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この世のあらゆる事象の中で言葉で言い尽くせるものが一体どれほどあろうか

今週の一週一言                                   5 月 16 日~ 5 月 22 日 この世のあらゆる事象の中で 言葉で言い尽くせるものが一体どれほどあろうか バガボンド  胤栄 バガボンド…井上雄彦による漫画作品。現在休載中。 【如是我聞】 五月。桜の花芽が膨らみ、綻んで、満開を迎え、いつ散るだろうと気もそぞろな時期も終わって、新緑が輝く季節となりました。毎朝通るバス停の前にツバメの巣があるのですが、その雛たちも着実に成長し、ひとり立ちの日が近づいているのが分かります。四季の絵巻がゆったりと、次の章へと進められていくのを、今年も眺めています。  高校生だった頃、自然の美しさに対して無関心であったのを記憶しています。何かもっと別のことに気をとられていたうえ、巡り巡って必ず訪れる四季の光景は、当たり前のものとして、目を驚かせませんでした。しかし、当たり前のことが当たり前ではないという事実や、すべての物事の移ろいに気づき始めると同時に、小径でふと出遭う沈丁花の香りや、鶯の初音、闇に舞う蛍、流れに揺蕩う鴨のつがい、晩秋の静かな虫の声、雪を頂いてしなだれる南天の実―いろいろなものが、鮮やかさを得て目に映るようになりました。美しさに感動し、去って行く時間をかなしみ、次の季節への憧れを抱いたりしているわけですが、そうした感情の底に潜む一つの感覚があります。自然は雄大なサイクルを形作っているけれども、自分はその循環から切り離されていること――目の前の美しい自然が、遠いものであることを感じています。  植物を育てたことがある方は、きっと思い起こしてくださると思うのですが、水をやり忘れてうなだれてしまった鉢植えの草花に、慌てて水をやってしばらくすると、倒れていた草が力を取り戻し、天に向かって勢いよく伸びきります。その復活を目撃した時の驚きは、ちょっと特別なものです。ものも言わず、我々のように動き回りもしない植物の中に、確かに宿っている生命。シンプル且つ深遠な何かを見せられたような気がしてはっとしますが、その驚きも入り口的なものであって、命の何たるかについて、私は片鱗も捉えられていないのかもしれない。 人間は複雑な言葉を操ることのできる特異な存在だと言われます。しかし、陸で

一位と最下位との差なんて大したことねーんだよ。 ゴールすることとしないことの差に比べりゃ。

今週の一週一言                                   5 月 9 日~ 5 月 15 日 一位と最下位との差なんて大したことねーんだよ。 ゴールすることとしないことの差に比べりゃ。 小山 宙哉『宇宙兄弟』 小山 宙哉…日本の漫画家。宇宙兄弟は雑誌「モーニング」にて現在も連載中。 【如是我聞】  僕が大学生の頃の話である。僕は個別塾で塾講師をしていた。個別塾というのは塾講師と受け持つ生徒との関係性が重要である。生徒と良い関係が築ければ、生徒の学習意欲が上がり成績向上につなげられるのだが、その逆も起こり得る。塾長と生徒の保護者はその部分をよく見ており、塾講師の中でランク付けをしてくる(塾講師にそれが直接伝わるわけではないが)というように、僕が勤めていた塾はわりと厳しい競争社会であった。僕は「どうせやるなら一番の講師になってやる!」という気持ちで受け持つ生徒と関わり、日々指導に励んでいた。  そんなある日、塾長から「高3の受験生、見てくれへん?」と依頼を受けた。高3受験生を担当するなんて話は、やはり上の方から信頼されていなければ基本回ってこない。僕は初めての受験指導でかなり不安ではあったものの、「やっと頼りにされるようになってきたな!」と感じ、二つ返事で承諾した。その生徒とは幸運にも意気投合して、指導する傍ら休憩時間に雑談をして、僕は充実した時間を送っていた。生徒は僕が言ったことに真摯に取り組んでいたこともあり、次第に成績も上昇していった。僕は「この生徒は第一志望の大学に合格するだろう」、そう確信していた。僕はその生徒に合格してほしいという気持ちと塾講師として一番の結果を出したいという気持ちで、受験当日まで全力で指導にあたった。  受験が終わって、生徒が結果を報告してくれた。結果は「不合格」であった。話を聞くとどうやら問題が昨年までと比べて難化したことと体調が受験時良くなかったということらしい。僕は指導していた立場として、その生徒に対して申し訳ないという気持ちには当然なったのだが、それ以上に僕自身が塾講師として結果を出せなかったことの悔しさが自分の中に生じたのを覚えている。そんな僕に生徒は、「先生、ありがとうございました。先生のおかげで最後まで頑張ることができました。結

