れるかもな~などとも思ってしまう。問題は、隣人にとって、私はそのどちらの存在でありたいのか。どうせ仕事をするなら、しかも自分で選んだ仕事をするなら、楽しんで仕事をする人でありたいな~。

これを書いている今日は私の誕生日。還暦まであと1年。「いつも楽しそうに仕事をされてますね~」なんて、若い人から言われてみたい。愚痴封印などできない。でも、愚痴をこぼすときすら楽しくこぼせるような人でありたい。

(宗教・英語 乾文雄)





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2023年1月17日火曜日

人間の値うちは、テストの点数だけで決まるものじゃないのよ

今週の一週一言

                                  110日~115

人間の値うちは、テストの点数だけで決まるものじゃないのよ

しずかちゃん『ドラえもん』)

源 静香(みなもと しずか)

藤子・F・不二雄の漫画作品『ドラえもん』に登場する架空の人物で、同作品のヒロインである。野比のび太が憧れるクラスメイト。主要人物内での紅一点的存在である。愛称は「しずかちゃん」

【如是我聞】

 幼いころから毎年、大晦日年越しそばを食べながら「今年はどんな一年やった?」と父に訊ねられた。幼いころはそこまで深く考えることもなく、「こんなことをやったよ、できたよ」と伝えることができたが、高校生になると、今年一年を振り返って「何かコレを頑張ったと誇れるものがない」と感じることも多くなり、私はなかなか答えられなかった。一年の節目で聞かれることなので、自分をカッコよく見せたい、この一年での「結果」を示したいことばかり考えていた。サボっていたわけではないけれど、特に秀でるものがない。何かスポーツで頑張って勝ったとか、何かで表彰されたこともない。勉強は、やることはやるがそこまで光るものもない。自分の力はこのくらいだしと思う一方で、頑張っていないこともないと意地を張る自分がいる。カッコつけたい私は「まぁまぁちゃう」と父に伝えた。案の定、父には「まぁまぁって、何や。文章で言え」と言われ、自分で自分を窮地に追い込んでしまった。父は「一年最後だから、できたことばかりを聞きたいのではなく、できなかったことを振り返り、次はできるようにするということを言ってほしかった」と言われた。そんな思いがあるのなら、最初から言ってくれていたら答えやすかったのにと思いつつ、それを口に出すとまた追い込まれるので、心の中にぐっと抑えた。それでも気がかかりなのは「次はできるようにする」ということで、今はできていないけれど、今後はできるようにならなければならない。大きいことも言えないし、ちょっと頑張ればできることにしておかないといけないなと思い、「朝、お母さんに起こされなくても自分で起きるようにする」と答えた。高校生の頃の私は決して無理すぎることは言わなかった。ましてや、勉強での目標なんて言わなかった。高校生のテスト点数や模試の偏差値の目標なんて公言したくない。できていないことがすぐばれることは言いたくなし、怒られるもとは作らない方がいいと思っていたからだ。そんなやり取りをして、12月31日の夜が終わった。

新しい年を迎え、家族そろっての新年の挨拶が終わった後、「今年の目標は何や?」と父に聞かれた。また新たな難題を突き付けられ、カッコをつけたい私は大いに悩んだ。家族にも聞かれるし、姉弟の中で一番年上だし、それなりのことを言わないといけないという思いにかられ「パス。先、言いや」と弟に振ると、父に「一晩寝たら忘れるんか。忘れるんなら、紙に書いて貼っとけ」と言われた。父は、目標のレベルはさておき、弟たちの前でさっと答えられるよう、さすがお姉ちゃんやなと言われるように前日から準備させてくれていたようだ。その上、「できなかったことの振り返り=目標」だということも教えたばかりなのにと、正月から父に小言を言われた。正月からやらかしてしまった…と思っている私に、笑いながら母は私に紙と筆ペンをさっと渡してくれた。

 

