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目的を見つけよ  手段はついてくる

今週の一週一言                                   1月21日~1月27日 目的を見つけよ  手段はついてくる                 マハトマ・ガンジー Mahatma Gandhi (マハトマ・ガンジー) ・・・1869年―1948年。インド独立の父。「非暴力、不服従」による平和を訴え続けた。政治思想家、人権活動家として、世界中に大きな影響を与えている。 【如是我聞】 手段の目的化に対する警鐘をしばしば耳にする。確かにその通りであり、私自身戒めなければならないことも多い。例えば、クラブ活動の目的を勝つためとすること、勉強の目的を受験に合格するためとすること、働く目的をお金を稼ぐためとすること。このような目的は、おそらく手段の目的化であろう。つまり、目的を達成することが極めて稀であるにもかかわらず、目的を達成した時点で虚無感に襲われることは確実なのだ。では、どのような目的が、「目的」となりうるのか。 マハトマの「目的」はインドの独立であったのだろうか。それとも、そのもっと先にあったのだろうか。どちらにせよ、マハトマのように人生を尽くすべき目的に出会えれば、それこそが人生最大の幸福であろう。しかし、それは容易なことではない。 人生を尽くせるような目的を見つける。それはどだい無理なことではないか。一昔前に流行った“自分探し”と似ている。“自分探し”を公言した著名なサッカー選手は、いつ“自分”を探しあてるのだろうか。ヒトのことはさておいても、もし私が目的を見つけるまでは何もしないとなると、引きこもらざるを得なくなってしまいそうだ。では、どうするのか。 手段の目的化であろうと何であろうとかまわない。まず目前の目的を達成する。それが小さければ小さいほどかえって良い。目前のことに精一杯注力する。その連続によってしか「目的」に出会うことは不可能ではないのか。まずはやってみるしかないのだ。 やってみれば、手段は必ず見つかるはずだ。 (文責:そ)

自己とは何ぞや  これ人世の根本的問題なり

今週の一週一言                                   1月15日~1月20日 自己とは何ぞや  これ人世の根本的問題なり                     清沢満之 清沢満之(きよざわまんし)・・・1863-1903 真宗大谷派僧侶、本校初代校長、 浩々洞を主宰。教団改革運動の中心となる。近代親鸞教学の祖。 著書『宗教哲学骸骨』・『絶対他力の大道』・『我が信念』など多数。 【如是我聞】 「不易流行」という言葉がある。芭蕉の芸術観を表す言葉である。「不易」とは詩の基本である永遠性、「流行」はその時々の新風のことである。しかし、それら二つはともに「風雅」の誠から出るものであるから、根源においては一つである、と芭蕉は言う。  では、詩ではなく我々一人ひとりについてはどうであろうか。  我々にとっての「流行」と言えば、枚挙にいとまがなかろう。時代の潮流、コマーシャリズム、アンチエージングにビックリ健康法、ネットの掲示板やツイッターでのつぶやき、他人のうわさ話からいかがわしいもうけ話。その一つ一つに一喜一憂、振り回されつづけるのが我々の日常ではないか。そして、当の本人には振り回されている自覚は毛頭ない。私は信念を持って盤石の日常を生きている、と勘違いしている。しかし、この“盤石の日常”がはたして我々の「不易」なのであろうか。  清沢の言う「自己」とは、振り回され続ける自己の方であり、振り回されていることにすら無自覚な自己のことである。しかし、「自己」とはそれだけではない。そのような自己でありながらも、その自己を尽くしていきたい、「今」に納得して生きていたいと思い続けている「自己」。それがどんな時も変わらない自己の本当の願いであると言う。「今」とは変わり続け、衰え続ける「今」である。それを受け止め、諦めもせず、気負いもせず生きる。それを実現させるものが阿弥陀の本願、つまり本来の我々自身の願いに目覚めて生きることである。 本来の自己に目覚めたうえで、我々の周りの様々な事柄に応じて、様々なあり方で生きる。それが我々にとっての「不易流行」ということかもしれない。  だからこそ、自己を問い続けることが人間の根本的問題となるのではないか。 (文責:そ)

