一週一言インデックス

2012年9月24日月曜日

0から1への距離は 1から1000への距離より大きい


今週の一週一言
                                  9月24~30日

0から1への距離は
1から1000への距離より大きい
ユダヤの格言
【如是我聞】
 私は昔から、何事につけても熱しにくく冷めにくい性格である。よく言うと慎重であり、大切だと思うことには粘り強い方だとも自負している。いや、それでは格好をつけ過ぎている。ただ、かかりが遅いだけであり、嫌なことは後回しにしているだけである。
しかし、興味がないことには全く心が騒がない。どれだけ世間がちやほやし、「えっ、知らないの?」等と真顔で言われても我関せずを貫くところがある。要は時代遅れに心地よさを感じる人間なのだ。
 iで始まる様々な機器にも未だ無縁である。AKBの前田さんと大島さんは何度見ても同じ人だ。そのくせ、今年に入って北方謙三にはまるや、『三国志』から『水滸伝』シリーズ約50巻を読み、続編を心待ちにしている。
 趣味の世界ならばそれでいい。特に誰にも大きな迷惑はかけないだろう。しかし、仕事となると。勉強となると、、。締切があるとなると、、、、。
 0が1になった時、流れるように、また、重なるようにそこに続く世界がある。それはすでに体感している。同時に、0を1にまで持っていくことがどれほど大変かも痛いほど経験している。1になるのを前に逃げたこともある。「あの時やっていれば」。でも、それは言うまい。
 
ある卒業生に教えられた。「しなければならないには二通りある。他人に言われるだけのことと、自分でそう思えたこと。前者は苦痛でしかない。後者も必ず苦痛は伴う。でも十分楽しめる。苦が単なる苦ではなく、自分を育てる大切な出会いになる。」と。
前者を()といい、後者を無碍(むげ)というのだろう。
「念仏者は無碍の一道なり」。親鸞聖人の言葉である。もうすぐ報恩講。
                            (文責:い)

2012年9月11日火曜日

師は、弟子にその準備が整った時にあらわれる


今週の一週一言
                            月10日~9月16日

師は、弟子にその準備が整った時にあらわれる
                                       チベットの格言
【如是我聞】
 チベットは中国の西南に位置する自治区です。南にそびえるヒマラヤ山脈を始め、高大な山々に囲まれた山脈地帯です。
 チベット仏教がその地に生きる人々の思想を支えていますが、その教えに基づく格言の多くが日本でも広く知られ、その一つが今週の言葉です。
 ここでいう「師」というのは、「私の大事な先生」と考えればいいと思うのですが、職業としての先生とか、立場として先生と呼ばれる人たちとかではなく、「今の私があるのはこの人と出会えたからだ」とか、「この人に出会えたことで私の生きる方向が定まった」とかいう、そういう人のことです。その人との出会いは、私にその準備が整った時に現われるというのです。
 準備が整うというのは、どういうことかというと、「今の私の課題・解決したい問題や置かれている状況がはっきりした」ということではないかと思うのです。答えやアドバイスや将来に関わる大事なヒントを与えてくれる人は、すでに私の周りにはいっぱいいるんですね。でも、私の問題・課題がはっきりしていないから、そのアドバイスとか教えというものが響いてこないのです。
 だから、ひょっとしたらもうすでに「師」は私の目の前にいて、その人とはしょっちゅう言葉を交わしているのかもしれないのですが、その人が「私の師」であるとは気付いていない、またはそうは思えない私がいるだけなのかもしれないんですね。
 そう考えると、「師」つまり「私の大事な人」に会えるかどうかは、私にかかっているんですね。私が、今の私にとって何が必要か、何を求めているのか、それがはっきりしたとき、きっと「あ~この人を求めていたんだ」という出会いが成り立つのかもしれません。
 親鸞聖人の「師」は法然上人ですが、決定的な出会いは親鸞さんが29歳の時だと伝えられます。しかし、親鸞さんは、もっと以前から法然さんのことを知っていたし、直接話したこともあったと言われています。「師との出会い」が成立するのに時が必要だったのでしょう。
 「この人に会えてよかった」と心から言える人生を歩みたいものです。でも、「その出会いは私にかかっている」と、この言葉は教えてくれています。(い)

2012年7月30日月曜日

WEBページでは「一週一言」を夏期休暇中ということで、2学期から再開の予定です。

また、現在、毎週木曜日21:00から KBS京都で放送中の「大谷発未来行」でもお聞きになれます。

よろしくお願いします。(本校ホームページでもお聞きになれます。)

