今週の一週一言 11 月20日~11月26日 われはわろき と 思うもの、 ひとりとしても、あるべからず 蓮如上人 蓮如上人( 1415-1499 ) 真宗の僧侶。本願寺第八世、中興の祖。衰退にあった本願寺を再興し、現代の本願寺教団(東・西本願寺)の礎を築いた。 【如是我聞】 最初にこの文言を見たとき、恥ずかしながら私は、全く別の意味に取り違えた。 「自己を卑下するものは、ひとりとしても、あってはならない」という意味だと思ったのだ。「誰であろうと、自分に自信をもて。卑屈になるな!」と言っているのだと。 国際社会では損をしがちな『日本人気質』に根付いた、何かあったら「私が悪いんです、すみませんでした」と先に謝罪してしまう、そしてそうすることにより、文化を異にする相手から「謝罪したってことは、アンタが悪いと認めたわけだな!」とさらなる責めを受けがちな。この態度はよろしくないぞと、そうおっしゃるわけなのですね、蓮如上人!いやぁ~全くその通り!!今の日本人にも、ガッツリ言ってやって下さいよ!・・なぁ~んて思ってしまったのだった。 この誤解の原因は、文言のしめくくり『ある+べからず(=推量の助動詞【べし】の未然形+打消しの助動詞【ず】)』の解釈の仕方にあった。現在でも一般的に使われている「あってはならない(禁止)」という意味で私は捉えてしまったのだ。個々に大切な人なのだから「自分のことを『悪い奴』と卑下するのは、およしなさい」なのかと。しかし、とある同僚教員に「それは、真逆の意味!」と笑われてしまい、改めて辞書を引いてみた。すると別の解釈がズラリと並んでおり、蓮如上人は、その最後のほうにある「~なはずがない(当然の否定)」の意味を文言に用いておられたのであった。 そんなわけで、この文言の正しい解釈は、「自分が悪いと思う人は、誰一人として、いるはずがない(=誰もがみんな、『悪い』のは自分ではなく、他者だと思っている)」。というものだ。…実のところ、私は一瞬「そうかぁ?」と思った。日本文化に育つとき、子どもが最初に社会的規範と共に学ぶ言葉は「ありがとう」と「ごめんなさい」。そして何かあったら「まずは自分から先に謝りましょう」と習う。そ
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