スキップしてメイン コンテンツに移動

心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食えどもその味を知らず

今週の一週一言
                                  月11日~9月17日
 心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食えどもその味を知らず 
『大学』
『大学』・・・孔子の弟子曾参の作と伝えられる。南宋の朱子(朱熹)が『中庸』
『論語』『孟子』とともに四書と称し、漢代以来の儒学の根本経典である五経よりも高く評価した。
【如是我聞】
蓮如上人が山科で法話をされたあと、大変有り難いお話であったので忘れてはならぬと思った六人が集まり、話し合いを始めました。皆が一生懸命に一言一句、聞き漏らさないように聞いていたにもかかわらず、六人それぞれが違ったように話を聞き、しかもそのうちの四人は上人の法話の趣旨とは違うように聞いていたといいます。六人いれば六通りに人の話を聞いているということです。このように私たちは常に自己中心的で、あらゆる物事を自分の都合の良いようにしか捉えることができません。
それは私たちが自分自身の立場を離れて物事を見ることができず、独断や偏見、思い込みに満ちあふれている存在だからでしょう。そんな私たちに上人は、「私たちはどんな時でも意巧(いぎょう)に聞いてしまう存在であるから、話を聞いた後はさらに寄り合い、よくよく話し合いをするように」と勧められます。意巧とは、意(こころ)巧(たくみ)に、自分の勝手な解釈で聞くということです。
もちろん、ここでいう話し合いとは、決して自己主張をしなさいということではありません。自分が理解したことを主張し、相手を論破することを勧めるものでもありません。自分の独断や偏見を主張し合うだけの話し合いは、人を傷つけるだけでなく、自分自身をも傷つけることにしかならないからです。最近のテレビ番組はこの傾向が強いですね。
上人は、ものを言うことによって、「人に直してもらう」ことを勧められているのです。自分自身が聞いたところを人に話すことによって、自分という枠の中でしか受け取れなかった過ちを直してもらい、不足を補ってもらいなさいとおっしゃるのです。
自分本位な聞き方が生み出す問題は、何も蓮如上人の頃に初めて起こったことではありません。『歎異抄』では自分本位な聞き方が、親鸞聖人の教えを曲げてしまうという、唯円の歎きの言葉が語られています。『歎異抄』は親鸞聖人の教えとは異なることが流布されていることを歎く唯円が、泣きながら筆を染めて記したものです。自分勝手な聞き方は、『歎異抄』が生み出される背景となった、根深い問題です。

(宗教・社会科 山田)




トップページへ http://www.otani.ed.jp

このブログの人気の投稿

子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」 易経

今週の一週一言 9 月 23日~9月29 日 子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」 易経…古代中国の書物。儒教の基本書籍の筆頭に挙げられる経典である。 【如是我聞】 悔いの多い生涯を送ってきました。なんてことを言えば周りから「おおげさな」「まだ若いのに」といった声が聞こえてきそうだ。しかし今振り返ってみても自分の生涯にはなかなかの数の後悔があるように思う。 私は物事をじっくり考えて慎重に事を進めるタイプの人間だと思っている。それは日常生活の中でもいえることで、ふらっと寄ったニトリでの買い物でもこれが当てはまるのである。日々の生活を少し快適にする魅力ある商品がずらっと並んでいる、一階の日用雑貨が陳列されているコーナー。そこにいくとなかなかそこから抜け出せなくなって困ってしまった。歯ブラシたて、これは本当に必要なのか。なくても生活できている。一人用土鍋、どのサイズが自分にぴったりなのか。大きすぎないか小さすぎないか。取っ手のとれるフライパン、何が便利なのかずっと考える。わからない。いろんな棚を眺めて結局歯ブラシたてに戻ってきては同じようなことを考える。正直しんどい。これではすぐに時間がたりなくなるしいつになったら前に進むのかもわからない。貴重なお盆休みに立ち寄ったニトリでその日が終わってしまう。 こんなエピソードは山ほどあるがしかしこれらのことが後悔につながることはほぼない。むしろ買おうが買わまいが自分で考えてだした答えに悔いはない。ただ自分の時間を無駄に消費しているだけで誰の迷惑にもなっていない。だが人との会話においてこの性格がゆえに後悔することがよくあるのである。会話の中では一瞬の間や言葉を発するタイミングや空気が重要で、そこに面白さや楽しさがあるコミュニケーションには誰かを待っている時間はない。何人かの相手がいて会話が行われている中、刻一刻と進むその空間の中で発する打算のない生の言葉こそが面白くもあり、悲しくもあり、うれしくもあるゆえに言葉というものが生きていると自分では思う。心で感じる細かな感情を表現しようと言葉を慎重に選んで考えている時間はないのである。あとになって、こんなことを言っておけばもっと気持ちが伝わったのに、もっとおもしろかったのに、と考えてももう遅い。気持ちを相手に伝えようと今の自分...

