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たれのともがらも われはわろきとおもうもの ひとりとしても あるべからず

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平和は微笑みから始まる

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自分の生きる人生を愛せ 自分の愛する人生を生きろ

今週の一週一言                                   5 月 27 日~ 6 月 2 日    自分の生きる人生を愛せ 自分の愛する人生を生きろ 原文  Love the life you live.Live the life you love.                         ボブ・マーリー                                    ボブ・マーリー (Bob Marley) ・・・   1945 年~ 1981 年 ( 享年 36 才 )   ジャマイカ出身。シンガーソングライター。 レゲエミュージックの先駆者。洗練された歌声で宗教性・社会性の高い楽曲を発表し、ジャマイカ音楽の世界的認知度を高めた。代表曲「 Could you be loved 」、「 Get up, Stand up 」、「 Is this love 」など多数。また、「 I shot the sheriff 」がエリック・クラプトンにカバーされるなど、多くのミュージシャンにも多大な影響を与えた。没後 40 年を経た現在でも世界的に聞き継がれ、語り継がれる伝説的ミュージシャン。 【如是我聞】 最初は、ホンワカした空気に包まれ、心地よい時間が流れていく。聞き慣れない、それでいて体内最深部まで入り込むリズムの反復、なんとも脳天気なメロディに浮遊感がとまらない。 次に、その気持ちよさをチクチク刺激する歌詞に意識が持って行かれる。「女はみんな泣いてんぞ」「ポリ公にぶっぱなしてやったぜ」「燃やせ パクれ」、ん? ギャップがたまらん。 小さいモニターに映る、逆光の中に動く人影。近くの壁にはでかいポスター。ドレッドに特大のジョイントを咥えた口元。痩けた頬。このいかれポンチ、ぼぶまあれい、というのか。 バンコクの裏路地にある紫煙に煙った小汚いカフェ、そこで僕はボブと出会った。 ボブが生まれたジャマイカは、中南米のご多分に洩れず、欧米に恣に収奪されているカリブの島国だ。父は大会社を経営する 61 才のイギリス人、母は 16 才のジャマイカ人。 6 才で父に引き取られるが、父の友人に預けられ、その後父は二度と姿を見せなかったという。 10

幸福は身体にとってはためになる。しかし精神の力を発達させるものは悲しみだ。

今週の一週一言      5 月21日~5月27日 幸福は身体にとってはためになる。しかし精神の力を発達させるものは悲しみだ。   マルセル・プルースト…フランスの作家。小説『失われた時を求めて』は「世界一長い小説」としてギネス世界記録に認定されている。                                   【如是我聞】 一週一言史上最も書けない言葉に出会ってしまった。去年簡単に引き受けてしまったことをものすごく後悔している。逆境は精神を発達させる!?逆境真っ只中のわたし。まだ何の見通しもない。この美しい名言は今のわたしには正直しんどいです … ので、しばし現実逃避をさせてください。 特定の香りがふいに過去の記憶を蘇らせることがある。「プルースト現象」だ。小説『失われたときを求めて』の中で、主人公が紅茶に浸したマドレーヌを口に入れた瞬間、過去の記憶が鮮明に思い出されるという場面が元になっている。 私たちは、今覚えている記憶が実は本当ではないかもしれない、なんて考えたことがない。しかしプルーストは、先程の主人公にあったような、無意識的に呼び起こされた記憶こそが真実なのだ、と言う。そして、そのきっかけは香りなのだと。脳のことはよく知らないが、五感の中で臭覚だけが、直接大脳辺縁系を刺激するからだそう。香りだけが自分の意志の届かぬところで記憶を蘇らせるなんて、なんともロマンチックだなぁ。(現実逃避しています。) しかし、なぜ人間は忘れてしまうのか。塾の先生がエビングハウスの忘却曲線を書いて、「忘れる前に振り返ろう」とよく言っていた。意味がわからないまま覚えたことは、 1 時間後には 50% 以上を忘れるんだと。勉強は振り返りが大切だが、人生は振り返る必要があるのだろうか。忘れたいこともあるのに。 さて、逆境が召喚した超ネガティブなわたしには、ちびまるこちゃんの父、さくらひろしの言葉がグッとくる。 「生きるってことは忘れることよ。人間ってのはよぉ、物事全部覚えてたらかえって苦しくって生きていけないもんよ。」 彼がわたしと同い年ということは信じ難いが、呑気に見せかけて実は色々な経験をしてきたのかもしれない。そしてその娘まる子の「わたしには今しかないよ。今を生きる女なんだよ!」と言う

いつもいつもありがとうね なんでそれが言えないんだろう

一週一言 5月13日~5月19日                                   いつもいつもありがとうね なんでそれが言えないんだろう DISH// 「沈丁花」    DISH//  日本の 4 人組ダンスロックバンド。 2011 年結成。同じ事務所で俳優として活動していたメンバーが集められ、「今日から君たちはバンドだ」と言い渡される形で組んだのが始まり。 【如是我聞】  めったにないほど素晴らしい。  「ありがたし」は「有り難い」と書いて……と、定番の説明をする。古文単語でもかなり重要なので、聞き飽きたという人も多いはず。  さて、そうなると「いつもいつもありがとうね」は、ひょっとしたら矛盾を孕んだことばかもしれない。だから素直に言えなくなるのかな。 そもそも「いつも」「ありがとう」というべきはずの対象は、自分(「ありがとう」を言う側)にとってかなり身近な人だろう。それに対して「ありがとう」は感謝のことばであると同時に、もしかしたら、どことなく「よそよそしさ」を含む響きを持っているものなのかもしれない。いわば、この「ありがとうの有する距離感」が、簡単に言えなくさせている原因ではないだろうか。  たとえばお弁当。作ってもらえることは、もちろん「ありがたい」わけだが、なかなか「いつもいつもありがとう」と言えない。「ありがとう」よりはハードルが低い(ように思える)「お弁当おいしかった」も言えない。場合によっては、自分で洗いもしないお弁当箱を、ただ黙ってテーブルにでも置いておくだけということもあるかもしれない。いや、そもそもお弁当箱を持っていくのや持って帰るのを忘れた、なんてことも……。  そのほか、洗面所のタオルを替えてもらった、コーヒーを淹れてもらった、点在するゴミ箱からゴミを回収してもらった、濡れた傘を干しておいてもらったなど、あらゆるありがとうの可能性を消してしまっているのではないだろうか。  なるほど「よそよそしさ」を感じるから「ありがとう」が言いにくいというのはあるだろう。しかし、本来なら身近な人こそもっとも感謝の気持ちを伝えていくことが大切である。『沈丁花』も後半ではこう歌っている。  いつもいつもありがとうね 今日はそれが言えな