 それぞれのお正月、健やかにお過ごしになったかと思います。私は昔のことを振り返りながら、ふと笑っていました。もう父も母もいませんが、いろいろと教えてもらったこと、経験させてくれたおかげで、今の私がいています。まだまだ抜けていることも多く、失敗することも多くありますが、失敗からの回復力や粘り強さはなかなかある方ではないかと自負しております。今年の目標は「やりすぎない、やらなさすぎない、いい塩梅を選ぶ力を身につける」です。一つのことに集中すると、時間を忘れて没頭してしまい、聞き逃し、やり忘れることもあるので、今年はそのようなことのないようにと「いい塩梅」を心がけたいと思います。

(数学科 中山香里)





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2022年11月8日火曜日

凡庸な人間が自然を模写しても決して芸術品にはなりません。 それは彼が「見」ないで眺めるからです。

今週の一週一言

10月31日~11月6日

凡庸な人間が自然を模写しても決して芸術品にはなりません。

それは彼が「見」ないで眺めるからです。

オーギュスト・ロダン

オーギュスト・ロダン

 1840年~1917年。フランスの彫刻家。19世紀を代表する彫刻家とされ、「近代彫刻の父」とも称される。ほとんど独学で彫刻を習得したことで知られている。

如是我聞

 オーギュスト・ロダンと言われて,ハァ?と思う人もいるかもしれないが,「考える人」と言われて知らない人はいないだろう。でも,あれも単体でつくられたのではなく「地獄の門」という未完の作品の一部だ。「地獄の門」は未完で写真しか見たことがないが,見る限りすごい迫力を感じる。その門の上の方にちょこんといるのが「考える人」なのだ。地獄を見て私も考えた,ということだろうか。

 そのロダンだが,美術の専門教育を受ける機会もなく独学で彫刻を習得したらしい。そうなったのは,エコール・ボザールという美術学校に2浪(3回受験)しても受からず,まったく相手にされなかったからで,結局職人として働きながら技術を磨いた彼は学校(アカデミズム)というものを嫌悪するようになる。もちろん技術の自信も身についてのことだろう。(この話,個人的には大学と縁がなかった牧野富太郎を思い出す。牧野の弟子の講演を聴いたことがあるが,大学というものへの嫌悪感をあからさまにしていた。)その間,将来の伴侶となる女性とも出会って職人としてまじめに働くが生活が苦しくなる。彫刻もあきらめそうになった35歳に,奥さんと訪れたイタリアでミケランジェロの彫刻を見て目ウロコだったそうで,故郷に戻り青銅の彫像に再び取り組んだ。アカデミズムへの嫌悪感も払拭されたらしい。あれだけ有名な彫刻家にしてこれだけ曲折した苦悩の人生があった。

 さて、今回の言葉にある,「眺める」と「見る」ってなんだろうな,と思う。私個人は自然科学出身なので,まずは眺めることから始める癖がついている。でもロダンはきっと違うだろう。中学校で習うseelookの違い?,hearlistenの違い? そんな甘いことなんだろうか。「考える人」を思い出してほしい。あんな風に考えている人を見たことはないだろう。「ただ考えている」人を見ているだけなら,あんな像はできないはずだ。僕らだって毎日考えている。でもあんな姿勢で考えることはめったに(ほとんど,全く)ない。つまり彼は「考える」姿を極端に凝縮してあの彫像を造ったのだ。眺めただけのものをそのまま彫像にしたら,高校生がボーっと授業を聴いているように見える姿とか,私ならアルコールを取りながら本を読む姿になる。それでは「考える人」にはならないだろう。

 高校生でも大人でも,誰一人考えていない人はいない。でもあんな姿勢で考える人もいない。つまりロダンが「考える」を絞り出したらあんな風になっちゃったのだ。

 そして,それは彼が入学を果たせなかったエコールの姿勢への不平不満でもあっただろう。技術的なことを教えることに執着すると,まず虚心に眺めることから始めるはずだ。そんなことを勧めている学校に対して,俺はこれだけ人生と世間から学んだんだ,という反骨を見せたように思えるのである。彼がもしボザールに入学していたら,きっと「考える人」はできなかっただろう。「地獄の門」は結局最後までできなかったけど。

