一週一言インデックス

2016年11月30日水曜日

我々の目的は成功ではなく、失敗にたゆまずして 進むことである

今週の一週一言
                                  11月28日~12月4日

我々の目的は成功ではなく、失敗にたゆまずして
進むことである

ジョージ・スティーブンソン(1781~1848 ) 
 
イギリスの技師・発明家。1814年に実用蒸気機関車を開発し、さらに25年、ロコモーション号で客・貨物の蒸気機関車輸送に成功した。鉄道の父と称される。

                   
【如是我聞】

「進む」ってどこに進むんだ?失敗しないように、他人様に迷惑かけないように慎重に、丁寧に取り組むことが求められる場所に長時間いる私は、知らぬ間にそれほど動かなくてもいい小さな世界に居場所を求めるようになった。その小さな世界で、抱えている荷物を落ち度なく特定の場所に運ぶために、小股で歩みを速めている。遠くの景色を見ることはなく足元を見つめるだけだ。悲しいかな、近視的に過ごしている。
 こんな私が、歩むべき大きな世界を取り戻すには、どうすればいいのだろう?井の中の蛙が大海を知るには、まずはその頭上で多様に変化する空を発見しないといけない。そこに大きな憧れを持つのだ。自分も変わることを強く望まないといけない。あとは物理的に動く。井戸の壁をよじ登り居場所となってしまった場所から出て行くのである。それは人に出会い続けることであると思う。知らぬ間に築き上げた狭いテリトリーから引きずり出してくれる自分とは異なる世界観を持つ人に出会うしかない。自分が通用しない世界に対峙することなのだろう。スティーブンソンが言う「進む」ってそう言うことなのかもと今は受け取っている。
            

(英語科 増田)




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2016年11月21日月曜日

遠く宿縁を慶べ

今週の一週一言
                                  1121日~11月27
遠く宿縁を慶べ

愚禿釈親鸞・・・1173~1262
9歳から20年間自身の煩悩と闘い続けた末、法然上人に出遇い、本願の念仏によらなけ
れば救われることのない身を自覚し、生涯自身の煩悩と向き合い続けたお方。
         
【如是我聞】
  もしも、親鸞聖人が出遇った教えを学んでいなければ、私はどれほどの人を傷つけ、どれほど私自身を傷つけていただろう。

 いつの間にか自分のことを棚にあげて他人を批評し、自分の価値観を疑いもせず、相手の気持ちや背景を知ろうともせず、時に私の勝手な気分で大切な人にばかり八つ当たりをし、都合のいい時だけいい顔をして、都合が悪くなると自分を守ることに必死になって、当然のごとくに責任転嫁をし、自分のことはひたすら正当化。とりあえず逃げて、ごまかして、甘ったれて。

 傲慢で無責任で卑怯で軟弱な私の根性が、仏教を学ぶことで改善されたとは未だ思わない。しかし、仏教を学ぶまでは、この自分を悲しむことすらなかった。
 うぬぼれているがゆえのイライラや、恩知らずであるがゆえの欲求不満など、あらゆる不快な感情のその原因が自分にあるなどとは到底思いいたることなく、都合のいい人たちとただただ愚癡をこぼし合っては、足の引っ張り合いをしていた。それによって誰かを傷つけているとも自分を傷つけているとも気づかないままに。

 大学に入り、親鸞聖人の学ばれ方を学びはじめて、ようやくそんな自分の生き方の悲惨さに気づいた。ことあるごとに自分の煩悩の闇の深さを知らされ、その悲しさと、「だから私は仏教を学ばなければいけないんだ」という深い感動を覚える。

 人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。
 仏教に出遇えた感動は常に「今」発る。その時、遠い過去からの縁をありがたく思わずにいられない。これが、「遠く宿縁を慶べ」ということなのだろうと、私は受けとめている。

(宗教科  稲岡智子)




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2016年11月15日火曜日

あなたを愛している人たちは あなたが少々かっこ悪くても全く気にしない

今週の一週一言
                                  1114日~1120
 あなたを愛している人たちは あなたが少々かっこ悪くても全く気にしない
                    ちびのミイ

