今週の一週一言 6月27日~7月3日 我が目にて 月を眺むと 思うなよ 月の光で 月を眺むる 源空 源空・・・1,133年~1,212年 平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門で天台宗の教学を学び、承安5年、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を称えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。親鸞は終生師と仰ぎ、「真宗興隆の大祖」と呼ぶ。法然は房号で、諱は源空、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。 |
【如是我聞】
法然上人の月の和歌としては、「月かげの いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」が有名である。現在、浄土宗の「宗歌」ともなっている。以前、この一週一言にも登場したと記憶している。今回の「我が目にて」の和歌は、法然上人の作とは確定されていないようだ。私もそのように感じる。おそらくは「月かげ」の和歌に着想を得た、後世の念仏者が作ったものではないか。ただ、そうであるにせよ、上人の仏教観を見事に言い当てたものだと感服する。我々は己の力で何事かをなし遂げたいと願ってやまない。何ものかが成就したとき、自らの爪痕を探すのだ。そこに人間の焦りや傲りが生まれる。
そんなどうしようもない人間業は、あまりに重すぎる故に、ちょっと脇へ置こう。それよりも興味深いのは「月」ではないか。古来、月に心惹かれてやまないのも我々人間である。
月と太陽。陰と陽、全知全能にして生命の根源が太陽であるならば、月は死、までもいかぬにせよ、弱さやかげり、柔らかさ優しさを象徴しているように感じられまいか。昨今大騒動となった「スーパームーン」は、だからあまりに頓珍漢である。
朝ぼらけ 有り明けの月とみるまでに 吉野の里に ふれる白雪
「有り明けの月」はもの悲しげで趣深い。輝きを失っていく月は、地平線に沈むまで全力で熱と光を放射し続ける太陽に比して、なんと気高いものか。月は眺められようが、太陽は見た者の目を潰す。
何事も完璧にやり通せぬ、妥協や言い訳に終始する人間は、やがて必ず衰えていく我が身を、月に投影するのだろうか。
そして、となりのかわいこチャンに微笑む。
「月が綺麗ですね」
(文責:国語科・宗教科 曽我)
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