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噂とはいいかげんなものだ。たいていの噂の方がよくできている。

今週の一週一言
                                  月15日~24日
噂とはいいかげんなものだ。たいていの噂の方がよくできている。
                    映画『ワイアット・アープ』

『ワイアット・アープ』・・・ローレンス・カスダン監督、制作、脚本による1994年のアメリカ映画。西部開拓時代の保安官であるワイアット・アープをケビン・コスナーが演じている。

【如是我聞】
「噂とは口へんに尊ぶと書くが、あんまり尊ぶようなことは言わんもんや…」
 上方落語『つる』の冒頭で、甚兵衛はん(「じんべはん」と発音。ご隠居さん的な人物)が訪ねてきた男に「(若いものの間で)アンタの噂が出てましたで」と言われたときに返す一言である。噂というものの本質を射抜いた言葉であろう。
 自分の噂が気にならない人はいないと思うが、甚兵衛はんの言うとおり、たいていは「尊ぶ」ようなことは言われていないと考えておいて間違いはない。噂とは「その場にいない人についてあれこれ話すこと」だから、話す人のほうに遠慮はない。当人の前では話せないようなことでも、おかまいなしである。自分が誰かの噂ばなしをしているときを思い起こしても、「あの人は実に立派な人で…」なんてことはまず言っていない。(ちなみに、甚兵衛はんは「盗人かもしれん」と言われている始末である。)
 ただ、噂というものはすべて真実が語られているかというと、そんなことはなさそうである。その場限りで無責任に語られることが多いだけに、根拠が薄弱な場合も少なくない。話を面白くするために、いわゆる「盛る」ことが行われることも珍しくなかろう。あまり噂を鵜呑みにするのは考えものである。(かの山本リンダ女史も昔、「噂を信じちゃいけないよ…」と歌っていたではないか!)
 これもある落語に出てくるセリフに、「馬には乗ってみい、人には添うてみい」というのがある。人というものは、第一印象だけではわからないものだ。初めは取っつきにくいと思っても、付き合ってみると案外そうではなかったなんてことがよくある…というほどの意味かと思うが、やはりその人の値打ち、真価というのは(当然のことながら)深く知り合ってみないとわからないということだろう。
 昨年から、中学部に身を置き、それまであまり接点のなかった方や、接点があった方でもまた違った関係性で職場を共にさせてもらっており、日々さまざまに助けられて過ごしている感が強い。(本来は自分がお助けしないといけないのはわかっているのだが…)この人はこんな面白い人だったのかとか、こんな素敵な一面があったんだといった、再発見をさせてもらう、まさに「人には添うてみい」を実感する毎日である。
今後とも、噂に左右され、余計な先入観を持って人と接することがないようにしたいものである。

(英語科 左溝)




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