ちびのミイ ・・・ トーベ・ヤンソンが描く 『ムーミン』 シリーズの登場人物。怒りっぽくいたずら好きで、皮肉屋。だが悪意はない。 『ムーミン』 シリーズには、小説のほか、絵本、弟のラルスとともにロンドンの夕刊紙に連載したコミックスなどがある。
【如是我聞】
 小さいころ、ムーミン一家が私の憧れだった。あれぞ家族の理想像、とさえ思っていた。厳密に言えば、ムーミンママの家族に対する包容力に憧れたのかもしれない。
ところでみなさん、『ムーミン』について、どのようなイメージをお持ちだろうか? 「花畑のなか、暖かい仲間に囲まれる日々、ふんわりとした優しい世界」、そんなところだろうか。 ...いえいえ、とんでもない。日本ではアニメ版の影響でそういうイメージを持たれがちだが、小説を読んでみると、真逆もいいところである。春の陽気よりも、郷愁ただよう秋の情景、不安をそそる海や天変地異なんかが背景になることの方が多い。相手の気持ちを読み、どこまでも正直な、言いかえればわりと辛らつな言葉だって飛び交う。コミックスにいたっては、あれはもうシニカル・コメディだろう。そういえば、幼い私に“皮肉”もしくは“皮肉屋”という言葉を初めて教えてくれたのは、ちびのミイだったような。
登場するキャラクターも、これまたあくが強い。孤独を愛する者、臆病で泣き虫、気まぐれ、社交好き。自分や周りの人、どこかしら、誰かしらが持っているはずの一面。普段はそっと隠されがちな人間の“一”側面が、キャラクターひとりひとりに、個性的な性格として与えられている。
一家のなかでも厄介なのが、ママの愛する夫、ムーミンパパだろう。彼が求めるのは自由と冒険。「さらば、たいくつな中年の日々!青春をとりもどすために旅立とう!」とかつての親友とともに旅立つこともあれば、だれにもなあんにも告げず、ニョロニョロに憧れひとり海に出てゆくことも。これが実際の家族にいたらわりと困る。子どもながらに思ったものだ。「パパ、家庭をかえりみて! 妻も息子もいるんでしょう!」、と。息子も息子で、夢見がち。ついつい周りに流されては新しいものに手を出していく。親友のスナフキンやミイに忠告されてもやめられない。パパもムーミンも、たいがい失敗するか納得して帰ってくるところで話はオチるのだが...何ともまぁ、読めば読むほどに情けないというか、かっこの悪い夫と息子である。一度や二度ではないものだから、読んでいて私もいらっとしてくる。ママ、心中お察しします、と思うのだ。ところが驚くことに、「そのうちかえってくるでしょうよ」とママは気にしない。やりたいと言うならやらせてみたらいい、納得したら家に帰ってくる。そしてそれは、まったく毎度その通りなのだ。帰ってきた夫や息子を笑いもせず、しかりもせず、ただ、気にしない。別に無関心なわけじゃなくて、ありのままを受けとめているだけ。これぞまさしく、ミイの言うところの「気にしない」、の精神なのか。うーん、かなわない。
 さて、甘えっぱなしもいかがなものかと私は思った。私の周り、私を受け入れてくれる人たちは、たぶん優しすぎる。だから私自身には、おんなじミイからこの一言をちょうだいしよう。
「見てるわよ、あなたがしていること。神様じゃないわよ、もうひとりのあなたがよ。
もうひとりのあなたがあなたをみているのよ。見放されないようにね。嫌われないようにね。」

甘やかされている私には、“皮肉屋”ミイの塩っからい一言がちょうどいい。  (社会科 草地)