自分が自分になった背景を知る。 それが恩を知るという意である。

今週の一週一言                                   12月10日~12月26日 自分が自分になった背景を知る。 それが恩を知るという意である。      安田理深 安田理深(やすだりじん)・・・1900-1982 真宗大谷派僧侶、仏教思想家、 私塾「相応学舎」を主宰。 【如是我聞】 “We are what we eat.”(私たちは食べ物で出来ている)先日、ある先生に教わったアメリカのことわざです。  私たちは他のいのちを犠牲にすることなしに生きることはできません。無数のいのちに支えられて生かされています。この事実は「自分が自分になった背景」の重要な要素であるにもかかわらず、私たちの可視範囲、想像の域は決して広くありません。  私たち真宗の家庭では、精進日というものを月のうち数日設けることによって、この背景に思いを寄せようという習慣があります。この精進日には食卓から肉・魚類が姿を消します。私が中高生の食べ盛りの頃はこの日が憂うつでした。母親は野菜を天ぷらにするなど、少しでも食べ盛りの子どもに満足させようと、色々な工夫をしてくれました。祖母の時代は卵もだめだったらしいのですが、私の母親は「あれは温めても雛にはならん」と言って、卵を食べることをOKにしました。でもかまぼこは当然だめですし、うどんの出汁もだめでした。このような習慣は今でも続いていますが、私の妻はこの習慣が新鮮らしく、精進日の献立を楽しんでいるようです。  月のうちにせめて数日でも他のいのちを犠牲にしない。完全には無理であるにしても、そうすることで、無数のいのちにささえられている事実を改めて考えよう。そのような習慣です。  自分の力だけで生きていると錯覚している私たちが、支えられて存在しているいのちという事実に気づけば、何か恩返しをしなければなりません。そのような気持ちにいたることが、恩を知るということかもしれません。  あなたのいのちを「いただきます」。それを私のもとまで届け、調理してくださったものに対して「ご馳走さまでした」。恩を知った者がこの二言を粗末にすることはできないはずです。 (文責:や)

人と生まれた悲しみを知らないものは 人と生まれた喜びを知らない

今週の一週一言                                   12月10日~12月26日 人と生まれた悲しみを知らないものは 人と生まれた喜びを知らない                   金子大栄 金子大栄(かねこだいえい)・・・1881-1976。真宗大谷派僧侶、仏教思想家。 【如是我聞】 わたしはわたしが積み上げた経験や学んできた価値観からできている。毎日せっせと積み上げて、今、どのくらいの高さになっているだろうか。人一倍努力して、いつか「どうだ!高いだろ、凄いだろ!」と自慢したいわたしがいる。  わかっている。こんなに積み上げても実は何のあてにもならないこと。身につけている高価なものも、ただのガラクタであること。わかっているつもりだが、手放すことはできない。わたしは何より守りたい自分からどうしても離れることができないのだ。これが我執というものか。しかし本当の自分に出会うことが怖くて、ずっと自分をごまかしている。  最近寒くなり、温泉に行くことが多くなった。服も化粧も全部取って湯に浸かっていると、「わたしもその他大勢の一人だ。」と感じる。もしかするとこの中に大富豪がいるかもしれないし、大発明家がいるかもしれない。しかしここでは関係ない。みんな同じ。そんなことを考えていると、張り詰めた気持ちが楽になる。比べて生きるのは苦しいだけだ。  近い未来、自力無効を知ったとき、きっと今積み上げているものは何の意味もないことを痛感するのだろう。「念仏は自我崩壊の響きであり、自己誕生の産声である。」という金子先生の言葉のように、わたしは同時にそのまま包まれている自己を見いだすことができるのだろうか。 (文責:さ)