  余計なお世話だが,ロダンは考え過ぎだったと思う。私も含め,凡人はまずは眺めることから始めるべきだ。その上で見つかったことを発見というと思う。実際,最近のノーベル賞の発見ってみんなそんな感じだ。「こんな風なはずだ!」というんじゃなくて,「虚心に見てたらこんなもんが出ました」というのが正しい姿だし,そうして見つかったのが大発見ではないだろうか。眺めることから始めていない研究は捏造にもつながってしまう。

 最近は指定校推薦の面接に付き合っている。この面接も捏造が含まれてしまう。芸術は捏造も含まないと成り立たない。アンチアカデミズムに執着したロダンにしても,進級・進学に執着する我々にしても,自己主張には捏造がついてくるのである。ロダンの主張は,結局ただ虚心に眺めるだけでは足りない,ということだろうか。

(理科 木村)





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2022年9月29日木曜日

If one does not know to which port one is sailing, no wind is favorable.

今週の一週一言

9月26日~10月2日

If one does not know to which port one is sailing,

no wind is favorable.

(もしどの港に向かって進んでいるのか分からなければ、好ましい風などない)

セネカ

ルキウス・アンナエウス・セネカ

 紀元前1年頃~65年。ローマ帝政初期の政治家であり、ストア派の哲学者。第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られる。

如是我聞

 祖母がホームでしゃがんでいたので、上着をかけてあげたら、青いかけらになってはじけ飛び、たくさんのかけらはすぐそばの茂みの下にもぐりこんでいった。そのたくさんのかけらは、祖母の粘り、エネルギーの大きさ、評価を求めない潔さ、苦労話を言わないことの偉大さ、そのもので、塊みたいにぐわっと迫ってきたのだった。

 場所は、海の中。

 という夢をみて目覚める。少し、だるい。海の中にいたからだろうか。

 夢は毎日見るが、祖母が出てきたことは今までなかった。だからこそしばらくぼんやりする。

 少しずつ目覚めてきて、自身のセンサーが発動し、すぐさま祖母に会いに行かなければと思い、実家に電話をする。

 「昨日、会いに行ったけど、いつもと変わらなかったよ。平日に無理に帰って来る必要はないよ。」と母に言われ、行くのはやめた。

 その日の晩に祖母は亡くなった。

 死は恋愛の別れといっしょで、ああしていればこうしていればが必ずあるし、しばらくは頭がそのことだけでいっぱいで、いつも自分のトーンを薄暗く支配している。先週の今頃はまだいた、先月の今頃は会っていた、そんな気持ちでしかカレンダーを見ることができないのも似ている。あの時に戻れるならなんでもするのにな、と思うところも似ている。

 普段、私はあまり揺れない。誰が作ったのかも分からない規定のルールに沿うのではなく、自分の信じる道を自分で決めて歩いていくタイプだと自負しているにも関わらず、突然とんでもなくコンサバな自分が顔を出すことがある。つまり、「より多くの人が右を選んでいるのだから、やはり自分も右に行くほうが安全なのではないか」という考えに支配されそうになる。ただ、「その道こそが素晴らしいと思っているわけでは全くない」ので、自分の中にあるダブルスタンダードに引き裂かれそうになる。が、正解が分からないのでそのままグラグラ揺れてしまう。

 上記以外で人生で経験した二度の大揺れ。

 一度目の時の私の悩みは「結婚」。

 二度目は「子どもの教育」だった。これに関しては小さな揺れがしばしばやってくる。

 子どものときから、人間は自分の中にあるセンサーで生きている。ここでは働かないや、ここに行きたいなど。

 自分の中でセンサーが働いていることを何で判断できるかというと、違和感だけしかない。だから、仕事でも寒い中、薄着でも楽しい時もあるし、暖かくても居心地の悪いことがある。自分の中でしかセンサーがないので、それを大事にしたほうがいいと思っている。

