今週の一週一言 2 月5日~2月11日 もう終わりだと思うのも、 さぁ始まりだと思うのも、どちらも自分である。 フェデリコ・フェリーニ フェデリコ・フェリーニ (1920 ~ 1993) イタリア生まれの映画監督。「映像の魔術師」の異名を持つ。小説の挿絵画家、新聞の寄稿、ラジオ・ドラマの脚本などさまざまな職業を経て、脚本家として映画界入りを果たした。 【如是我聞】 ゲームのキャラクターはコンティニューを選ぶことが出来る。何度やられても立ち向かうチャンスをくれる。だから様々な選択肢からいくつも試すことが出来る。実世界で覆すことが出来ない結果を目の当たりにしたとき、もちろんコンティニューは出来ない。受験で失敗した、試合で負けた、絶望を感じて「終わった」と思うとき、立ちはだかる言葉はゲームオーバーなのだろうか。 中学、高校、大学と競泳に打ち込んでいた私は、いいタイミングで怪我に悩まされていた。 中学では体が成長してタイムも伸びて、これからだという時に両足の太ももの肉離れを起こした。すぐには治らないため、満足な練習が出来ず、その年の結果は散々だった。大学は、ハイレベルな環境で体に鞭を打ちながら取り組んでいると、三年目に膝を痛めた。普段の生活にも影響が出る痛みで、満足に力を入れることが出来ず、最後の一年は思うようにいかなかった。怪我をした時はかなり落ち込んで、中学の時のショックは高校に入っても引きずった。絶望の淵に立たされている私をみて、周りはいつも笑顔で接してくれた。怪我をした時も、タイムが悪い時も、いつも決まって「とりあえず楽しんでこう」と言ってくれた。最初はすぐに受け入れることは出来ず、自暴自棄になっていたこともあった。それでも周りの人はいつも笑顔で、楽しめるように声をかけてくれた。かけてもらった言葉はどれも、絶望に至った道を振り返るものではなく、これからを明るく照らしてくれる言葉だった。言葉の意味が理解出来ると、私も次第に笑顔になり、絶望を受け入れることが出来た。今考えても、恵まれた環境に身を置くことができ、周りの人々に支えられて今の自分がいるのだな、と思う。本当にありがとう。 覆すことが出来ない現実を目の当たりにすると、目の前に浮かぶ文字はゲームオーバーなのかもしれない。もちろん
大谷中学高等学校 (※著作権の関係上、WEBについては毎週掲載とならないことをご了承ください。)