スキップしてメイン コンテンツに移動

人の間違いや欠点を厳しく見る眼で自分が見えたらいいですね

今週の一週一言
                            11月6日~11月12日  
人の間違いや欠点を厳しく見る眼で 自分が見えたらいいですね
野田風雪:ドウジ庵主。大谷派寺院の生まれ。詩画に添える。1921(大正10)年、愛知県生まれ。真宗専門学校卒。昭和41年から仏教談話会を主催。朝日カルチャーセンター講師、一日出家の集い講師など幅広く活動。著書『私を生きる』
【如是我聞】
この言葉、胸にグサッと突き刺さる。人が出来ていないこと、間違っていることは厳しく指摘できるのに、いざ自分のこととなると、できない自分、間違ったことをしてしまった自分を受け入れる勇気がなく、わざと目をそらし、ぼやかしていることがよくある。そして特に家族との時間の中では、その傾向が強くなる。ことさら子供に対してとなると、見る眼はさらに厳しさを増し、「自分はちゃんとできているのか?」「自分はそんなに優秀な子どもだったか?」と思いながらも、自分のことは棚に上げ、子どもたちの間違いや私が感じる欠点を毎日、何十回も指摘している。そうして、そんな毎日の中で、絶えず注意をしている自分に嫌気がさし、もっと違う対応ができたのではないかと後悔を繰り返している。情けない限りだ。
ある日の長男との会話である。
長男「かあちゃん、明日●●がいるんやけど、ある?」
私「え~!! なんで前日にいうの?そんなん急に言われても、あるわけないやん。なんでもっと早く言わへんの!! も~!!
長男「ごめん…」
その日の晩、彼が寝た後に、何とか必要なものを用意し、彼のプリント類を整理していると、数日前に渡された保護者宛てのプリントの中に、「○日までに●●を用意しておいてください」と書かれてあるのを発見。そういえば、渡されたときに後で見るわと言って放置していた。私のミスだった。またやってしまった。次の日の朝、長男に「ごめん、前もらったプリントに書いてあったんやな。ちゃんとみんと、めっちゃ怒ってごめんなぁ。」と、素直に謝罪すると、彼は一言「そんな自分責めんでいいでぇ。」あっ、彼のほうが器が大きい。こんなことを毎日のように繰り返している。今日こそは、厳しい眼を自分に向け、温かいまなざしを人に向けたい。

(英語科:芦田)




トップページへ http://www.otani.ed.jp

このブログの人気の投稿

子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」 易経

今週の一週一言 9 月 23日~9月29 日 子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」 易経…古代中国の書物。儒教の基本書籍の筆頭に挙げられる経典である。 【如是我聞】 悔いの多い生涯を送ってきました。なんてことを言えば周りから「おおげさな」「まだ若いのに」といった声が聞こえてきそうだ。しかし今振り返ってみても自分の生涯にはなかなかの数の後悔があるように思う。 私は物事をじっくり考えて慎重に事を進めるタイプの人間だと思っている。それは日常生活の中でもいえることで、ふらっと寄ったニトリでの買い物でもこれが当てはまるのである。日々の生活を少し快適にする魅力ある商品がずらっと並んでいる、一階の日用雑貨が陳列されているコーナー。そこにいくとなかなかそこから抜け出せなくなって困ってしまった。歯ブラシたて、これは本当に必要なのか。なくても生活できている。一人用土鍋、どのサイズが自分にぴったりなのか。大きすぎないか小さすぎないか。取っ手のとれるフライパン、何が便利なのかずっと考える。わからない。いろんな棚を眺めて結局歯ブラシたてに戻ってきては同じようなことを考える。正直しんどい。これではすぐに時間がたりなくなるしいつになったら前に進むのかもわからない。貴重なお盆休みに立ち寄ったニトリでその日が終わってしまう。 こんなエピソードは山ほどあるがしかしこれらのことが後悔につながることはほぼない。むしろ買おうが買わまいが自分で考えてだした答えに悔いはない。ただ自分の時間を無駄に消費しているだけで誰の迷惑にもなっていない。だが人との会話においてこの性格がゆえに後悔することがよくあるのである。会話の中では一瞬の間や言葉を発するタイミングや空気が重要で、そこに面白さや楽しさがあるコミュニケーションには誰かを待っている時間はない。何人かの相手がいて会話が行われている中、刻一刻と進むその空間の中で発する打算のない生の言葉こそが面白くもあり、悲しくもあり、うれしくもあるゆえに言葉というものが生きていると自分では思う。心で感じる細かな感情を表現しようと言葉を慎重に選んで考えている時間はないのである。あとになって、こんなことを言っておけばもっと気持ちが伝わったのに、もっとおもしろかったのに、と考えてももう遅い。気持ちを相手に伝えようと今の自分