2012年7月10日火曜日

7月9日~7月15日


7月9日~7月15日


なんでもやってみなはれや やらなわからしまへんで                                     鳥井信治郎

1879年生まれ サントリー創業者。「なんでもやってみなはれや」は口癖だったという。

【如是我聞】

釈尊は6年間の苦行をやめた。親鸞聖人も20年間の比叡山での修行をやめた。両者とも、放棄したのではなく、「あきらめた」のである。
仏教では「あきらめる」を「諦める」という。「諦」とは真理・道理ということで、「諦める」とは、「真理・道理を明らかにする」という意味になる。
ただ単に「あきらめた」のであれば、後からもっともらしい理由や説明をつけて、自分の立場を正当化しようとする。負け惜しみによる自己満足や、やせ我慢である。まるでイソップ童話に登場するブドウを取り損ねたキツネのように。私たちがあのキツネの気持ちをよく理解できるのは、大なり小なりそのような経験があるからであろう。
「諦めた」のなら納得した上でのこととなる。納得した上で断念したのなら、そこには負け惜しみはない。自己を正当化する必要もない。安心して次へ進むことができる。人間、「諦め」が肝心だ。
                     (や)

2012年7月2日月曜日

7月2日~7月8日



7月 2日~7月 8日



人が旅をするのは到着するためではなく旅をするためである               ゲーテ

ドイツの文豪。疾風怒濤(しっぷうどとう)運動の先頭に立つとともに、ヴァイマル公国の宰相に就任して政治家としても活躍。シラーと親しく、のちにはドイツ古典主義文学を大成。

【如是我聞】
「わたくしはこの歳になるまで、ただ急いで終点につくことばかりを考えていたらしい。目的を追い、結論にいたることだけに、じたばたしながら毎日を過してきたようである。一日一日に、花の香りは漂い流れているし、毎日毎日に、落花(らっか)の風情が興趣を深めている。そこに眼の及ぶこともなく、終点到着だけに心奪われていた、ということになる。さて、その終点でいったい何が待っているのであろうか。愚かなことである」。・・・「それにしても、今の子供たちはどうなるのであろう。幼稚園から大学まで、そして卒業してからも一生涯、山の彼方(かなた)に何かがあるように思うて、その日その日を手段化し、競馬のように鞭をあてられ、走っている。やがて終点が見えてきたとき走り疲れた人たちは、こんなことをつぶやいている。〈何もしないでジットしていたい、自分が忘れたい、できたら蒸発したい〉。こういう人間を作ることが、教育の名のもとに行われているような気がしてならない」。      (とう)花集(かしゅう)(昭和52年)

広小路(とおる)名誉校長の至言である。これ以上何を付け加える必要があろうか。                                                                                     (や)

2012年6月26日火曜日

6月25日~7月1日

前へ!これがすべての原点         北島忠治

1901~1996 元明治大学ラグビー部監督。「前へ」と言い続けた彼のこの言葉は、明治ラグビーの代名詞となる。

【如是我聞】

 キャッチコピーやスローガンといったものは、単純で短い方が分かりやすいが、単純だけにその解釈は人によって多様となる。ラグビー界においては、「前へ」とはトライに近づくために、少しでも相手の陣地奥深くに楕円形のボールを進めよということであろう。では本校にとって「前へ」とは?私は校訓にある、「不断に精進せよ」と解釈したい。
 私たちはやらなければならないことがあると思っていても、毎日の忙しさの中でついつい先送りにしてみたり、忘れてしまったりすることが実に多い。本当にやらなければならないことは分かっているのに、色々な言い訳が先行する。そんな私たちに校訓は教え諭す。「不断に(怠ることなく)精進(努力)せよ」と。
 精進の原義が「勇敢さ」・「勇者たること」であることを思えば、明治ラグビーの「前へ」に通じるものがありはしないか。勇気を持って、本当にやらなければならないことに向き合いたいものだ。                
(や)

2012年6月25日月曜日

6月18日~6月24日

始まりはすべて小さい
                     キケロ


キケロ・・・共和制ローマ期の政治家・文筆家・哲学者である。無名の家系出身でありながら、当時の共和制ローマ期に「古代ローマ最大の政治家」と言われるまで上りつめた。ギリシャ哲学をラテン語に翻訳してローマへ導入し、のちの西欧世界に大きな影響を及ぼした。著作は『国家について』『法律について』『善と悪の究極について』など。


【如是我聞】
 何かに取り組むとき、周囲からどう見られるかと不安になることがあります。周囲の目を気にしだすと我慢することが習慣化し、次第に何を我慢しているのかさえ分からなくなってしまいます。そうしていると、ついにはどこか我慢していることを喜んでいる自分さえいるような気持ちになってくるのです。
今、自分のためにできることは何でしょうか。私たちは「周囲からどう評価されるか」ではなく「どんな人になりたいのか」と常に自分自身に問うべきだと思います。自分のしたことを他人のせいにせず、自分で責任をとれるように。そしていい人だと認められるのではなく、自分が本当に喜べることを始めていくべきだと思います。
わたしがわたしらしく生き生きと生きるために、まずは安心して自分の足で一歩踏み出しましょう。       (文責 さ)

内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1...