自分は正直なつもりであろうが、実はそんな人間が、一番不正直な人間であろう。

今週の一週一言                                           12 月3日~12月9日  自分は正直なつもりであろうが、  実はそんな人間が、  一番不正直な人間であろう。                         曽我量深 「あの人の言葉は信用できない。」 「あいつは失礼なやつやで。」 「あの人は、困ったらすぐ逃げる。」  こういう言葉が私の口から出るとき、「まあ、私は大丈夫だけどな」、「私は違うけどな」と思っている。どこかで「私は正しい」と思っている。  もし仮に、「私も信用されないようなことをしてしまうことがある」し、「失礼なやつだと思われているかもしれない」し、「またもや、踏ん張れずに逃げてしまった」などという思いが、自分に対してあるならば、露骨な他人に対する批難は、私の口からは出てこないのかもしれない。  でも出てくる。時に堂々と。時にこそっと。「ここだけの話やで~」という枕詞に続いて。  そういうときの自分は、意識としてどこまでも「善人」である。そして近くにいる「悪人」を許せずに批難しているのだ。  ある先生に教わった。「人間は自分が正しいと思ったときに、その人の持つ、最もいやらしい部分が顔を出す」と。  自らの悪人性にうなづくことなく「善人」を目指す生き方には、きっと無理が生じる。校歌に詠われる「よき世の人」に成ろうとする歩みとは異なるはずだ。都合の悪いことすら、切り捨てるのではなく受け入れる。上に立つのではなく共にある。そういう歩みであろう。  「悪人」という自覚がスタートになったとき、そのゴールにあるのは絶望でも失望でもなく希望であろう。 (い)

自信教人信 (自ら信じ人をして信ぜしむ)

今週の一週一言                               11月26日~12月2日 自信教人 ( じしんきょうにん ) 信 ( しん ) (自ら信じ人をして信ぜしむ)                         善導大師 善導・・・ 613年生まれ、681年没。親鸞聖人が師と仰がれた中国の高僧。  【如是我聞】   本校の初代校長清澤満之先生は、大谷大学の前身である真宗大学の初代学長も勤められた。先生は「真宗大学開校の辞」において、この善導大師の語をひいて「我々に於て最大事件なる自己の信念の確立の上に其信仰を他に伝える即ち自信教人信の誠を尽すべき人物を養成するのが本学の特質であります」と述べられた。  本校もまったくこの教えをもとに、開設されたのである。 本校の建学の精神である「樹心」とは、「自らの心を広大な仏の願いの中に置く」ということであり、東本願寺の標語である「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」も同じ趣旨である。  人を教化しようとするとき、まず自分がその生き方を実践し、それが良いものであること実感しておくことが第一だというのである。  この頃のグルメ番組を見ても、材料や彩りの良さは伝えることは出来ても、本当にその食べ物が美味しく安全で、何よりも生きる力になることは、なかなか伝わりにくい。 まず無心に食べて「うまい!」という実感が得られること、それが生きる力になる。          (文責:如)

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし

今週の一週一言                               11月19日~11月25日 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし                       宗祖親鸞聖人 親鸞・・・ 1173年京都生まれ、1262年没  【如是我聞】   我々にとって最もなじみある法語であり讃歌である。法要の最後を飾り、本山報恩講でも、最終日に高らかに詠いあげられる。しかし、問題はその後である。よかった、よかった、終わった、終わったという訳にはいかない。なぜなら、歌のような気持ちが、悲しいぐらいに湧いてこないからである。湧かないとすれば、身を粉に、骨を砕きなど、絵に描いた餅ならぬ、歌に詠われた単なる美辞であろう。私は、ここ数年いつもそのことが気になり、そして気になりつつそのまま放置していた。  では、宗祖はどうであったのか?報恩感謝の念に満ちあふれて生きられたのか? 恩徳讃に続き、次のような和讃がしたためられている。   仏智の不思議をうたがいて  自力の称念このむゆえ    辺地懈慢にとどまりて   仏恩報ずるこころなし  宗祖も私と同じであった。仏恩を報ずる心はないのだ。 しかし、どこまでもそういう自分自身を厳しく見つめ続けるところが、うやむやに誤魔化し続ける私との決定的な違いである。恩徳讃に続くこの和讃を読み、つくづくそう感じる。                      (文責:そ)