その人を憶いてわれは生き、その人を忘れてわれは迷う

今週の一週一言 5 月 8 日 〜 5 月 14 日 その人を憶いてわれは生き、その人を忘れてわれは迷う 金子大榮 金子 大榮( 1881 ~ 1976 年)  新潟県高田出身の真宗大谷派の僧侶。真宗京都中学(現、本校)を卒業後、真宗大学(現、大谷大学)に入学。 1917 年、大谷大学教授に着任するも、 1928 年には辞任。 1915 年には、清澤満之が創刊した『精神界』の編集責任者を務めた。 【如是我聞】  その人とは「親鸞聖人」である。「憶う(おもう)」を辞書で調べると、心に留めて忘れないとあった。「思う」や「想う」とは違う「憶う」。 その人と言われて私がおもいうかべたのは「父」である。父が亡くなってもう 20 年が経った。父は 55 歳で、ある日突然、心不全で亡くなった。セントレア空港島内の橋をかける仕事をしていた。 9 月のお彼岸、残暑が厳しく、開港にむけて、急ピッチで仕事をしていたときである。父が亡くなって、単身赴任先の一人暮らしの部屋を片付けていた時、どこかでもらったであろううちわに父の丸字が書いてあった「人生には3つの坂がある 上り坂 下り坂 まさか」 父は 50 歳を目前に、高校卒業以来 30 年以上務めた会社を退職した。転職をして、単身赴任になり、そこへ遊びに行ったとき、夜、兄や母が先に寝て、眠れずにいた私に、ふと父が話し出した。「(前職で管理職になり、仕事を監督する側になったとき、)自分の持っている技術を生かしたいと思った。(だから、転職した)」と。 父が亡くなって、お経をあげに来てくださった住職が「生きているときはそばにいないと会った気がしないけれど、大切な人がなくなると、ずっとそばにいてくれる感じがしませんか」と話してくださった。転職以来、父はずっと単身赴任で、たまに帰ってくるという感じだったが、亡くなってからはずっとそばにいる。確かに、そう感じていた。父に会ったことがないわが子たちは「じぃじは、お母さんの肩にずっといるんでしょ」と話す。  仕事でうまくいかないことがあるとき、いつも父に語り掛ける。大谷で働き始める前に亡くなった父に、仕事のことをきくことはできなかった。私が幼いころから仕事人間で、平日は朝早くから夜遅くまで、休日ももちろん出勤。たまに休みがある

内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目

一週一言 9 月 4 日~ 9 月 10 日                                   内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる 不思議な目 鈴木章子    鈴木 章子 ( あやこ ) ( 1941 ~ 1988 )……北海道斜里町にある浄土真宗大谷派西念寺の坊守。4人の子の母であったが、42歳のとき乳癌の告知を受け、46歳で亡くなるまでの4年間、死と向かい合う苦しい闘病生活をおくった。著書に『癌告知のあとで』 ( 探求社 ) など。 【如是我聞】 春休み中、ぼくたちは新婚旅行にいった。妻と相談して、ベルギーとロンドンを1週間ほど訪れることにした。とくにベルギーは2人とも初めて訪れる国で、ヘントやブリュージュ、アントウェルペンといえば世界史でも登場する場所たちであり、ワクワクした。 しかし、ブリュッセルに滞在中、妻が体調を崩すということがあった。理由はよく分からないが、とにかく辛そうだ。とりあえずその日は、日がな一日、どこにも出かけずにホテルの部屋で体調の回復につとめることにした。ご飯を食べてしまえば、あとはとくにやることもないので、ぼくは中公新書の『ベルギーの歴史』という本を読んでいた。隣では、妻がしずかに寝息をたてている。一冊を読み終える頃には、ぼくはベルギーが歩んできた複雑な歴史に、眩暈にも似た感覚を覚えた。 本を閉じると、もう昼過ぎだった。換気のために開け放した窓からは、街のざわめきがきこえてくる。異国の言葉で呼び交う人々の声、石畳をてろてろ音を立てて走りゆく自動車、街路樹でさざめく鳥たち、遠くからは教会の鐘が時を告げている・・・。 ぼくは部屋の窓を通して、世界の「音」に耳を傾けていた。それらは今までも存在したはずなのに、ぼくが気づかなかった「音」だった。 妻は眠り続けている。もしかしたら、この旅では色々と予定を詰め込みすぎて、疲れが溜まっていたのかもしれないな。思えば出国前も、仕事や、新居への引っ越しなどでゆっくりする時間もあまりなかった。体調はどうだろうか。どのような夢をみているだろうか。こういう時間を過ごすのもたまには悪くないな、と思った。 翌朝、幸いにして妻の体調は無事に回復した。本当に良かった。しかし、その後、ユーロスター