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2016年10月24日月曜日

いかなる教育も 逆境に及ぶことなし

今週の一週一言
                                  1024日~10月30
いかなる教育も 逆境に及ぶことなし  
ベンジャミン・ディズレーリ・・・18041881 イギリスの政治家。2度首相を務める。
                 原語は「There is no education like adversity
【如是我聞】
 私が小学生だった頃、当時大人気だった某テレビアニメが楽しみだった。私の周りの友だちやクラスメイトたちの間では週一回のそのアニメが放映されると、男女を問わず必ず翌日の朝はそのアニメが話題になっていたほどだった。少年漫画雑誌に掲載されていたその漫画はテレビ放映に内容が追いつかれつつあり、途中からテレビアニメの方は明らかに引き延ばしの感があったのが子どもながらに残念ではあった。
 さて、この言葉を聞いたとき真っ先に私の頭に思い浮かんだのがこのアニメ(漫画)であった。このアニメの主人公は次々と強い敵と戦い、何度もピンチに見舞われ、瀕死の状態になりながらも友のため、地球のためと限界の力を超えてギリギリのところで勝利する。その経験を何度も積むうちにいつの間にか主人公はどんどん強くなっており、気がつけばアニメ開始当初では想像もつかないくらいのツワモノとなっていた。それでも私たちはその主人公を通して逆境をくぐり抜けるたびに成長していくということを知った。
 今から思えば当時、似たようなヒーロー、ヒロインアニメがいくつかあったように思う。詳しくは知らないが現在でもあるのかもしれない。そうしていつの間にか「つらいことがあっても乗り越えたらそこには一段階上の自分を獲得できる」という観念が刷り込まれたように思う。実際、私自身もそうだった。部活動でつらいとき、勉強がつらいとき、人間関係がつらいとき……社会人になってもそうだ。きっとこのつらさを乗り越えたら次はこれくらいのことは何ということなく乗り越えられるようになっているに違いない。そう思ってやってきた気がする。
 教育という仕事に携わるようになり、まさに「逆境」に負けずに努力した生徒が驚くほどの成長を遂げるという瞬間を目にしてきた。クラブ活動で悔し涙を流した生徒が数ヶ月間で予想以上に技術が上達したり、テストで「自分にはもう後はない」と覚悟を決めた生徒がそれまでとは別人のように勉強に向き合って成果を上げたりと、それはこの仕事に就いて嬉しいと感じる瞬間である。逆に悲しいことに私たち教員がいくら言葉を尽くして「がんばれ」「努力しろ」と言っても、受け取る側にその意志がなければ成長はない。
自分を成長させるのに大切なのは、逆境に不満や文句を言うよりも逆境に立ち向かっていく気概を持つことなのだ。

(国語科:須田)




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無限なものは二つあります 宇宙と人間の愚かさ  前者については断言できませんが

今週の一週一言
1017日~10月22
無限なものは二つあります 宇宙と人間の愚かさ 
前者については断言できませんが
アルベルト・アインシュタイン(18791955)…理論物理学者
相対性理論で世界に知られている。光電効果の研究で,ノーベル物理学賞を受賞した。
【如是我聞】
一週一言の原稿を書こうと思って1ヶ月…結局ぎりぎりまで書けない。そして,あわてて仕事をしていると,また失敗をしてしまう。愚かな私…。
落ちこんだ時には,夜空でも見て,宇宙に思いを馳せてみたくなります。夜がすぐにやってくる秋になりましたね。満天の星空の中で夜空に吸い込まれていけば,宇宙の果てはどこにあるのか,大きさは無限なのか…と考えたくもなります。みなさんは宇宙が膨張しているって知っていますか?
アインシュタインが発表した一般相対性理論によると,宇宙は膨張あるいは収縮するらしいのです。しかしその当時は,宇宙が大きくなったり縮んだりするなんて考えられず,アインシュタインは宇宙が一定の大きさを保つように「宇宙項」を方程式に導入しました。その後ハッブルが宇宙の膨張を発見したため,アインシュタインは宇宙項の導入を「人生最大の失敗」と言って取り下げたそうです。
 さて,2011年には「宇宙の加速膨張」がノーベル賞を受賞しました。私たちのいる宇宙は加速膨張するというのです。そして「宇宙項」は再び正しいのではないかと言われたりしています。結局,宇宙は無限に広がっていくのでしょうか。私から見ると天才としか思えないアインシュタインですが,それでも宇宙を完全には理解できなかったようだし,我々はまだまだ宇宙のほとんどは理解できていないと言えそうです。学者たちは宇宙のなぞを頑張って解こうとしているのですが,どんどんわけのわからないことが出てくるという状態なのです。
現在,宇宙には目に見える物質は少ししかなくて,ダークマターやダークエネルギーがたくさんあるのだと考えられるようになっています。そう,私たちがまだ正体を知らない未知のもので宇宙はうめつくされているのかもしれません。
 私たちにはまだまだ理解できていないことがたくさんあります。わからないことだらけの中で生きています。宇宙の中で見れば,人類は,そして私はなんて愚かなことをしているのだと思うことがあります。愚かな私たちだからこそ,宇宙に畏敬の念を持ち,謙虚に生きていきたいものです。                 (理科: 川西 大祐)