いかに文釈をおぼえたりとも信がなくはいたずらごとよ

今週の一週一言                               11月12日~11月18日 いかに文釈をおぼえたりとも    信がなくはいたずらごとよ                     蓮如上人 蓮如・・・ 1415年京都生まれ、1499年没 真宗の僧侶。本願寺第8世、中興の祖。衰退の極みにあった本願寺を再興し、現代の本願寺教団(東・西本願寺)の礎を築いた。 【如是我聞】   この一言を読み、なるほどごもっとも、と頷く。そして我々は、そうだ「信念」が大切だ、何事も「信念」をもって行動すべきだ、と納得する。しかし、この「信念」というやつが甚だやっかいである。  そもそも信念を伴わない行動などというものがはたして存在するのだろうか?強いか弱いかを別にして、何らかの判断、思いが我々の行動の先にはあるはずだ。しかし、それがあまりにも、そして恥ずかしいばかりに利己的で、かつ場当たり的であることが問題なのだ。  確たる信念は美しい。しかし、人間はそれによって他者を傷つけたり自分が傷ついていったりもする。しかも、強ければ強いほど取り返しのつかない傷つき方をしてしまう。 えーい、ままよ!信念などくそ食らえ、俺は流され流され生きてやる!!  それもまた、身勝手な信念であった。ころころ変わるのも私の信念の特徴かもしれない。                      (文責:そ)

苦しみの報酬は経験なり

【11月 5日】  苦しみの報酬は経験なり アイスキュロス  前 525 ~前 456          アテネの三大悲劇詩人の一人。『アガメムノン』・『縛られたプロメテウス』などが残る。  私たちは自分の苦労話をするのが大好きです。しかし、さまざまな苦しい 出来事に遭い、その結果として得られた経験が、単なる苦労話にとどまって いては、自分の糧となる生きた経験とはなりません。その苦しい経験が他者 へも向けられ、他者への共感となってこそ、本当の経験となるのでしょう。 なぜなら「私」一人の苦しみは、実は人類全てに共通する苦しみであるはず だからです。私たちは孤立しているわけではなく、不可思議としか言いよう のない他者との様々な縁によって、ただ今このいのちをたまわっている存在 です。他者とのかかわりなしに、この私は存在しません。私たちは単独で生 きているのではなく、相互依存の関係の中を生きているのです。相互依存の 関係を生きている以上、他者の苦しみに「知らん顔」するわけにはいきませ ん。 病を得てはじめて健康のありがたさを知り、大切な人をうしなってはじめ ていのちのはかなさを実感する。そのような人は同じ境遇の人に優しくなれ るはずです。これこそがアイスキュロスのいう報酬かもしれません。 (や)

すぐ「わかりました」という人間に、わかったためしはない

【10月29日】  すぐ「わかりました」という人間に、わかったためしはない 小早川隆景     1533 ~ 1597          毛利元就の第3子。安芸の小早川家を継ぎ、毛利氏の中国覇権確立を助けた。秀吉の五大老にも列し、朝鮮出兵にも従軍した。  すぐにわかりましたと言う人は、その指示さえ守ればいいと思っているの で、自分の頭で考えようとしません。臨機応変の対応に弱く、応用がききません。そんな人は命がかかった戦場では使えないのです。隆景にとって、そのような部下は扱いに困る存在であったに違いありません。「わかったためしがない」とわざわざ言っているのは、周囲にそんな人物が多くいたからかもしれません。  使い勝手の悪い部下を持って苦労しているのは何も隆景だけではありません。私たちも同様かもしれないのです。例えば知識として仏教を学んでいても、そこにこの私自身を通した実感がともなわないと、仏教は生きた教えになりません。これを確かめ続けることを聞法といいます。聞法に終わりはありません。一生続けなければならない大切なことです。「聞く」ことは「信じる」ことと別々のものではなく、一つのものだからです。 また聞法は、けっして私にとって役に立つ言葉をさがすことではありません。そうではなく、逆に自分の生活を常に照らし出してくださる言葉に出会うこと、つまり、言葉につかまれる体験だと思います。そしてそのように私の血肉となった言葉だけが、私の本当の学びとなっていくのだと思います。 ともすればその場だけのこととして、あるいは今度の授業で使ってやろうなど、仏教の言葉を自分の都合でしか聞いていない私です。蓮如上人はこのようなありかたを、「 意 ( い ) 巧 ( ぎょう ) にきき」、「ただ、 得手 ( えて ) に法をきく」と厳しく戒めてくださいます。 (や)