 決断力というかセンサーが鈍っている、自身がぐらぐら揺れていると思ったときは何もしないというのが一番大切だ。忙しかったり、疲れていたり、おもねってみたり、とにかくキレが悪い感じに似ている。

 例えば、衣替えはしない、など。そんな時は衣替えは失敗する。理由は分からないけど、そんな気がする。間違ったものを捨てたり、間違ったものを残したりしてしまう。

 本来の自分ではない感覚がするというか。何か、どこか違うこととは、今ここでするべきではないこと。「そんな時は何もせずに眠る眠る〜」と大好きな民生さんの「すばらしい日々」を口ずさみながら、ズレはじめていた自分の「軸」が、もとの場所へと戻ってくるまで何もしない。

 よく感じてみて、体が向かないことは向くまでしない、できないがやらねばならないことはさくさくやってその場の楽しさを見つけてなるべく早く子どもに会いに帰る。深く考えすぎてこりかたまったものは、もし時間がたってゆるんできたらさっさと手放して今をエンジョイすることが私の信条だったりする。

(国語科 須藤か)





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2022年9月6日火曜日

世の中は美しい。それを見る目を持っていればね。

今週の一週一言

9月5日~9月11日

世の中は美しい。それを見る目を持っていればね。

聖メリーの鐘

聖メリーの鐘

 1945年に公開されたアメリカ映画。経営難に陥っている「聖メリー教会」に赴任してきた司祭が、教会とその付属学校を再建するまでを描く。

如是我聞

「世の中は美しい」、たぶんそうであると思う。理由は、普通に生活をしているほとんどの場合、「不便で、とてもじゃないけど、生活できない!」とはならないからだ。学校でも、レストランでも、コンビニでも、みんな大好き東京○○ランドでも、人々は働き、工夫を重ね、私たちは豊かな生活を享受している。角度を少しだけ変えて世の中を見渡せば、私たちの生活の一つ一つに、人々の知恵や努力があり、世の中は真に整然と回っていることが分かる。そう、「世の中は美しい!」のである。

そんなことは誰でも分かっている。分かっちゃいるけど、どうしても「世の中は美しい」と思えない時がある。それはつまり、自分の調子が悪い時である。怪我をしたり、病気になったり、誰かに怒られたり、予定がくるってしまったり、人間関係が上手くいかなかったり、etc…。世の中自体はさほど大きく変わっていないのに、暗く、「もう自分の人生おしまいだ!」、なんて思ってしまう時がある。そう、私たち一人一人は、きっと「心のフィルター」を通して、世の中を見ているのだと思う。だから、この「心のフィルター」がクリーンな時(調子の良い時)は、世の中が美しく見え、「心のフィルター」が汚れてしまっている時(調子の悪い時)は、世の中がくすんで見えてしまう。そして、やっかいなことに、この「心のフィルター」は非常に汚れやすいので、きめ細やかなお手入れをしなければいけないようだ。注意:大変申し訳ありませんが、「心のフィルター」に全自動クリーニングシステムは搭載されておりません。各自での定期的なクリーニングをお願い致します。「心のフィルター」のお手入れの時期、方法については各自において異なりますので、ご了承下さい。また、「心のフィルター」の交換につきましては致しかねます。

「世の中自体は美しい」、たぶんそうなんだろう。こんなにたくさんの人間が、何百年、何千年と命をつなぎ、よりよい世界を作りたいと望んできたわけであるから、世の中が美しくないはずがない。せっかく人間として生まれてきたんだから、生きている内に、「世の中は真に美しい!」、と何度かは感じてみたいものである。

(英語科 増本)