寂しさというのは、 自分の話を誰かに聞いてもらいたいと 切望する気持ちなのかもしれない

今週の一週一言                                   4 月 25 日~ 5 月 8 日 寂しさというのは、 自分の話を誰かに聞いてもらいたいと 切望する気持ちなのかもしれない        吉田 修一『悪人』 吉田 修一   長崎市出身の小説家。映画化もされた『悪人』を始めとし、『怒り』や『パレード』、『横道世之介』等、著作多数。 【如是我聞】  私が中学3年で、高校入試があと4日に迫った日だった。塾の自習室に籠って勉強をしていたら、父から一通のメールが届いた。それは曾祖母の死を告げるものだった。その日、私は初めて「死」というものを経験したが、正直、よく分からなかった。  曾祖母は和歌山県に住んでいて、毎年夏になると2週間近く滞在した。無条件に柔らかく包んでくれる曾祖母が大好きで、居心地がよかった。大阪から一人で電車を乗り継いで、和歌山の家に遊びに行ったこともあった。近くの本屋で本を買ってもらい、夏場は井戸で水を汲み、冷たい水の入った樽に足をつけ、何時間も本を読んだ。本を読み終わったというと、「もう、読んでもうたんか。」と呆れながらも、「私に似て本が好きやな。」と嬉しそうにまた、本屋に連れて行ってくれた。  曾祖母は、体調がすぐれなくなり、実家近くの大阪に移ってきた。学校から帰ってきたら、学校でのできごとをたくさん聞いてもらった。あんぱんが好きな曾祖母は、いつも私の分まで準備してくれた。それから数年後、長期入院することになった。中学3年生の頃は、学校からの帰り道に病院に行き、曾祖母の様子を確認し、親に報告するのが日課になった。  そして、高校入試の4日前、曾祖母はこの世を去った。初めての身内の死で、何も分からずただ親戚が慌ただしく動いているのを傍観していた。なぜか自分事として受け止められず、他人事のように見ていたような気がする。高校入試が終わり、落ち着いた頃、私は曾祖母が恋しくてたまらなくなった。会いたくて仕方がなくなった。気づけば曾祖母のことを考える時間が長くなった。  ある晩、曾祖母が夢に出てきた。二人で、実家の机で向かい合って座って、いつものように談笑していた。どんな会話をしたかは覚えていないが、私がたくさん話をして、曾祖母は優しくうな

否定と出会うことが出発点である。

今週の一週一言                                   1 月 31 日~ 2 月 6 日 否定と出会うことが出発点である。         ジークムント・フロイト  ジークムント・フロイト (1856 - 1939)  オースオリアの心理学者、精神科医。精神分析学の創始者として知られる。フロイトが提唱した理論は、後世の精神医学や臨床心理学の基礎となっているだけでなく、現代文学・芸術・哲学にも大きな影響を与えたことでも知られる。 【如是我聞】 しかし、いつからだろうか。否定することが「=悪いこと」となってしまったのは。 いつからだろうか。否定的な意見に対して、これほど弱い私になってしまったのは。  はじめに言っておきたいことがある。この言葉は、誰かを否定した人が、それを肯定するための根拠として用いるものではない。特にただ立場的に上にいるだけの存在が、自分とは考え方が違うなどといった理由で立場的に下の人の存在までも全否定しておいて、拗ねたり落ち込んだりする相手を見かねては「昔の偉い人も言うてるけど、否定されることでそれが出発となることもあるんや。言うてもらえただけでもありがたいと思いなさい」などと、その否定を正当化するような使い方はじぇったいしてはならない。この言葉は否定された人が「これが私の新たな歩みの始まりになる」、そう受け止めることができるかどうかという問題でしかない。   30 年以上前になるが、東京の語学学校で働いていた時、休み時間に一人の生徒さんが泣きながら事務所に入ってきた。対応に当たった人に後で話を聞くと、授業で講師から言われたことに納得できず腹が立って泣けてきたのだという。それはかなりのハイレベルなクラスで、毎回英語のみで 50 分間ディスカッションをする授業だった。彼女はその日のテーマについて一生懸命予習をしてきて、一生懸命自分の考えを言ったのだが、それに対する講師のコメントが「 I don’t think so. I can’t agree with you. (私はそうは思わない。同意できない) 」だったというのだ。職員に言いたいことを聞いてもらえたからか、 30 分ほどで彼女は帰っていった。 別の授業を終えて戻ってきて、学監(校長)か