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2016年6月14日火曜日

何とかなる。それは、やることをちゃんとやってる人のセリフ

今週の一週一言
                                  6月13日~6月19日
 何とかなる。それは、やることをちゃんとやってる人のセリフ
                   ミィ  
ミィ・・・トーベ=ヤンソン作『ムーミン』シリーズに登場する小さな女の子。せっかちで
怒りっぽく、いたずら好き。
【如是我聞】
 焦燥感は騒音を立ててやってきます。がやがや。がやがや。私は極力、その音を冷静にきき流そうと努めます。じっと耐え、静かにやり過ごそうとして。しばらくすると、少し楽になります。ただし音がまったくなくなったわけではなく、騒音は雑音となってどこかで、それも自分の近くのどこかで鳴りつづけています。ざわざわ。ざわざわ。ところがその騒音だか雑音だかは、プツンッと途切れることがあります。それは「何とかなる」と声をかけてもらったときです。これがそんな力を持つのは、ミィのいうようにやることをやっている人が使うことばだからなのでしょう。たとえば仮に、やることをやっていない人にそんなことばをかけてもらっても、私の音は消えませんから。
 反対に焦燥感を更なる不快音に変えていくのは何でしょう。そこですぐに浮かぶのは「何ともならない」です。……が、私にとってそれは、そこまで不快音に響きません。なぜなら、何ともならないと思うからこそ、じっと耐えていこうとしているのですから。となると、対になることばは何でしょうか。もしかすると「何とかなる」の対義語は「どうする?」かもしれません。これだと騒音はかなりのものになるでしょう。どんがらがっしゃーん。どんがらがっしゃーん。ものは試し、ということで焦っていると思われる人に「どうする?」と声をかけてみましょう。それも、車の運転中などがオススメです。付属品として「なあ」もいかがでしょうか。「なあ、どうする?」といったかたちでお使いください。ぐわらぐわらどっしーん。ぐわらぐわらどっしーん。……使用の際は本人の責任のもとお願いいたします。
 「どうする?」は、不安を駆りたててしまうものなのかもしれないですね。それとは対照的に「何とかなる」は安心感を与えることばです。「準備をしているから大丈夫だよ」という安心。もし、物理的にではなくても、それでも心の準備はしているよ、ということが伝わってくると安心感は出ます。心のゆとりが安心を呼ぶんですよね。思えば、ミィは準備や時間に厳しい人でした。最後に、ミィの名言をもう一つ。
 忙しい忙しいって言う人いるじゃない。きっと頑張っているわねって褒めてほしいのよ。だからこう言ってあげたほうがいいわ。時間の使い方が下手ねって。

                              (国語科 小塩)




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2016年6月8日水曜日

「そのうちやる」という名の通りを歩いていき、行き着くところは「何もない」と いう名札のかかった家だ

今週の一週一言
                                  6月6日~6月12日

「そのうちやる」という名の通りを歩いていき、行き着くところは「何もない」と
いう名札のかかった家だ

セルバンテス・・・15471616 スペイン=ルネサンスの代表的作家。激動するスペイン社会の矛盾をユーモアとペーソスあふれた作品に表現した。
                   

【如是我聞】
この言葉をはじめて目にしたとき、思わず声を出して笑ってしまった。しかし直後に、過去50年ほどの間に、節目節目で取った自分の選択のあれこれを思い出し、少々メランコリーな気分に陥った。その後あわてて、「いつもそうだったわけではない」などと、心の中で言い訳をしている自分に気づいた。いったい誰に言い訳をしているのか。胃の奥の方が軽く、キュッと締め付けられるのを感じた。私だけだろうか。
 セルバンテスはスペインを代表する作家である。「ドン・キホーテ」と聞けば、若い人はあの店を思い浮かべるかもしれないが、彼の代表作の名である。スペイン語を専攻していた私は、マドリードに留学して迎えた最初の週末に、小説の舞台となるラ・マンチャを訪ねた。主人公が敵と間違えて戦いを挑む風車を見たかったのだ。丘の上には予想よりもずっと大きな風車があった。背後に無限に広がる荒れた大地とゆっくりと羽を回す真っ白な風車。まさに「知らない世界」に出会った感覚を覚えている。
彼は同時代を生きたシェイクスピアや19世紀のロシア人作家ドストエフスキーなど、国を越え、時を超えて多くの作家に影響を与えたといわれる。しかし飛び抜けておもしろいのは彼の人生である。16世紀に外科医の息子に生まれたが父親の仕事は全くうまくいかず引っ越しを繰り返す。文学を志すも軍人としてヨーロッパはもとよりアフリカでの戦にまで出かける。そして、決して戦果をあげることなく、傷つき捕虜となる。収容所では仲間を扇動し脱出を図っては3回以上失敗。やっと救い出され仕事に就くも、取引先の銀行が破産し、その責を問われ投獄されるなどなど。一言でいえば「トホホな人生」そのものである。しかし彼は、その獄中にて「ドン・キホーテ」の構想を練ったという。無駄はなかったのだ。
(しかしながら、生存中に「ドン・キホーテ」は売れまくったものの、彼のもとにはほとんどその益は届かなかったという。売れるとは思わず安く版権を渡していたそうだ。やはりトホホだ。)
彼は上の言葉にあるような人生を歩んだとは思えない。しかし、きっとその言葉通りの経験を何度か重ねたはずで、その怖さをじゅうぶん知っていたのだろう。