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2022年8月31日水曜日

明日の目的のために今日を生きているのではない。 今日が全部だ。 安田理深

今週の一週一言

8月29日~9月4日

明日の目的のために今日を生きているのではない。

今日が全部だ。

安田理深

安田里深(1900-1982

真宗大谷派の僧侶であり、仏教学者。鳥取県出身。金子大栄の著作を読んだことが契機となり、大谷大学へ入学。のち、大谷大学の教授となる。



【如是我聞

私が大学生だった頃、誰かに殺されたい妄想を持っていた。理由は、自分の未来を感じ取れず面 倒な未来を見たくない、というピーターパンシンドロームみたいな馬鹿馬鹿しい妄想だったと思う。しかし、自分から命を絶つ勇気もないあたりが、しょうもなすぎて恥ずかしい。

たしか、大学に入るまでは、父の影響もあって教員志望を明確に持っていた。大学に入ってしまうと、その自由さ故に、ヌルい私は、そんな思いもすっかりと消え、社会人以降の未来なんて考えたくもないと、ろくに勉強もせずモラトリアムを存分に無駄に過ごした。夜更かしして、酒飲んで、ゲームして、友だちと遊んで……とまぁ、だらだらと。無駄な時間は私にとっては非常に快適で、こんな楽しい時間がずっと続いてほしいと本気で思っていたのだ。

とはいえ、いつまでもそういうわけにはいかず。周りが卒業や卒業後取り組んでいく中、私もこの時間の終わりを意識しはじめた。そうした外圧とさまざまな巡り合わせもあって、なんとか卒業できてしまい、そして、社会人になってしまったのである。

そんな感じで仕事を始めた私なので、とにかく周りと比較して自分のレベルが低かった。本当に何もできないダメダメな教員だったと思う。反対に皆周囲は優秀でかなり焦った。焦るのが遅すぎるけど。そりゃサボってきた私と比較すれば当然なのだが。しっかりと明日の目的のために歩んできた人との差だなと、そのときは思った。

そこからは、教員としてスキルアップしなければ、という思いで努力してきたつもりだ。なんとか、やれているのだろうか。どれだけ他の人に追いつけたかはわからないし、グータラしてた経験が何か教育現場で活かせているのか、どうなのか。

自分のダラダラと「今日だけを楽しく」と考えていた学生時代を反省して、「明日の目的のため に」頑張るかが大事、と思っていた。今考え直してみるとその意識の仕方はたぶん違っていて、「今 という一日一日を大切に」することが大事なのではなかろうか。今日の人生が「結果的に」明日を 作る。目の前のことを大事にできないのに、その先につながるわけはない。今日が自分にとって最 後の日になるかもしれないし、当たり前にできていたことができなくなる明日がくるかもしれない。後悔の明日がやってくるかもしれない。

これは私だけかもしれないが、何か始めるとき、何事でも腰が重たくなる。ダラダラして始められない。でもそこからエイヤの一歩が、今日を大事にすることなのだろう。趣味だろうと、仕事だろうと、なんだろうと、本気で取り組むか、だ。

さぁ、全力で今日を頑張ろう。

 

日々の目標:「面倒なことこそ先にやる」「仕事を明日にまわさない」「自己研鑽する」「寝落ちをやめる」「積読・積ゲーを減らす」

(社会科 今堀)本校の WEB ページでも公開されています。過去の「如是我聞」もご覧いただけます。 www.otani.ed.jp     あるいは大谷中高でクリックを。





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2022年6月30日木曜日

我が目にて 月を眺むと 思うなよ 月の光で 月を眺むる

今週の一週一言

                                  627日~73

 我が目にて 月を眺むと 思うなよ

月の光で 月を眺むる

                        源空                                

源空・・・1,133年~1,212年 平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門で天台宗の教学を学び、承安5年、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を称えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。親鸞は終生師と仰ぎ、「真宗興隆の大祖」と呼ぶ。法然は房号で、諱は源空、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。

 

【如是我聞】

 