たやすく 限界ということを口にする。 憎むべきはこの インテリ根性。

今週の一週一言                               12月6日~12月12日 たやすく 限界ということを口にする。 憎むべきはこの インテリ根性。   矢代東村 1889 - 1952 。略歴は本文参照。参考文献 小野弘子『父 矢代東村』、「法と 民主主義」 2006 年 5- 7月号、歌集『一隅より』『早春』『矢代東村遺歌集』、 DVD 『楽聖ショパン』。なお穂波慶一先生のご協力をいただきました。 【如是我聞】 いつも少しは見知った人や言葉を選ぶが、今回は当初これが短歌ということさえわからなかった。詠者、矢代東村は自由律を愛した歌人で、前田夕暮に師事し、白秋、哀果らとも親交があった人物だ。 クリスマスの夜も近づきぬ丸善の二階には赤くたぎるストーヴ(大3) 明治 22 年、千葉の農村に生まれた彼は、上京して「都会詩人」と称した。若き日の歌のモチーフはモダンで洒落た西洋絵画、都市の情景や片思い。やがて教員生活の悲喜こもごもや、子どもたちと過ごす日々のきらめきが詠まれるようになる。後のことになるが、とりわけ長男を喪ったときの絶唱は胸をうつ。    逮捕、急死、急死、急死、急死。ああ、それが何を意味するかはいふまでもない(昭8)    しかし東村が最も知られるのは、大正 11 年に弁護士となった後の、治安維持法に抗した歌の数々だろう。生涯にわたって弱者への眼差しを失わなかった彼は、市民の思想を取り締まる権力の横暴が許せなかった。自らもいくつかの事件の弁護を請け負ったとされるが、その舌鋒が発揮されたのは主に文芸の世界だ。数々の社会運動の弾圧、無数の検束、拷問と虐殺への鋭い批判は、いつもその思いが三十一文字から溢れるかのように、流れる自由律で発表された。    幼子は手に位牌持ち火の粉ふらす烈風の中父われを見ぬ(戦後発表)    日中戦争のさなか、次第に厳しくなる言論統制。東村の歌も伏せ字や発禁を余儀なくされ、太平洋戦争突入後の昭和 17 年、とうとう彼自身、官憲の検束するところとなった。半年の拘留の間に何があったか。幸い弁護士資格は剥奪されずにすんだが、出所後は仲間の弁護に立つこともできず、思いを歌で表す場もなかった。無為の数年のうちに戦火は広が