中学生・高校生のみんな、この言葉に何を感じた? で、どうする? 

(宗教・英語科 乾)






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2016年5月31日火曜日

我必ずしも聖にあらず 彼必ずしも愚かにあらず 共に是れ凡夫ならくのみ

今週の一週一言
                                  5月30日~6月5日

 我必ずしも聖にあらず 彼必ずしも愚かにあらず 共に是れ凡夫ならくのみ

聖徳太子・・・多くの寺院を建立し、『三経義疏』を著すなど日本仏教の興隆に力をつく
す。「憲法十七条」より。
                   

【如是我聞】
以下は司馬遼太郎の回想文を要約したものである。
国語の先生が、『平家物語』の一文の中にある「凡夫」という言葉を説明された。その説明をされる前にまず、「どういうことか」と、きかれた。予習をしていたため、自信があった。辞書には、「つまらぬ人」と説明されていた。勢いよく、「つまらぬ人です」と、答えると先生も「そう、そのとおりや」と、うなずかれた。国語の解釈としては、これで十分だった。「ところで凡夫とは誰のことや」と、先生は重ねて質問された。みんなとまどい、「誰のことやろ」と、お互いクラスメートを見まわした。「あいつやろか」と多くの視線を集めたのは、不良化していた一人のクラスメートだった。「誰のことや」と、先生は、さらにみんなを見まわした。みんな、困ってしまった。自分たちのクラスの中から、「つまらぬ人」などを指摘するのは悪いと思ったからである。「分かりません」と、みんな答えた。
すると先生は、おどろくべき正解を用意されていた。「凡夫とは、つまりわれわれのことやな」と。「先生も?」「そうや、凡夫や」。先生がつまらぬ人か、とびっくりしてしまったが、「ところで、日本歴史上の人物の中で、誰が最初に凡夫であると悟られたか」ときかれた。中学二年の子どもには無理な質問だったが、みんな懸命に考えた。先生がいわれた。「その人が、日本の歴史の中で、もっとも偉大な発見をした人や」。自分が凡夫だと知ったことが、それほど偉大なことなのか、私どもにはわからなかった。「それは、法然上人と親鸞聖人や」と先生はいい、「今は無理かも知れんが、大人になったとき、もう一度いまのことを思い出して、考え直してごらん。よく分かる」。そういわれたことが、今でもありありと思い出せる。「凡夫」という言葉のもっている深刻な意味は、今の歳の私にもまだ分からない。これは一生の仕事なのかもしれないが、やはりこういうかんじんなことの種を幼少のころに蒔いてもらったのは、やはり宗門立の中学校(上宮中学校)に学んだからであろうかと、今になって改めて振り返っている。


こんな授業ができたらなあ。                (宗教・社会科:山田)




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2016年5月9日月曜日

善行の報酬は 善行を行ったことである

今週の一週一言
                                  月25日~5月8日
  善行の報酬は
善行を行ったことである
ルキウス・アンナエウス・セネカ
現スペイン、コルドバ出身。紀元前1年~65年、ローマ帝国の政治家。皇帝ネロの幼少期の家庭教師。ストア派哲学者としても著名。ラテン文学を代表する詩人でもある。著作は『幸福な人生について』・『寛容について』など多数。
