法然上人の月の和歌としては、「月かげの いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」が有名である。現在、浄土宗の「宗歌」ともなっている。以前、この一週一言にも登場したと記憶している。今回の「我が目にて」の和歌は、法然上人の作とは確定されていないようだ。私もそのように感じる。おそらくは「月かげ」の和歌に着想を得た、後世の念仏者が作ったものではないか。ただ、そうであるにせよ、上人の仏教観を見事に言い当てたものだと感服する。我々は己の力で何事かをなし遂げたいと願ってやまない。何ものかが成就したとき、自らの爪痕を探すのだ。そこに人間の焦りや傲りが生まれる。

そんなどうしようもない人間業は、あまりに重すぎる故に、ちょっと脇へ置こう。それよりも興味深いのは「月」ではないか。古来、月に心惹かれてやまないのも我々人間である。

月と太陽。陰と陽、全知全能にして生命の根源が太陽であるならば、月は死、までもいかぬにせよ、弱さやかげり、柔らかさ優しさを象徴しているように感じられまいか。昨今大騒動となった「スーパームーン」は、だからあまりに頓珍漢である。

朝ぼらけ 有り明けの月とみるまでに 吉野の里に ふれる白雪

「有り明けの月」はもの悲しげで趣深い。輝きを失っていく月は、地平線に沈むまで全力で熱と光を放射し続ける太陽に比して、なんと気高いものか。月は眺められようが、太陽は見た者の目を潰す。

 何事も完璧にやり通せぬ、妥協や言い訳に終始する人間は、やがて必ず衰えていく我が身を、月に投影するのだろうか。

そして、となりのかわいこチャンに微笑む。

 「月が綺麗ですね」

                              (文責:国語科・宗教科 曽我)





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2022年6月27日月曜日

人生はロールプレイング


今週の一週一言

                                  6月20日~6月26

人生はロールプレイング

堀井 雄二

堀井 雄二(1954~)

 「ドラゴンクエスト」シリーズの生みの親。

【如是我聞】

 「模試はゲームだ。経験値(勉強)を積むことで目標をクリアしやすくなるし、全国ランキングもやりがいがあって楽しい。」高校生の私にこう言い放った、ちょっと変な数学の先生がいた。そんな風に言われたって模試を楽しいなんて感じられるはずがない、と思ったが、案外これが私にはまった。装備を整えれば強くなれるように、英単語に取り組み語彙力を補強すれば点数は上がった。強敵に何度も挑めば攻撃パターンが読めてくるように、反復して練習することで数学の問題に対して解法の選択肢が浮かび上がるようになってきた。嘘みたいな本当の話だが、あの時に勉強するのを楽しいと感じさせてくれた先生のおかげで今の自分があるのだろうと思う。

そんな風に人生も、強敵に立ち向かう勇者のような気持ちで捉えれば楽しいものなのだろうか。これから待ち受ける多くの困難に、私は挑戦していけるのだろうか。…まぁ、堀井雄二氏が言うのであれば間違いはないような気がする。堀井氏はこれまでも「従来のゲームの当たり前」に果敢に挑み、道を切り開いてきた人物である。これまでのドラゴンクエストの歩みを語る堀井氏は、なんだかとても楽しそうだ。自身の人生を全力でプレイしているからこそ、楽しいのだろう。

なら私も、私の人生に果敢に挑んでみよう。しんどくなった時には一歩引いて、ゲームの中の勇者である私を見つめてみることにしよう。自分のエンディングを楽しみに、これからの様々なイベントと向き合っていきたい。

 

(追記)本題とは少し話はずれるが、昨年、尊敬する大好きな人が一人、この世を去られた。ドラゴンクエストの音楽を手掛けたすぎやまこういち氏である。元々ドラゴンクエストシリーズの作品をプレイしていた私が、本格的にその音楽に目を向けコンサートにも足を運ぶようになったのは大学生の時だった。すぎやま先生の表情豊かな作品とその穏やかな人柄に惹かれ、私のスマートフォンの待ち受け画面はずっと、すぎやまこういちと堀井雄二のツーショットだった。先生の作品の一つであるドラゴンクエスト2のエンディングテーマ「この旅わが道」を聞くと、生涯現役でゲーム音楽を探求し続けてきたすぎやま先生に思いを馳せ、涙せずにはいられないのである。