人間は、 自分が幸福であることを知らないから不幸なのである。

今週の一週一言                                   11 月 22 日~ 11 月 29 日 人間は、 自分が幸福であることを知らないから不幸なのである。                ドストエフスキー フョードル・ドストエフスキー( 1821-1881 )  ロシアの小説家・思想家。代表作に『罪と罰』や『白痴』・『カラマーゾフの兄弟』などがある。アインシュタインやフロイトなど、文学者以外からの評価も非常に高い。 【如是我聞】  自分がしあわせ(幸福)かどうかというのは、結局のところ自分の気持ち次第だなあと思う。そういう意味でドストエフスキーのことばはおっしゃるとおりである。ただ、言いまわしについては引っかかるものがある。あくまで日本語訳としてではあるが、おおむね、ドストエフスキーが今週の一週一言のような言い方をしていたのだとすると「人間は不幸なのだ」という結論づけをしているように感じる。はたして人間は不幸なのだろうか。むしろ「人間は自分が幸福であることを知ったとき、幸福になる」といったほうが良いのではないだろうかと私は考える。  ほとんど同一の内容を言っているようであっても、あるいはまったく同一の内容を言っていても、その受けとめ方や伝わり方、個々が感じる印象が異なってくる場合は多い。ともすれば、同じことを言っているようでいて違う内容を説明しているということも起こりうる。  たとえば「Xは『5』を除くすべての実数である」というのと「Xは5ではない」というのは同じことだろうか。「虚数」を含むかどうかによっても変わってくるにせよ、後者の言い方は説明として不十分ではないだろうか。  また『鬼滅の刃』に出てくる「吾妻善逸」は、しばしば「肝心なとき以外には役に立たない」と言われるが、彼を「肝心なときには役に立つ」と評しても良いのではないだろうか。前者の言い方では「普段、役立たず」というディスリスペクトになるが、後者では「頼りがいのある人」というリスペクトになるだろう。  そんなことを考えていると「なあんだ、ドストエフスキーも同じ人間。見方によっては、彼は自分のなかの中学2年生を引きずっているだけなのかもしれないね」といった、ある種、温かい気持ちで彼のことばを

当たり前の事の中に ただごとでない幸せがある

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何としても、人になおされ候ふやうに 心中を持つべし  蓮如

今週の一週一言                                   5月31日~6月6日 何としても、人になおされ候ふやうに               心中を持つべし   蓮如                                    蓮如( 1415-1499 )   室町時代の浄土真宗の僧侶。本願寺八代。衰退の極みにあった本願寺を再興し現在の本願寺教団の礎を築いたことから、本願寺「中興の祖」と呼ばれる。   【如是我聞】   哲学者の鷲田清一氏のコラムを思い出した。宮原秀夫氏が大阪大学の総長だったとき、ことあるごとに「みっともないことはするな」とおっしゃっていたそうで、鷲田氏は「言葉を生業とする者として、人前の挨拶では二度と同じ話はしない」という主義を通してきたが、宮原総長の下で働くなかで、「大事なことはくり返しきちんと口にすべきこと」を学んだ。と述べておられる。「大事なことはくり返しきちんと口にすべき」。本当に大事だと思うことは何度も何度も繰り返し、口にすべきなのだ。なぜなら、必ずしも聞き手がこちらの意図をきちんと汲み取ってくれるとは限らないから。と私は思う。 今からおよそ 600 年前、念仏をともにする仲間を相手に同じことを繰り返し繰り返しおっしゃった方がおられる。蓮如上人である。その言行録ともいうべき『蓮如上人御一代記聞書』には、ひとの話を「 意巧(いぎょう)に聞く」クセがついてしまっている私たちに、それを直す方法が何度も説かれる。 「 意巧」とは、自分の勝手な解釈で人の話を聞くということである。表題の言葉はこう続く。   「何としても人に直され候ふやうに心中を持つべし。わが心中をば同行のなかへ打ちいだしておくべし。下としたる人のいふことばを用いずしてかならず腹立するなり。あさましきことなり。ただ人に直さるるやうに心中を持つべき義に候ふ」。   私たちは、常に自己中心的な存在で、あらゆる物事を自分の都合の良いようにしか捉えることができませんし、自分の価値観に合うように構成し直さなければ受け入れることができません。だからこそ、「自分とは異なった価値観や世界観の持ち主に出会う」ことが必要なのでしょう。自分の勝手な解釈で聞くというクセを直す方法、それ