夢の世に あだにはかなき 身をしれと 教えて還る 子は知識なり

今週の一週一言               8 月24日~8月30日 夢の世に  あだにはかなき  身をしれと 教えて還る  子は知識なり 和泉式部…平安時代の歌人、10世紀後半から11世紀初めに橘道貞、為尊親王・敦道親王と夫婦・恋愛関係を結び、道貞との間には「おほえ山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」で知られる小式部がいる。一条天皇の中宮彰子に仕え、藤原道長の家司藤原保昌と再婚、夫の任地丹後へ下った。晩年は不詳。この歌は、小式部に先立たれた式部が、悲しみを越え、影響を受けていた仏の教えにたどり着いたものとされる。 【如是我聞】 和泉式部は、子に先立たれた思いを吐露する和歌も数多く知られている。なかでも「とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるなり 子はまさりけり」が有名であろう。先立つ娘を思う遺された母と、子より先立つ母としての娘の思いを読み込んだものである。淡く降ってくる春の雪を見ては、はかなく消えていく雪でも自分の前に姿を現すところから「などて君 むなしき空に 消えにけん 淡雪だにも ふればふる世に」と詠じた。そして「夢の世に あだにはかなき 身をしれと 教えて還る 子は知識なり」の一首がある。そのままでとどまることない無常さという道理を導いてくれたのが、我が娘の死であったという気づきの首といってよいであろう。 ここでいう知識は、本来は善知識と呼ぶものである。善知識は「よきとも」の意であり、原語的には「巧みな友」というべきもので、自分をよく知ってくれている者を指す。善知識は正しい道理を教える者のことであり、仏教の道理を教え導きさとりをえさせる人、仏道に入らせる縁を結ばせる人、ともに仏道に励む人のこともいう。親鸞上人の『浄土和讃』の69首目には「善知識ニアフコトモ オシフルコトモマタカタシ ヨクキクコトモカタケレバ 信ズルコトモナヲカタシ」とある。善き師にあうことも、善き師が法を教えることも難しい。その教えをよく聞くことも難しいし、その教えを信じることも、なおいっそう難しいという。 そういう中でも、今の自分で見えてくるものを考えてみると、すんなり思い出せることが一つあった。小学生のころ、学校のテストもあまり出来がよくなく、成績も悪く、種々に苦労した(いや、苦労したのは親だな...

私たちはいわば二回この世に生まれる  一回目は存在するために 二回目は生きるために

今週の一週一言                  10 月14日~10月20日   私たちはいわば二回この世に生まれる      一回目は存在するために 二回目は生きるために J . J . ルソー( 1712 ~ 1778 ):ジュネーブ共和国生まれ。哲学者、教育哲学者、作家、作曲家と、フランスにおいて幅広く活躍。『エミール』など、著書多数。 【如是我聞】   ルソーの古典的な教育論、『エミール』の中の言葉だ。幼年期、少年期を終えて思春期の教育がどうあるべきかを記した第四編の最初におかれている。岩波文庫の今野氏の訳ではこの後、「はじめは人間に生まれ、つぎには男性か女性に生まれる」と続くが、ルソーの原文では、「 l ’ une pour l ’ espece, et l ’ autre pour le sexe. (一回目は人間という種として、もう一回は男性女性という性を持つ者として)」と書かれている。人は、思春期になってはじめて、それまではただ存在するだけでどう生きるかを考えもしなかったのに、情念に目覚め、第二次性徴の現れとともに体が大人になり、激しく異性を求める時期に入る。そして、この時期こそ「まさにわたしたちの教育をはじめなければならない時期だ」とルソーは主張するのだ。  ここでちょっと余談。残念ながら今から250年前を生きたルソーには、性を「ジェンダー」として捉えるという発想はなかっただろう。思春期に体が大きく変化する男性は、「嵐のような」この時期をくぐり抜けなければならないが、女性はいつまでも子供にとどまっていると考えていたようだ。なんで? まあ、そこは目をつぶって先に進もう。  では、ルソーはどんな教育をはじめなければならないというのか。「目がいきいきしてきて、他の存在をながめ、わたしたちのまわりにいる人々に興味をもちはじめ、人間はひとりで生きるようにはつくられていないことを感じはじめる。こうして人間的な愛情にたいして心がひらかれ、愛着をもつことができるようになる」という、この思春期の性本能の目覚め、伴侶を求める異性に対する欲求の発現を、「人間愛」...