夢の世に あだにはかなき 身をしれと 教えて還る 子は知識なり

今週の一週一言               8 月24日~8月30日 夢の世に  あだにはかなき  身をしれと 教えて還る  子は知識なり 和泉式部…平安時代の歌人、10世紀後半から11世紀初めに橘道貞、為尊親王・敦道親王と夫婦・恋愛関係を結び、道貞との間には「おほえ山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」で知られる小式部がいる。一条天皇の中宮彰子に仕え、藤原道長の家司藤原保昌と再婚、夫の任地丹後へ下った。晩年は不詳。この歌は、小式部に先立たれた式部が、悲しみを越え、影響を受けていた仏の教えにたどり着いたものとされる。 【如是我聞】 和泉式部は、子に先立たれた思いを吐露する和歌も数多く知られている。なかでも「とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるなり 子はまさりけり」が有名であろう。先立つ娘を思う遺された母と、子より先立つ母としての娘の思いを読み込んだものである。淡く降ってくる春の雪を見ては、はかなく消えていく雪でも自分の前に姿を現すところから「などて君 むなしき空に 消えにけん 淡雪だにも ふればふる世に」と詠じた。そして「夢の世に あだにはかなき 身をしれと 教えて還る 子は知識なり」の一首がある。そのままでとどまることない無常さという道理を導いてくれたのが、我が娘の死であったという気づきの首といってよいであろう。 ここでいう知識は、本来は善知識と呼ぶものである。善知識は「よきとも」の意であり、原語的には「巧みな友」というべきもので、自分をよく知ってくれている者を指す。善知識は正しい道理を教える者のことであり、仏教の道理を教え導きさとりをえさせる人、仏道に入らせる縁を結ばせる人、ともに仏道に励む人のこともいう。親鸞上人の『浄土和讃』の69首目には「善知識ニアフコトモ オシフルコトモマタカタシ ヨクキクコトモカタケレバ 信ズルコトモナヲカタシ」とある。善き師にあうことも、善き師が法を教えることも難しい。その教えをよく聞くことも難しいし、その教えを信じることも、なおいっそう難しいという。 そういう中でも、今の自分で見えてくるものを考えてみると、すんなり思い出せることが一つあった。小学生のころ、学校のテストもあまり出来がよくなく、成績も悪く、種々に苦労した(いや、苦労したのは親だな

私たちはいわば二回この世に生まれる  一回目は存在するために 二回目は生きるために

今週の一週一言                  10 月14日~10月20日   私たちはいわば二回この世に生まれる      一回目は存在するために 二回目は生きるために J . J . ルソー( 1712 ~ 1778 ):ジュネーブ共和国生まれ。哲学者、教育哲学者、作家、作曲家と、フランスにおいて幅広く活躍。『エミール』など、著書多数。 【如是我聞】   ルソーの古典的な教育論、『エミール』の中の言葉だ。幼年期、少年期を終えて思春期の教育がどうあるべきかを記した第四編の最初におかれている。岩波文庫の今野氏の訳ではこの後、「はじめは人間に生まれ、つぎには男性か女性に生まれる」と続くが、ルソーの原文では、「 l ’ une pour l ’ espece, et l ’ autre pour le sexe. (一回目は人間という種として、もう一回は男性女性という性を持つ者として)」と書かれている。人は、思春期になってはじめて、それまではただ存在するだけでどう生きるかを考えもしなかったのに、情念に目覚め、第二次性徴の現れとともに体が大人になり、激しく異性を求める時期に入る。そして、この時期こそ「まさにわたしたちの教育をはじめなければならない時期だ」とルソーは主張するのだ。  ここでちょっと余談。残念ながら今から250年前を生きたルソーには、性を「ジェンダー」として捉えるという発想はなかっただろう。思春期に体が大きく変化する男性は、「嵐のような」この時期をくぐり抜けなければならないが、女性はいつまでも子供にとどまっていると考えていたようだ。なんで? まあ、そこは目をつぶって先に進もう。  では、ルソーはどんな教育をはじめなければならないというのか。「目がいきいきしてきて、他の存在をながめ、わたしたちのまわりにいる人々に興味をもちはじめ、人間はひとりで生きるようにはつくられていないことを感じはじめる。こうして人間的な愛情にたいして心がひらかれ、愛着をもつことができるようになる」という、この思春期の性本能の目覚め、伴侶を求める異性に対する欲求の発現を、「人間愛」の感情へと育てていくことだと説くのである。自分に対する愛しか知らなかった子供が異性である他者に目を向け始めたこの時期に、柔らかい感受性を利用して他者