【如是我聞】
 善行とは、善とは何ものであろうか。善きこととは何なのか。
 以前、電車で席を譲ろうとして、ひどく相手を不愉快にさせたことがあった。その相手とは、(いささ)恰幅(かっぷく)の善い女性であったのだが・・・。
 では、電車で席を譲ることは善いことなのか、悪いことなのか?答えが出ない。
 (あたか)(あらかじ)め善いこと悪いことが存在しているかのように思い込んでいたのだが。善悪を決定すること、これを倫理という。道徳とも呼ぶ。試みに倫理を辞書で引いてみる。
倫理・・・①人のふみ行うべき道。②(個人や組織ごとに考えられた)道徳の規準。モラル。
なるほど、いくつもの善悪が同時に存在できるようだ。しかし、これは厄介なことではないか。善と悪のぶつかり合いならまだしも、善と善のぶつかり合いも可能なのだ。
「善悪の字知り顔は 大虚言のかたちなり」とは宗祖の言葉である。あらためて噛み締めた。善悪を問題にしているのではない。善はこれで悪はこれだ、と決定することを問題にしているのである。
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」、これが宗祖の立ち位置であった。
 本校には「宗教」という授業がある。道徳とは似て非なるものである。善いことをしよう、悪いことはするな、ではない。では、何をしてもよいのか。そんなことはあるはずがない。ただ、善悪に(こだわ)りながら傷つけ合う私たち自身を、真向かいに見つめるということだ。
 席を譲るべきか否か、考えているうちに駅に着いてしまった、―そんな時間が週に50分あってよい。いや、あるべきだ。

(国語科・宗教科:曽我)




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2016年2月1日月曜日

涙とともにパンを食べた経験のないものに 人生の味はわからない

今週の一週一言
2月1日~2月7日
涙とともにパンを食べた経験のないものに
人生の味はわからない
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe17491832)・・・
ドイツの詩人・作家。「」の旗手となる一方、ヴァイマル公国の宰相としても活躍した。代表作に『ファウスト』『若きウェルテルの悩み』などがある。

【如是我聞】
 ゲーテは韻を踏んだ美しい文体で次のように書いている。
Wer nie sein Brot mit Tränen aß,涙とともにパンを食べたことがない者、
Wer nie die kummervollen Nächte
あるいは 苦しみに満ちた夜に
Auf seinem Bette weinend saß
,ベッドの上で泣きながら佇んでいたことのない者、
Der kennt euch nicht
ihr himmlischen Mächte彼らはあなたに気付かない 天上の力よ
『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』


若きヴィルヘルムは、屋根裏の部屋で、竪琴弾きの老人と遭遇する。この老人がうたうのが「涙とともにパンを……」の詩である。ゲーテの描く主人公ヴィルヘルムは、当時のドイツ人たちに「人間形成の典型
として読まれたということを大学の授業できいたことがある(ぼくは教育学部の学生だった)。しかし、ここに登場しているのは、人生に苦悩する憐れな老人の姿である。これはどういうことだろう。人間は若かりし日には葛藤を経験するかもしれないが、それすら乗り越え、たくましく「成長」していくのではないか。あるいは、いずれは時間の魔法によって痛みは鎮められ、晩年は心穏やかに暮らすのではないのか。当のゲーテですら、若きヴィルヘルムについて次のように記している。「……しかしながら、あらゆる誤った歩みもやがてはこの上なく尊い善に到達しうるものである」。だけど、ぼくはそんな「この上なく尊い善」へと向かうヴィルヘルムより、この老人に興味をおぼえる。勿論、きっと人生というのはいろいろ起こるものだから、心弾む瞬間や、無上の歓びがあふれだすような瞬間もあるだろう(そう願いたい)。それでも……いつかはパンを涙とともに食べ、ベッドの上でつらい夜を過ごすときが来るのだ。たしかに、この詩には素晴らしい「解決策」はないかもしれない。それに正直言って、「天上の力」(「人生の味」というのは意訳だと思われる)なんてものが何なのかよく分からない。だけど、ぼくはこの詩にちょっとだけ慰められるし、励まされる。「そうだよね、人生って思うようにいかないよね」って共感してもらっているような気がする。そうやっていろんな言葉にちょっとずつ慰められ、励まされて、ようやく、ぼくはこの世界に存在することができるのだ。(社会科 舟木祐人)



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内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1...