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11月, 2012の投稿を表示しています

自信教人信 (自ら信じ人をして信ぜしむ)

今週の一週一言                               11月26日~12月2日 自信教人 ( じしんきょうにん ) 信 ( しん ) (自ら信じ人をして信ぜしむ)                         善導大師 善導・・・ 613年生まれ、681年没。親鸞聖人が師と仰がれた中国の高僧。  【如是我聞】   本校の初代校長清澤満之先生は、大谷大学の前身である真宗大学の初代学長も勤められた。先生は「真宗大学開校の辞」において、この善導大師の語をひいて「我々に於て最大事件なる自己の信念の確立の上に其信仰を他に伝える即ち自信教人信の誠を尽すべき人物を養成するのが本学の特質であります」と述べられた。  本校もまったくこの教えをもとに、開設されたのである。 本校の建学の精神である「樹心」とは、「自らの心を広大な仏の願いの中に置く」ということであり、東本願寺の標語である「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」も同じ趣旨である。  人を教化しようとするとき、まず自分がその生き方を実践し、それが良いものであること実感しておくことが第一だというのである。  この頃のグルメ番組を見ても、材料や彩りの良さは伝えることは出来ても、本当にその食べ物が美味しく安全で、何よりも生きる力になることは、なかなか伝わりにくい。 まず無心に食べて「うまい!」という実感が得られること、それが生きる力になる。          (文責:如)

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし

今週の一週一言                               11月19日~11月25日 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし                       宗祖親鸞聖人 親鸞・・・ 1173年京都生まれ、1262年没  【如是我聞】   我々にとって最もなじみある法語であり讃歌である。法要の最後を飾り、本山報恩講でも、最終日に高らかに詠いあげられる。しかし、問題はその後である。よかった、よかった、終わった、終わったという訳にはいかない。なぜなら、歌のような気持ちが、悲しいぐらいに湧いてこないからである。湧かないとすれば、身を粉に、骨を砕きなど、絵に描いた餅ならぬ、歌に詠われた単なる美辞であろう。私は、ここ数年いつもそのことが気になり、そして気になりつつそのまま放置していた。  では、宗祖はどうであったのか?報恩感謝の念に満ちあふれて生きられたのか? 恩徳讃に続き、次のような和讃がしたためられている。   仏智の不思議をうたがいて  自力の称念このむゆえ    辺地懈慢にとどまりて   仏恩報ずるこころなし  宗祖も私と同じであった。仏恩を報ずる心はないのだ。 しかし、どこまでもそういう自分自身を厳しく見つめ続けるところが、うやむやに誤魔化し続ける私との決定的な違いである。恩徳讃に続くこの和讃を読み、つくづくそう感じる。                      (文責:そ)

いかに文釈をおぼえたりとも信がなくはいたずらごとよ

今週の一週一言                               11月12日~11月18日 いかに文釈をおぼえたりとも    信がなくはいたずらごとよ                     蓮如上人 蓮如・・・ 1415年京都生まれ、1499年没 真宗の僧侶。本願寺第8世、中興の祖。衰退の極みにあった本願寺を再興し、現代の本願寺教団(東・西本願寺)の礎を築いた。 【如是我聞】   この一言を読み、なるほどごもっとも、と頷く。そして我々は、そうだ「信念」が大切だ、何事も「信念」をもって行動すべきだ、と納得する。しかし、この「信念」というやつが甚だやっかいである。  そもそも信念を伴わない行動などというものがはたして存在するのだろうか?強いか弱いかを別にして、何らかの判断、思いが我々の行動の先にはあるはずだ。しかし、それがあまりにも、そして恥ずかしいばかりに利己的で、かつ場当たり的であることが問題なのだ。  確たる信念は美しい。しかし、人間はそれによって他者を傷つけたり自分が傷ついていったりもする。しかも、強ければ強いほど取り返しのつかない傷つき方をしてしまう。 えーい、ままよ!信念などくそ食らえ、俺は流され流され生きてやる!!  それもまた、身勝手な信念であった。ころころ変わるのも私の信念の特徴かもしれない。                      (文責:そ)

苦しみの報酬は経験なり

【11月 5日】  苦しみの報酬は経験なり アイスキュロス  前 525 ~前 456          アテネの三大悲劇詩人の一人。『アガメムノン』・『縛られたプロメテウス』などが残る。  私たちは自分の苦労話をするのが大好きです。しかし、さまざまな苦しい 出来事に遭い、その結果として得られた経験が、単なる苦労話にとどまって いては、自分の糧となる生きた経験とはなりません。その苦しい経験が他者 へも向けられ、他者への共感となってこそ、本当の経験となるのでしょう。 なぜなら「私」一人の苦しみは、実は人類全てに共通する苦しみであるはず だからです。私たちは孤立しているわけではなく、不可思議としか言いよう のない他者との様々な縁によって、ただ今このいのちをたまわっている存在 です。他者とのかかわりなしに、この私は存在しません。私たちは単独で生 きているのではなく、相互依存の関係の中を生きているのです。相互依存の 関係を生きている以上、他者の苦しみに「知らん顔」するわけにはいきませ ん。 病を得てはじめて健康のありがたさを知り、大切な人をうしなってはじめ ていのちのはかなさを実感する。そのような人は同じ境遇の人に優しくなれ るはずです。これこそがアイスキュロスのいう報酬かもしれません。 (や)

すぐ「わかりました」という人間に、わかったためしはない

【10月29日】  すぐ「わかりました」という人間に、わかったためしはない 小早川隆景     1533 ~ 1597          毛利元就の第3子。安芸の小早川家を継ぎ、毛利氏の中国覇権確立を助けた。秀吉の五大老にも列し、朝鮮出兵にも従軍した。  すぐにわかりましたと言う人は、その指示さえ守ればいいと思っているの で、自分の頭で考えようとしません。臨機応変の対応に弱く、応用がききません。そんな人は命がかかった戦場では使えないのです。隆景にとって、そのような部下は扱いに困る存在であったに違いありません。「わかったためしがない」とわざわざ言っているのは、周囲にそんな人物が多くいたからかもしれません。  使い勝手の悪い部下を持って苦労しているのは何も隆景だけではありません。私たちも同様かもしれないのです。例えば知識として仏教を学んでいても、そこにこの私自身を通した実感がともなわないと、仏教は生きた教えになりません。これを確かめ続けることを聞法といいます。聞法に終わりはありません。一生続けなければならない大切なことです。「聞く」ことは「信じる」ことと別々のものではなく、一つのものだからです。 また聞法は、けっして私にとって役に立つ言葉をさがすことではありません。そうではなく、逆に自分の生活を常に照らし出してくださる言葉に出会うこと、つまり、言葉につかまれる体験だと思います。そしてそのように私の血肉となった言葉だけが、私の本当の学びとなっていくのだと思います。 ともすればその場だけのこととして、あるいは今度の授業で使ってやろうなど、仏教の言葉を自分の都合でしか聞いていない私です。蓮如上人はこのようなありかたを、「 意 ( い ) 巧 ( ぎょう ) にきき」、「ただ、 得手 ( えて ) に法をきく」と厳しく戒めてくださいます。 (や)