朝あしたには紅顔ありて 夕ゆうべには白骨となれる身なり。

今週の一週一言                                   4 月 19 日~ 4 月 25 日 朝 ( あした ) には紅顔ありて  夕 ( ゆうべ ) には白骨となれる身なり。 蓮如                                    蓮如( 1415-1499 )   室町時代の浄土真宗の僧侶。本願寺八代門主。衰退の極みにあった本願寺を再興し現在の本願寺教団の礎を築いたことから、「中興の祖」と呼ばれる。 【如是我聞】 豪快に笑い、大袈裟なリアクションで「オオォー!」って気持ちよく叫ぶ男だった。出会いは、入学してまもない大学キャンパスだった。誰か 1 万円札を崩してくれないかなぁと歩いているところに通りかかったのが彼だった。見かけたのは初めてではない。入学式から目立っていた。ごつい。胸板厚くがっしりとした体格。サラサラヘアーに、太い眉。そしてギョロっとした目。只者ではない。一度見たら忘れられない男である。その彼がのしのしと独歩していた。少し躊躇ったが、好奇心が勝ち恐る恐る声をかけた。「オオッ、イイっすよ!」思ってもみなかったほど元気で爽やかな返答にびっくりした。 その日の夜、彼は私の下宿にいた。下宿の前で偶然出会ったのだ。今回は全く躊躇わず声をかけた。「一緒に飯を食おう!」「おおッ、いいすよ」朝まで語りガハハと笑い転げた。やめて欲しいと言ったけれど、私には常に敬語を使う。現役入学で、私より一歳年下だから。体格がいいのは、中学生から続けているラクビーのせい。地元はフカヒレの寿司がうまいんすよって教えてくれた。 私の下宿にラクビー部部員が何人かいることもあって、それからというもの彼は練習が終わったあと毎日のように立ち寄ってくれた。「オオォー!増田さん」「増田さん、それいいっすね!ガハハッ!」何かにつけ私の名前を呼んでくれる。彼に名前を呼ばれると優しい気持ちになった。 大学4年間、彼の豪快な笑い声と彼の「オオォー! 増田さん。」を身近に聞いていた。正月に京都に泊まりにきて、白味噌のお雑煮を初めて食べて「オオォー!」。凍結した真夜中の山道。私の運転する車がスリップして壁に激突しかけたときは、助手席からボリュームマックス「オオォー!マ・ス・ダさん!!」。

人間が自分のことしか考えられなくなったら それが人間としての呆けなのです

今週の一週一言                                   3 月 8 日~ 4 月 4 日 人間が自分のことしか考えられなくなったら それが人間としての呆けなのです 早川 一光                                    早川 一光( 1924-2018 )   愛知県出身。堀川病院の前身となる診療所を創設。往診や訪問看護など在宅医療に力を入れた。 【如是我聞】 あ~あ、今日はついてない日だ~!  昨日、自転車に空気を入れたところなのに、なんと帰ろうとしたら、パンクしている。このまま置いて帰ることもできないし、小雨の中、学校の近所のモータースへ持って行った。そこの主人が手際よく直してくれたので、少し遅くはなったが、なんとか自転車に乗って帰ることができた。いつもなら買い物をして帰るが、小雨も降っているし、家にあるもので夕飯済ましたらいいやと思って、家の前まで来て、なんとポケットを触った瞬間、入れたはずの財布がない~。ぎょえ~。 確か、さっきモータースで修理代を払ったし、絶対に財布を持っていたはず。いつもなら鞄に財布を戻すのだが、まあポケットでもいいかとベンチコートのポケットに確かに入れた。記憶違いかと、鞄の中をいくら探っても財布は出てこない。どうしよう。もしかしたら、帰って来た道にまだ落ちているかも。 そう思うと、また自転車にまたがって、帰って来た道をゆっくり下ばかり見ながら戻っていった。もう真っ暗で、ほとんど何も見えない。自転車のライトだけを頼りに探したが見つからない。とうとう修理をしてもらったモータースまでたどりついたが、店はもうしまっていて聞くことができない。念のために店の看板を見ながら電話をしてみたが、留守番電話だ。とりあえず近くの人に「交番ありますか?」と尋ねると「この辺りにはないよ。」と言われ、あきらめて戻ることに。ところがなんと電動自転車のパワーが0になっている。最近、充電器の減りが早いなあとは思っていたが、まさかの0パワーとは。急な坂道なのに。こいでもこいでも進まない。電動自転車は充電されていなかったら、鉄の塊だ。真っ暗な道を鉛のように重い自転車をこぎながら、悲しいやら焦りやら、「最悪や~」しか出てこない。 なんとか交番までたどり着き、詳