今週の一週一言 1月28日~2月3日 読むことは考えることであり 知識は忘れたころに知恵となる 松原治・・・ 1917 年生。 2012 年 94 歳没。元紀伊国屋書店名誉会長。東大法学 部卒業後、満州鉄道に入社。戦後、紀伊国屋創業者田辺茂一氏に出 会い、同社に入る。同社のニューヨーク進出などに尽力。 【如是我聞】 本を読むのが好きになったのは、大学を出てからだ。高校時代などは嫌いとまでは行かないが、読書に熱中することなどは決してなかった。 それが今では、読むものを持たずに電車に乗ったりしたものなら、もう大変である。全く落ち着きを失い、座っていることもままならず、吊られている車内広告の文字を追いかけて移動してしまう。そんな活字中毒である。 かなり以前、東京の大学や専門学校で英語を教えている友人たちと、何かのひょうしで「言葉はなんのためにあるのか」という話になったことがある。当時、私は英語教師ではなく、外国人に日本語を教えていた。即座に「コミュニケーションのためだろう」と答えた。友人の一人は「自分の考えや思いを表現するため」と言った。隣にいたのが「表現じゃないよ、整理するためだよ」と言った。最後に残っていたのがこう言った。「思考のためだよ」。そして続けた。「言葉が頭の中に何も浮かばないって想像してごらん。考えるってことそのものができないじゃん」。新鮮な気分になったのを覚えている。 今週の言葉とは、直接関係がないことかもしれない。でも、今週の言葉に出会い、その友人の言葉をほぼ20年ぶりに思い出した。読んではあれこれ考えるのが好きになったのは、その頃からかもしれないことも。 知っているかどうかということは、往々にして、それほどたいしたことではない。せいぜい「よく知ってるなあ~」と言われて、心の中でニヤッとできるくらいの恩恵しか手に入らない。要は、その知っていることをどう活かすかなのだろう。何かを知る前と知った後で、わたしに変化が起こるかどうかなのだろう。 知識が知恵となる。そのことの尊いことはいうまでもない。しかし、仏法はわたしに語りかける。ついたその知恵が、いつしか、あなたを悩ませ、苦しめる因となると。これは「ほこ×たて」なのだろうか。 (文責:い)
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