「人生はロールプレイングゲーム」。私はこうとも感じずにはいられない。私の人生にはいつも先生が作ったRPGがあった。いままでも、そしてこれからも。すぎやま先生の、最後まで挑戦し続けた素晴らしい生き様を忘れずに、私は私のRPGを生きていきたいと思う。

(理科 恵)




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2022年6月13日月曜日

何も後悔することがなければ、 人生はとても空虚なものになるだろう

今週の一週一言

                                  6月6日~6月12

何も後悔することがなければ、

人生はとても空虚なものになるだろう

フィンセント・ファン・ゴッホ

フィンセント・ファン・ゴッホ(18531890

オランダのポスト印象派の画家。その壮絶な人生と情熱から「炎の画家」と呼ばれる。

1888年から1890年には花瓶に挿された向日葵を7つ描き、そのうち6つが現存している。

【如是我聞】

 休日のうちの姉妹。5歳の長女のことが大好きな1歳の次女は、「ねぇねー♪」とほっぺを付けてギューッと愛情表現をする。ギューッを「じゅーっ」と言うところもまた可愛い。長女も妹思いでとても優しい。リカちゃんとアンパンマンをそれぞれ手に持ち、ごっこ遊びをするのが最近の2人のブームである。私はその間に昼食のお皿を洗い、さて紅茶でも…と椅子に座るのだが。ここでいつも不穏なやり取りが聞こえてくる。「貸してー」「いややー」、「ねぇ貸してよ!」「いや!いや、いやぁぁぁあああー!!」幸せな時間は長く続かない。リカちゃんのお買い物カートの取り合いだ。長女の肩を噛もうとする次女を抱き上げるが、今度は長女が床に突っ伏して泣く。カオス。泣き疲れた2人が寝たあと、私はティーパックを入れたままの渋く冷めた紅茶を飲む気にもなれず、薄暗い部屋で録り溜めたドラマを無音(字幕)で見る。

 いや、私の人生が空虚だとか、そういうことではない。確かにショッピングに行ったり、友人とお茶をしたりしたいときもあるが、これは自分の選んだ生き方である。それよりも、娘たちのやり取りを見ていると、私自身が色々と考えさせられることがあるように思う。

昼寝から起きると、長女は「さっきはごめんね」とお気に入りのおもちゃを貸す。次女は何があったか忘れているようだが、嬉しそうだ。「悪いことをしてしまったな」と反省している長女を見て、日々素直に反省できていない自分を思う。

幼い子どもでも学生でも立派な大人でも、気に入らないことがあると、無視したり意地悪をしたり、時には暴力をふるうことがある。上手くいかない、思い通りにいかないということに、私たちは悩み、時に間違ったことをしてしまう。誰かに注意されると、さらに思い通りにいかないので、言い訳をして逃げようともくろんだり、自分を注意する人をうっとうしいと思うこともある。知恵が付けば付くほど、私たちは厄介になっていくのかもしれない。

「私は正しい」というところに立っていれば、謝ることも反省することもなく生きていくことができる。しかしそれは同時に、人をねじ伏せたり、気の合う人と陰口を言いながら小さな世界で生きていくということになる。私たちは他人のミスには敏感であるが、自分の間違った思い込みには気付くことができない可哀そうな生き物だ。そして条件がそろえば、どんなに「いけない」と言われていることでもしてしまう危険な生き物でもある。自分自身のそうした危うさに気付き、反省し、後悔しながら生きることは辛いことかもしれない。しかし人生においては、最も大切なことの一つであるに違いない。

※失敗を恐れて何にも挑戦しない人生は空しい。後悔することになっても挑戦するべきだ。ゴッホはそう言いたかったようですが、如是我聞として書かせていただきました。(宗教科・英語科 高橋愛)





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